蝉の羽化
スケッチブックをカバンから取り出し、真っ白いページを広げる。
ペールオレンジを手に取り咲良を見つめる。
田中の眼差しに咲良の耳は赤く染まるが口をギュッと結び我慢する。
「緊張しないでいいんだよ」
「は、はい」
静かな時間に咲良の吐息だけが流れる。
頬まで赤く染まった咲良を観察する。
綺麗で透き通るような白い肌。
腰のあたりまで伸びた長い髪。
その髪の先は少しハネていたがそこもなんだが可愛らしかった。
大きく丸い目に、長い睫毛、潤った唇。
見れば見るほどその整った容姿に吸い込まれるようだった。
そして田中は咲良の絵を描いた。
すなわち未来を見た。
未来が見えた。
「できたよ」
咲良に絵を渡す。
目に映ったのは綺麗な家の前に立つ少し大人びた咲良の絵だった。
「ううっ うううっ」
絵を見た咲良は声を押し殺しながら涙の雫をボロボロ落とす。
田中は目の前の光景を理解することができず慌てることしかできなかった。
少し経つと涙が果てた咲良は湿った頬を袖でこすり立ち上がる。
そして4つほどのシミができたスケッチブックを返した。
「ウソつき」
小さく、短く、悲しく、そして哀しく言った。
そして咲良は見えないところへと行ってしまった。
家に帰った田中は溜まった洗濯物をたたみ、風呂を洗い、夕飯を作った。
好物のカレーも今日ばかりはどこか味気なかった。
それもそのはず、昼間のことが頭から離れなかった。
自分の心の闇を祓ってくれた、救ってくれた、解放してくれた、その咲良が絵を見てから態度が一変した。
何がいけなかったのか、何度考えてもわからなかった。
そもそも「ウソつき」とはどういう意味なのか。
なにが「ウソ」なのか。
咲良に何一つウソを発していない。
ならばやはり「未来」のことだろうか。
だが咲良は未来を見れることを疑ってはいなかった。
なら「未来」の内容が間違っていたのだろうか。
その場合、咲良は咲良自身の未来を知っていることになる。
そんなバカな話あるわけがない。
「はー」
足りない頭をどんなに働かせても、出てくるのは答えではなくため息だけである。
考えることを止めベッドに体を潜り込ませる。
今日は体が軽い。
今日はぐっすり眠れそうだ。
「おやすみ」
誰に言うでもなくつぶやいた。
そして深い眠りについた。
田中は夢を見る。
よく同じ夢を見る。
理由は本人もわかっていない。
だが同じ夢を見る。
その内容は端的に言えば「蝉」である。
地面から出てきた蝉が空を羽ばたき、けたたましく鳴きながら飛び回る夢である。
そういえば、人の未来を見れるようになった頃もよく見た気がした。
日曜日、それはみなにとって休日である。
だが田中にはあまり関係なかった。
好きな時に好きな絵を描く。
田中は自由である。
いや、自由であった。
いつもどおり昼頃に家を出て公園に向かう。
いつものベンチに座り、いつもどおりスケッチブックを取り出し、いつもどおり絵を描く。
だがほんの数分経つとその「いつも」は覆される。
「こんにちは」
真っ白なワンピースを着た咲良は会釈すると昨日と同じく隣に座った。
「こんにちは」
絵を描くのを中断し咲良に挨拶をする。
田中は昨日のことを聞いていいものか迷った。
こちらに不手際があったのなら謝りたい。
ただ、どうしても聞きづらかった。
彼女の奥底に踏み込まなければならない気がしたからだ。
「俺最近同じ夢を見るんだ・・・・」
何を話していいかわからない田中は自分の出来事について話す。
「夢ですか?」
咲良は首を傾げながら聞き返す。
「そう。なんか蝉が出てくる夢」
「蝉・・・・」
咲良は小さく呟きながら下を向く。
「地面から出てきて、そのあとはひたすら鳴きながら飛び回るっていう夢なんだけど、何回も見るから何か意味とかあるのかなって」
ぎごちない笑顔を浮かべる。
自分で話しておきながら自分で苦笑いが出てくる。
話題の選択を間違えたことを後悔する。
「何か意味があるんですかね? 不思議ですね」
またも首を傾げた咲良は真剣に考えてくれているようだったが答えは出なかった。
その後、咲良は何も話さなかった。
昨日のことだけではない。
何も話さなかった。
二人の間には静寂だけが流れる。
だが、不思議と田中はこの静寂が心地よかった。
今までのどんな絵よりうまく描ける気さえもしてきた。
咲良も心地よいのだろうか、心なしか口角が上がり楽しそうである。
「あの・・・・」
日も沈み始めた午後六時近く、咲良が小さな声で話しかける。
「どうしたの?」
「今日も・・・・今日も私の絵を描いてくれませんか?」
咲良はまたも真剣な眼差しで見つめた。
その眼差しは心を貫き、灼くようであった。
「いいよ」
笑顔で答えた。
もう縛るものも悩むこともない。
「俺が描きたいんだ」
その答えが意外だったのか、口をあんぐり開け、驚いた表情を見せる咲良に思いを伝える。
「お、お願いします」
今日もまた、絵を描くため咲良を観察する。
昨日は赤く染まっていた頬は薄いピンク色をしていた。
長い髪は綺麗に流れていた。
絵を描くまで気付かなかったが爪も鮮やかなピンク色になっていた。
「今日は化粧したんだ」
「は、はい・・・・」
化粧をしたことがバレて恥ずかしかったのだろうか、耳が赤くなっていく。
そして数分後、咲良の絵を描いた。
綺麗な家の前に立つ少し大人びた咲良の絵を描いた。
「できたよ」
渡された絵を大事そうに、それでいて力強く抱きしめる。
「ありがとう」
不格好な笑顔でお礼を言う。
「どういたしまして」
田中は自分の胸に手を当てる。
暖かく、熱く、そして温かった。
笑顔を通り越して顔がにやけてくる。
「変な顔ですよ、一也さん」
笑いながら指摘する。
自分の顔のだらしなさに気付き、恥ずかしそうに上を見上げる。
「ぷっ」
「「アハハハハハ」」
こらえきれず二人で大笑いをした。
その声は公園中に響いていた。
「・・・・また明日」
「ああ。また明日」
おそるおそる言った咲良に力強く答えた。
そして二人はそれぞれ帰路についた。
約束どおり、二人は次の日も会った。
その次の日も会った。
すなわち毎日会った。
そして必ず咲良の絵を描いた。
そして必ず「また明日」を告げてから別れた。
そして二人は惹かれあった。




