武漢ドーム
1941年、日本軍が交代して行き、中国に有利な状況が出来つつあった。
それまでは満州を切り捨てる事も考えていた中国側では、満州奪還の機運が高まる。ただ、それは容易な話ではない。まず、誰が行うかという事から問題だった。
そもそも中国では日本という共通の敵が居たから纏まっていたにすぎず、敵が居なくなれば、まずは政治の主導権を握るための内戦が始まるまでに時間は掛からなかった。
中には日本軍をすり抜けて万里の長城を越える部隊もあったが、当然のごとく異形に囲まれ、帰ってくることはなかった。
その様な事件が更に主導権争いに拍車をかけ、再度の内戦は武器の豊富さから苛烈になっていく。
1942年になると満州で動きがあったが、日本軍の戦力は2年前とは比較にならなかった。
地上攻撃が可能な攻撃機や大口径機関砲を備えた装甲車など、2年前の日本軍にはなかった装備だった。今更日本軍と敵対しても勝てるわけもなく、優位な勢力が日本軍と結託したらバランスが崩壊してしまうと打算した中国の各勢力は満州情勢を静観する以外になかった。
そんな最中に武漢近郊で村が消えたと騒ぎが起きる。
当地を支配していた勢力は直ちに調査したが、そこには犬の様な顔を持つ二足歩行の生物や豚の様な顔を持つ二足歩行の生物、角の生えた巨大な猿など、到底地球の生物ではあり得ない異形の生物が闊歩していた。
そして、それらは周りの人間や動物を襲っていた。
調査に赴いた部隊はそれら異形を撃退するが、後から多数出現してくることから援軍を呼ぶ。
ドームの出現は瞬く間に全勢力に弘まり、援軍なのか侵攻なのか訳のわからない状態が起きることになった。
1942年はそうした混乱の中で過ぎ去り、翌年も状況は変わることはなかった。
全勢力が欧州に出現したドームのような資源を夢見てドーム奪取とドーム内の占領を目指して武漢に集中する事態になる。
中国全土の掌握を目指していた中国共産党は他の勢力を煽り立てて武漢へ向かわせた後、主のいない留守に母屋を奪う形で中国北部から上海までを手中におさめた。
1944年になると領地奪回よりも新天地での復活を夢見る勢力も現れて、やはり武漢での泥沼の戦闘は続くことになる。
泥沼に終止符が打たれたのは、誰が勝ったからではなく、ドーム内があまりに広かったからだった。その広さは中国全土の総面積より広いのだった。
ただし、ドームの出現位地は森の中であり、人間が居住している可能性がある地域までは簡単に到達出来るものではなかった。
しかし、そこを新天地とする勢力は旧支配地域の奪還を諦め、ドーム内の占領と資源開発に挑む事に切り替えた。
その結果、中国の内戦は多くの勢力がドームの向こうに消え、虎視眈々と版図を拡げた共産党と、武漢ドームの競争に加われなかった南部の勢力しか残らなかった。
この南部の勢力は欧州勢力の支援を受けて南を地盤に共産党に対抗したため、共産党は侵攻を諦めて揚子江より北側を領域とした。欧州勢力の支援を受けた側もそれに合意して南側を領域とした。
北側が中華人民共和国、南側は中華連邦を名乗る事になる。
ちなみに武漢だが、ここは主にドームの向こうの勢力が支配する地域となり、中華民国を名乗り、現在に至る。
武漢ドームでは金やダイヤモンドなどの稀少鉱物が産出し、他にも魔石と呼ばれる物も産出したが、これは地球では宝石として以外に使い道がなかった。