僕が、彼女、三津小海との約束を失念した理由
そんな彼女の右腕に、これでもかというほどに警戒する。
いやいやまさか俺に気づいたわけあるまい。動けーどっかいけーと全力で念じていると、念願かなってその腕が彼女の可愛らしいお尻から離れていった。よっしゃっとガッツポーズするような心持ちでもって、今再びスカートを目指す。
確か掴もうとしていたのはこのあたりだったなーと素晴らしい太ももと俺の肩幅を頼りに腕を前進させる。ゆっくりと尚且つ静かに息を吐きながら緊張して両手を運ぶ。おでこの髪の生え際に汗が滲み鬱陶しい。
また誰かの視線も鬱陶しい。
しかしその視線は今までの捲士達とは明らかに違うもので、どこか懐かしさを感じるものだった。
そう、その視線の持ち主はどう探っても、どう浴びても、彼女の話し相手である、三津さんのものだった。
同時に俺はここで、もうどうしようもない過ちを犯していたことに気が付く。
それはどう見ても明らかで、三津さんと右目だけではあるが目が合ったのもこれが原因の一つだ。その三津さんは牧之さんの真正面にいるわけではなく、若干右にずれている。だから目が合ってしまった。それでも俺がその過ちを犯しているのは明らか。
しかしそれだけ明らかなのになぜ俺は今まで気が付かなかったのかと不思議に思う。
だがそれに気が付くのに「今まで」では、それも遅すぎる話なのだ。
そう、これは牧之さんの後ろに立つまでに修正しなければならなかったことなのだ。
そう、俺は、完全には彼女の真後ろにはしゃがんでいなかったのだ。
今から彼女の真後ろに移動するには、どうしても難しい。
それは衣擦れ音に加えて靴擦れ音?足音というか足擦り音、すり足音とうか、まあ要するに音が出てしまう可能性が高いのだ。衣擦れ音はまあゆっくり動けば何とかなるかもしれない。しかし問題は足音の方なのだ。
何を隠そう。
御ニューなのだ。
新調したばっか。
上履きの裏なんてもう、キュッキュ鳴る。
という事で横移動は断念せざるを得ない。俺は大人しくその彼女のやや右後ろに佇み続ける。ついでに三津さんとも目が合い続ける。そんなに俺を見つめていたら、もしかしたら君の事を好きになっちゃうかもしれないからやめてーと思う振りをしながら、三津さんのその目の向きで牧之さんに気づかれてしまうのではないかとひやひやしていた。
しかしそんな三津さんは俺を止めようとも、咎めようとも、いつかのように足蹴にもせず、ましてやもう目を反らしてしまった。そしてまるでなにもなかったように、なにも見なかったような振りでもするかのように、牧之さんとの会話を再開させた。
彼女の真意がつかめない。しかし本当に。うん、多分。
いつのことだったろうか。あれはそう、まだ酷く叱られていた時だった。
「違う!そうじゃない!腰をもっと低くだっ!もっとっ!」
「は、はいっ!」
僕はその怒鳴り声に大人しく従って、足を広げ言われた通りに腰を低くする。そしてその足をプルプルさせながらぎこちなく両腕を前に出した。
「肘が広すぎる!脇を締めろっ!」
「お、おす!」
この大きな声にもおずおずと従って、腕を狭める。するとまた声が響いた。
「狭すぎるっ!」
「お、押忍っ!」
そうやって道場の中に僕と師範代の声だけが響く。いわゆる居残り練習。この厳しいと有名であるのに何故だか人気のある道場では僕は当たり前のように落ちこぼれだった。
そしてようやく一時間ほどの居残りが終わって、帰宅の支度をし始める。
だけどその時だった。
どこからか視線を感じた気がした。だけどその視線の発信源は探すまでもなく、誰のものか分かっていた。その視線の主である彼女は道場の隅でちょこんと膝を抱えて座っている。稽古中、気づけばそこにいて、いつもいて、それでも稽古には混ざろうとしない。僕の居残り練習の時までずっとそこにいる。
そんな彼女に僕は裸足をぺたぺたと鳴らしながら近づいてみる。学校にいるときですらあんまり喋ったことがないから、少し緊張する。
「君はやらないの?」
「逆に聞くけど、君はやってて楽しいの?」
彼女の抑揚のない言葉が静かに響く。その質問に、落ちこぼれの僕はうーん、と考えてはみるけれどすぐに答えを出さないで、代わりに聞いてみる。
「君はいつもここにいるよね。それってやりたいってことじゃないの?」
「違うわ。パパに言われてここにいるだけ。私は興味ない」
少し鋭そうな目を向けて低く言ってきた。相変わらずの僕はそれに少し怯えながら、それとは違う最大の怯えの原因について口を開く。
「師範代、怖いもんね」
「家じゃ優しいよ」
「そうなんだ」
彼女のその言葉を聞いても、ニワカには信じられなかった。優しい師範代なんて想像しただけでも、可笑しくてたまらない。しかしそんな優しいパパなら、そのパパの言いつけを破っても怒られないだろうから、やっぱり彼女がここにいるのが不思議だった。
「私の質問に答えてない」
膝の上に顎を乗せた彼女は、その頭を揺らしながら急かす。
「あーうん。楽しいと思うよ。じゃなかったら辞めてるし」
「そんなに頑張ってどうするの?そんなに見たいの?」
彼女はそのまだ丸みを帯びた顔を膝から離しながら聞いてきた。僕はあらかじめ準備していたように、待ってましたとばかりに口を開く。
「うん、見たいね」
少し胸を張って言ってみたけれど、少しだけ恥ずかしかった。仮にも相手は女の子なのだ。その女の子の前でこういう事を言うのはやっぱり恥ずかしい。
「…私のも…見たいとか、思ったりする?」
なんとなく掴みどころのないような言葉が、彼女のその独特の抑揚のなくそれでいてゆったりとした声に乗ってきた。僕はそれに正直に答える。
「うん、見たいね。見せてくれるの?」
ここは聞くべきだろうと少し頑張ってみた。
「すっごい見たい?」
「すっごい見たい」
ごくりと唾を飲み込んで、道着を持っていた右手に少し力を入れる。
「…じゃあ約束」
「約束?」
取り敢えず聞き返す。
「うん。君がすっごく強くなったら、その時、捲らせてあげる」
「それ本当?」
「…ほんと」
彼女はこくりと小さく頷いて、目を反らしながら肯定した。
「じゃあ約束だ。待っててね。僕、絶対にすっごく強くなるから!」
当時の俺はただ単純に、無邪気に彼女のパンツが見たかった。ただそれだけだった。
フラグなんて立てた覚えもなにもないのに、そんな彼女から発せられたその言葉を信じて真に受けて、なぜ彼女があんな事を言ったのかも深く考えないで、ただ馬鹿みたいに彼女のパンツを目指して努力した。
誰よりも早く道場に来ては練習を始めて、居残り練習を長くしてもらって、道場がない日は学校から帰ってきてすぐに家でも練習した。それに週二回通っていた空手を辞めてその空いた時間も費やした。
そうして段々と力が付いて、いつの間にか居残り練習をやらなくなり、大会にもよく出させてもらって、さらには優勝するようにまでなった。そして優勝が当たり前となって、学年別では優勝が見えているので、中学生、さらには高校、大人にまで交じって出場することもよくあった。
そして僕はいつしか、神童とまで言われるようになった。
僕の捲道は見るものを魅了し、あまつさえ、被捲者さえもその見事な捲り上がりに、怒りさえ沸く余地もなく、感嘆さえ上げる。と誰かが言っていた。そしてその捲道の美しさは見た者の心を癒し、治すとまで言われ、いつしか「修繕の修善」とも呼ばれた。また僕の得意とした捲術が「沈裏」というもので、よくそれを使っていたので「沈みの修善」とも言われていた。
だけど、どう他人が僕を見ようとそんな事どうでもよかった。
僕はただ、もっと強くなりたかった。
だから捲り続けた。
どんなに腕が疲れても、どんなに足が震えても、僕は捲り続けた。
だけどある日の事だった。
僕の通う小学校に転校生がやってきた。
綺麗な髪に、大きな目、薄い唇にいい香り。僕は小学生ながらその転校生に一目惚れした。
それからというもの、小学生特有の好きな子にイタズラをしてやろうという心理に加えて、自分の打てば響くような、そんな才能というか実力が楽しくて、彼女に対してスカート捲りをするようになった。正直に僕はその転校生に夢中だったのだ。
ただ彼女のスカートを捲りまくった。
鍛錬さえ忘れて。
約束さえも忘れて。
ただ自分の欲望に任せて捲りまくった。
そんなある日。僕は教室に忘れ物を取りに、誰もいなくなった放課後、少し寒くなった廊下を進んで、ドアの開いたその教室に入ろうとしたその時だった。数歩手前で誰かの声が聞こえて立ち止まる。じりじりと近づいて、そしてその声の持ち主を、自分の記憶を頼りに探すとすぐに見つかった。その教室に残っていたのは牧之さんと三津さんだった。二人の仲睦まじい声が聞こえて、あまり聞いたことのない三津さんの笑い声さえ聞こえた。だけどそんな声に驚いているよりも、ある野望が頭を過ぎる。
これはチャンスだ、と。二人同時に誰にも邪魔されることなく、スカートを捲ることができるのではないかと。
僕は意を決して、教室に入ろうと一歩大きく踏み出した。
だけどその時だった。
三津さんが綺麗に舞う。
それはどう見ても、僕が何回も反復して練習した、初歩中の基礎の技「三の裏」の一つである「内裏」だった。この技は太ももの内側の後ろあたりのスカートを掴み裏返す、という技で、「沈裏」「虹裏」の三つの「裏」技でまとめて「三の裏」と呼ばれていた技の一つだ。そんな基本の技を三津さんが牧之さんへと繰り出していた。
夕日に照る教室で美しく、幻想的に翻る。
僕は彼女のその捲道に魅了されると同時に、自分の無力さを突き付けられた。
それから僕はいわゆるスランプに陥った。
あれだけのものを見たのだ。自分の「内裏」とは比べ物にならない程に、滑らかで、美しく、それでいて力強くて、どうしようもなく完成されていた。
同時に自分に絶望した。
自分が未熟すぎて、それを自覚した時、もう思うように捲ることができなくなっていた。
忘れていた道場にも行って、何度繰り返しても遠い。
何度牧之さんに繰り出しても遠い。
あの時見たように、夕焼け空の教室で、カーテンをスカートに見立てて何度翻しても、遠い。
大会に出ても優勝にはほど遠い、予選落ち。
何もかも身が入らない。
思ったように翻らない。
思ったように捲れない。
僕は道場を辞めて、捲道を辞めた。
そして一切関わらなくなって、想起することもしなくなった。
そんな感じで、三津さんとはこれっきりで、小学校、中学校、現在の高校と、何度かクラスは同じになるも会話すらせず、目さえ合わなかった。
いや、合わせなかった。俺は彼女をどこか避けていた。目を合わせ、言葉を交わしてしまうと、何かが蘇るような気がしていた。
というわけで、彼女が何を考えているのか分からないのだ。いや、違う。彼女にどう接すればいいのか分からないのだ。
そしてそんな彼女から目を離し、止まっていた手を動かそうとしたとき、思い出したかのように、慎重に右足を動かし始める。キュッキュ鳴らないように極めて慎重に。そしてそのキュッキュ鳴るゴム底を天井向けた。つまり足の甲を床につけたのだ。少しばかり足首が痛むが致し方無い。これでキュッキュ鳴らずに足を動かせる。
俺はこれまた慎重にその右足をさらに後ろへと広げる。つまり超深いアキレス腱伸ばしのアキレス腱を伸ばさない体勢だ。
そしてその窮屈な体勢で、息をゆっくりと吐きながら、腹筋、背筋、ハム、前脛骨筋、ありとあらゆる筋肉を硬直させ、固定する。
さらに先ほど目星をつけていたスカートの位置にこれでもかというほどに集中する。
汗が鬱陶しい。
手汗も、脇汗も、背中を気持ち悪く伝う汗も、額に滲む汗も。鬱陶しい。
それをどうにか気にしながら、ゆっくりと両腕を前に出す。
そして親指、人差し指、そして中指の三本の指で、そっと静かにそのスカートを掴んだ。
これで第二段階、終了だ。




