俺が、彼、柏久保くんの声が良い声であることを知っている理由
そのどうしようもなく柔らかいお尻を見つめながら、さらに俺は体を低くする。
しかしその時だった。
牧之さんに気付かれないようにと、研ぎ澄まされていた五感でどこからか視線を感知した。
少し緊張しながらその視線の発信源を探す。
そして、目が合った。
その男の名前は柏久保。
その柏久保くんの声が渋くダンディで良い声であることを俺は知っている。
あれはそう、去年のある夏の暑い日のこことであった。教室の窓、ドアは全て閉められ、さらにカーテンをも閉ざされ、文明の利器である冷房の恩恵に全力であずかるような日が続いていた時だった。ちょうど期末のテスト期間が終わり、あと数日で待望の夏休みに入るということで、なんだか学校全体が浮足立っていた。俺のいたクラスも例に漏れることはなく、どこかそわそわしていた。
そんな教室で一人、さらに誰よりも気がはやまっているように見える男がいた。地に足がつかないとはまさにこのことで、「地に足がつかない」が欲望と阿呆という服を着ているようだった。
いや、間違いだ。まだこの時の彼は誰よりも落ち着いていた。息は驚くほどに整い、それでいて潜めるように静かであった。どこかに沈むかのように薄くなっていった。それでいて、目は血走るほどに全力で見開き、少し怖かった。
テストが終わったことへの高揚感と、夏休み直前の上擦った空気に包まれたクラスメイト達の目には、異様であるはずの彼のその姿は映っていなかったのだろう。
しかし俺は彼を見ていた。俺はかねてより彼の目に宿る何かに惹かれたのだ。それは形容しがたいものではあるが、仲間意識というか親近感、または敬服というか尊敬の念みたいなものを抱くには申し分ないものだった。
そんな彼が教室の後ろで静かに動きだした。
彼はゆっくりと床に手をついて、制服が汚れるのはお構いなしのように、躊躇なく腰を下ろす。さらには、そこから足を伸ばして、それをそろえて床に寝かせる。一瞬、その一挙手一投足が麗しき人魚に見えた。俺の目は冷房に当たらずに腐ってしまっていたのか、それとも当たりすぎて乾ききってしまっていたのかのどちらかだ。
まあいずれにせよ、彼は俺以外の誰にも気づかれることなく、教室の背後で床に寝そべったのだ。テレビを見るおっさんのように腕で頭を支え、なんだか満足げだ。
しかし彼のしたいことはこれだけではないだろう。いくら猛暑が続くからと言って、彼の脳がゆであがっているとは思えにくい。なにせここは冷房の効いた快適な教室内だからだ。
ここからどうするのか、何をしたいのか、彼の行動に大いに悩む。本当に何がしたいのか、全くもって見当がつかない。
しかしその時だった。
彼の頭を支えていた右手が床に着き、頭が床に近くなる。そしてその右手を辿るように、いわば匍匐前進の要領で、これまた静かに動く。
彼の進行方向になにがあるのか。そのホコリの少し目立つ床を辿って視線を動かす。
するとどうだろう。
彼から数メートルもないところだった。
そこだけ、まるでどこか高原の涼しげな空気が漂っているような、そんな清涼なオーラを感じた気がした。ついでにきらきらと煌めく粒子も見える。
息を呑み、さらに目を見開く。
涼しいはずの教室にいるのに、心臓が高鳴り、体温が徐々に上がっていくのを感じた。
そこに立っていたのは、この学校一の美少女と噂に名高い牧之さんと三津さんであった。
彼はその美少女二人に向かって、静かに、何かのハンター、獲物を狙う肉食の獣のように近づいていく。
これがなんてことはないただの6月の半ばの平日とかだったら、即座に彼の奇行は衆目に晒されていただろう。しかし夏休み前のこんなふわふわしたテンションの教室では、たとえ彼の危ない目が狙うウサギさんでも彼には気が付かない。
じりじりと彼は彼女たちに、いや三津さんに向かっている。
瞬間、俺は確信する。
彼がせんとすることを。彼の目的を。
彼が狙うのは獲物を噛み絞め殺すための首なんかではなく、もっと下。もっと言えばそのスカートの中身。
そう。
パンツ。
彼は三津さんのパンツを拝もうと、埃まみれになってまで、そしてその危険な体勢で彼女に近づいているのだ。あの体勢ではパンツを見られ怒り心頭となった彼女の御脚が簡単に振り下ろされてしまう。危険すぎる。
そこまでしてパンツを拝みたいのか。
ああ知っているとも。
そこまでして見たいのだ。
例え足蹴にされズタボロになっても、危険を冒してまでも見たいのだ。そのデメリットを帳消しどころか、それさえもメリットに置き換えてしまう、そこまでの力がパンツにはある。きっと振り上げられた足の隙間からもパンツを見る気なのだ。彼のその埃だらけの凛々しい笑顔がそう語っている。俺にはわかる。
なんてばかばかしいんだと誰が笑うだろうか。
誰が彼の事を「さいてー」と言って評価を下げるだろうか。
もしかしたら誰かがそう後ろ指を指すかもしれない。
しかし彼は俺の中で勇者となるのだ。
彼は伝説になろうとしているのだ。
そしてその瞬間が着実に近づいている。
彼はもう彼女の足元まで到達していた。あとは顔を上げるだけだ。他人の行うことだが、こちらも無駄に緊張する。ごくりと唾を飲み込み、手汗を握る。背中にも汗が伝っているようだ。しかしそんなものには気を配っていられない。彼のその雄姿を一寸たりとも目を離せない、離してはいけないのだ。同士として。
そしてその時がきた。
彼が天を仰いだ。
ついにやりやがった。
彼は伝説になったのだ。
彼の顔が見るからに恍惚としたもの…に?
ばかな、なぜだ。
パンツを見たはずの彼の顔は幸せのそれではない。眉間に皺をよせ、何かに縋るような、何かに手が届いていないようなそんな表情だった。
どうしてだ、と疑問符が浮かぶ。パンツがあんな顔にさせるはずがない。パンツは全男子の夢と希望。嫌なことも辛いことも忘れさせ、幸せにしてくれる特効薬のはずなんだ。
だのにどうして。
あの顔はなんなのだ。パンツを見られたのではないのかっ。
ここではっと得心する。
彼は幸せな顔になっていない。だとしたらパンツを見られていないのではないのだろうか。しかし彼は確実に三津さんの下にいる。それでいてなぜパンツを拝見できていないのか。
ま、まさか。
まさかスカートの中はあまりにも暗すぎるのか。
あそこまでしてもパンツは見られないというのか。
なんという残酷。
あまりにも悲劇。
そこまでパンツは遠いのか。
彼の今の心中を察すると涙ぐむ他ない。
しかし三津さんの影が落ちる彼の目はあきらめのそれではなかった。
彼はスラックスのポケットへと静かに腕を伸ばし始めた。何を取り出すのかその隆起へと目を細める。携帯ではないようだ。携帯のように薄くはないようで、それは筒状に見える。
そしてそのポケットから出てきた彼の手に握られていたものは…まさかっ
懐中電灯。
まさか照らすのかっ!
それはペンライトのような細身ではなく、掌全体で掴まなければならないほどの太さを誇る正真正銘の懐中電灯。まさかこうなるとわかっていてその懐中電灯を持ってきたというのか。流石としか言いようがない。彼はそこまで本気だったのだ。
そして彼はその懐中電灯を三津さんのスカートの中に向け、静かにその懐中電灯のスイッチを入れた。
瞬間、彼の顔がほころんだ。この上なく幸せそうである。だらしなく鼻の下が伸び、それでいて目はこれでもかというほどに見開かれていた。鼻息も荒そうだ。
そんな彼は彼女に気づかれない限りパンツを覗き続けた。その間、実に一分。これはもう上出来すぎるほどの堪能時間。
そして懐中電灯のその明かりに気が付いた三津さんが、蔑む瞳で彼を見下す。しかし彼はその目に臆することなく、こう口を開いた。
「いやー、絶景かな絶景かな」
その声は実に穏やかでそれでいて渋く良い声であった。
「春のながっごっぐがっぐっ!」
彼はさらにそのいい声でセリフを続けようとするが、三津さんの降り注ぐ怒涛の御脚に憚れた。しかし彼はその豪雨に怯むことなく、人によっては醜く見苦しく足掻いているように見えるかもしれないが、彼は三津さんの足が顔に当たっても、酷い嗚咽を漏らしても、パンツを見上げ続けていた。
正直にその姿は勇者そのものであった。
しかしその後の彼がどうなったか想像に難くない。
噂は一人歩きどころか猛烈ダッシュを極め始め、誇張や不確定な言伝てという名の観客の揃わないかしわ手に後押しされるように見事な助走を決める。そして踏み切り板から出てしまわないファウルギリギリのこれほどまでにないほどの綺麗な踏み切りを見せ、噂好きの女子たちという追い風を受けながら素晴らしい三段跳びをぶちかまし、さらにはその止まらない勢いでもって、三津さんのファンクラブと言う名のポールを用いた棒高跳びまで極め込んだ。しかしその噂はバーを越えようとはせず、体を当てにいき、そのイケメンでいい声をもち陸上部で運動もできて人気者であった彼という名のバーを勢いよく落下させた。
そんな失墜しきった彼とつるむことは己の保身を考えればごめんこうむりたいところだ。しかし俺は彼に接触しなければならない、そう思った。どうしても彼に聞かなければならないことがあるのだ。
彼が伝説となってから数日後。彼とアポイントメントを取り、あまり人の近寄らない校舎五階の隅の教室で落ち合う。
夕日に照るその蒸し暑い教室で彼を待った。
そして数分後、静かにドアが開かれ、彼は相変わらずのイケメンな顔で笑う。
「待たせたかい?」
「いや、今来たところだ」
このセリフは、次はぜひ、女の子に向けて言ってみたい。
「しかしこんな僕と一緒にいるところを見られたら君も危ないんじゃないか?」
柏久保君は己の社会的地位とそれによる俺への影響を案じてきてくれた。イケメンで運動もできて、それでいて他人も気遣う。本当にできすぎた男だ。
「ふっ、何を今さら…昔からよく言うだろう?…パンツ好きに悪い奴はいないってね」
「ああ、僕の爺さんもよく言っていたよ。いいかよく聞け、我が可愛い孫よ。この世には二種類の人間がいる。パンツを好きな人間とそうじゃない人間じゃ。そしてどちらにも善人はいるが、儂が会うた悪人はみな後者の者じゃった。憶えておきなさい。パンツ好きに悪い奴はいない、と。これを心に、パンツとはなにかという問いを探求し、そして極めるのじゃ。ってね」
彼はおそらく彼のじいさんの声真似までして、なんだかとても為になるようなことを言ってきた。そして同時にその言葉はどこかで聞いたことのあるような気がして、うーんと一考する。柏久保…パンツ…ここでようやく思い出す。
「じいさんって…おいおいまさか、君のじいさんって、あの柏久保家創始以来切っての天才と呼ばれたあの?もしかして君は柏久保家の…あ、もしかして懐中電灯を使っていたのって…」
「あれ?言ってなかったかい?そうだよ、僕のじいさんの名前は柏久保不捲ノ介。柏久保流の家元さ。そして僕が柏久保家の五代目。あの懐中電灯を使うのは、『下衣中点灯』という柏久保家に代々伝わる基礎的な技さ。あれの前身であり応用でもある鏡を使った『下衣中鏡点灯』というのもあって、これは太陽光を鏡で反射させて照らす技。相手に気づかれにくいという利点があるんだ。その代わりに難しいけどね。なんとなく君にはできそうな気がするよ。あ、そうだ。君も柏久保家に入門しないかい?」
「そうだな…実に魅力的な話だが、柏久保家は不捲を信念としているだろう?そこが俺とは合わないな。別に否定しているわけじゃないんだ。ただ俺はスカートを捲ってパンツを見たいんだ」
スカートを捲ってこそのパンツだと思っている俺には柏久保家のその理念とは根本から違っていた。彼らの求めるところはパンツそのものであり、俺が求めるものはスカート捲りありきのその延長にお目見えするパンツなのだ。
「そうか、分かっているよ。なんせスカートを捲りたいって言って出ていく門下生を幾人も見てきたからね。そういえば昔、同じように誘って同じように断られたことがあったな…まあもしスカートを捲るのが億劫になったら、いつでも来てくれて構わないよ」
「ありがとう」
果たしてスカートを捲ることが億劫に感じるようになる日が来るのだろうかと考えてはみたものの、俺に限ってそれはなさそうだった。
「それで話というのは?」
彼は夕日が眩しそうに目を細めながら口を開いた。
「ああ、もちろん、先日の一件の事さ。少しばかり聞きたいことがあってね。」
「聞きたい事?なんだい?」
彼はどこか演技じみた口調で聞いてくる。
「わかっているだろう?…彼女の…三津さんの…あのときの三津さんが穿いていたパンツの色は何色だったんだ?」
俺のどうしても聞きたくてしょうがなかったこの質問に、彼はすぐには答えてくれなかった。
「…君はそれを聞いてどうするんだい?」
「そんなわかりきったことを。もちろん…妄想するのさ」
「だろうな。そうだな、ここであの時三津さんが穿いていたパンツの色を言うのは実に簡単だ。しかしそれでは面白くない。かといって何かをやるのも面倒だ。…そうだな…君の意見を聞こう。三津さんはあの時、何色のパンツを穿いていたと思うかい?」
彼はどこか俺を試すようなそんな印象を抱かせる表情だった。
「面白い質問だ。…そうだな…彼女のイメージからして…黒…いや青色、かな?」
「ほう、なるほど。興味深い。…君は彼女をそう見たのか」
どこか含みのある言い方で、自分の推測が誤りであったのかと無駄に勘ぐってしまう。
「…違うのかい?」
「いいや、ほぼ正解だ。彼女は水色のパンツだった。」
「ほう…なるほど…趣深いな」
水色か…ぐふふ。ぐふぐふふ。
「だろ?しかし僕は彼女のパンツを見るまでは、彼女は黄色のパンツを穿いているじゃあないかとそう予想していたんだ」
俺の予想、そして事実とは全くもって異なる色を彼が挙げた。
「ほう、理由を聞いてもいいかい?」
「そうだな…彼女は見た目も態度も落ち着いているだろう?この表面を見ただけなら君の言った通り青系だ。しかし僕は彼女の内に秘めた明るさ、天真爛漫さがパンツに現れているのではないかと思ってね。それで僕は、彼女は黄色のパンツを穿いているじゃあないかと、そう予想したのさ」
確かに、俺も三津さんの雰囲気からパンツの色を予想した。
「なるほどな。しかし彼女は…その見た目に反することなく、青系の水色のパンツだったのか」
「ああ、やられたよ。…僕もまだまだ修行が足りないみたいだ」
彼はどこか遠くを見るように静かに呟いた後、この教室に設置されている時計を見上げた。
「おう、もうこんな時間か」
「修行かい?」
「ああ、三津さんへの下衣中点灯を四代目に報告したら、案の定さ」
同級生のスカートの中身を覗いた事、さらにはその中身が何色であって、そしてその色は自分の予想と異なっていたという事までも四代目即ち父親に話すなんて、少し異常だと思った。
「そうか。俺も自分が一番かわいいから表立って君を応援することはできないが、頑張れよ」
今もこうして彼と話しているのが少し怖い。せっかくどうにか彼女になんとなく信頼されているのだ。瓦解させたくはない。
「何言ってる。一番はパンツだろうよ?」
核心をついてくる。
「違いねぇ」
「じゃあな。君も頑張れよ。」
「ああ、ありがとう。」
そうやって二人で小さく手を上げながら、密会を解散した。
それからというもの、人前では決して言葉を交わさないが、時々彼の良い声なしの視線での会話をしている。
そんなわけで、彼、柏久保くんの声がいい声であることを俺は知っているのだ。




