第五話 迷子の落ち武者
僕は岡嶋さん以外の幽霊も見えるようになったんだろうか?
それは突然頭に浮かんだ疑問だった。
夕方の駅前商店街は、家路についているサラリーマンや学生、買い物中の人たちなど、たくさんの人で賑わっている。
この中に幽霊が紛れ込んでいて、何食わぬ顔をして歩いているのを、そうとは知らずに見てしまっているんだろうか。
なんだか気になってしょうがなかったので、それらしき人がいるかどうか周囲を眺めながらぶらぶらと歩いてみたが、疲れた顔をして歩いている幽霊みたいな人をチラホラ見かける程度だった。
彼らが本当に幽霊なのかどうかは分からないし、もちろん「あなた幽霊ですか?」なんて聞けるほど怖いもの知らずでもない。
「……分かんねーな」
駅前広場のベンチに座ってひとりごちたとき、
「何がですか?」
と、後ろから突然声をかけられた。
驚いて振り向くと、いつの間に来ていたのか、岡嶋さんがすぐ後ろに立っていた。
スポーツウェアを着て、まるでジョギング中のような出で立ちだ。
「いつの間に!?」
「ふっふっふ、隙だらけじゃぞヤスベエ」
「誰がヤスベエだ」
どこの剣豪の師匠のつもりだ。
「で、何が「分かんねーな」なんですか?」
「ああ……岡嶋さん以外の幽霊も見えるようになったのかなって思ってさ、幽霊らしき人がいるかどうか見て回ってきたんだけど、さっぱり分かんなかったんだ」
「はあ、なるほど」
「岡嶋さんは分かる?」
「もちろん分かりますよ」
「じゃあ、この付近に幽霊の人いる?」
「そうですねー……」
岡嶋さんは周囲をきょろきょろと見回した。僕も周囲を眺めてみる。
少しして僕は、やや離れたところの人混みの中に、明らかに異質なモノがいるのを見つけてしまった。
髷が解けてバサバサに乱れたざんばら髪。頬はこけ、目はくぼみ、生気が感じられない青白い顔。泥だらけでボロボロの甲冑。背中に何本も刺さった矢。そんな格好でふらふらと猫背で歩いている男が一人、人混みの中に混じっている。
まさに落ち武者。
そんな異様な風体なのに周囲の人はまったく意に介していない。
「あ、あの人、おばけですね」
岡嶋さんがそう言って落ち武者を指差した。
「あの落ち武者?」
「あの落ち武者です。って、ちゃんと見えてるじゃないですか、ヤスくん」
やっぱりあれ本物か。
ということは、やっぱり僕は本格的に「見える人」になってしまったわけだ。
人付き合いもどちらかというと苦手なのに、幽霊付き合いってどうすればいいんだ。これから先が不安だ。
そう思って溜息をついたとき、落ち武者は頭だけをぐるりと動かしてこちらの方を見た。
目が合った。
瞬間、やばい、と思った。
落ち武者は血走った目を見開き、うめき声を上げながらこちらへ走ってくる。
「逃げたほうがいいやつ?」
と、ビビリながら岡嶋さんに尋ねると、
「逃げたほうがいいやつですね!」
と、引きつった顔で即答されたので二人で全力で走りだした。
落ち武者は気味の悪いうめき声を上げながら追いかけてくる、ゾンビみたいにヨタヨタとしているくせに足は速い。
こっちは人にぶつからないように避けながら走っているというのに、あちらは人や障害物をすり抜けてくるんだから相手のほうが有利だ。ずるい、幽霊ずるい。
細い裏路地へと逃げこむ。このあたりは戦国時代に敵の侵入を防ぐためにわざと町を迷路のようにつくった名残で、道が複雑に入り組んでいるところがある。ここで落ち武者をまこう。
曲がり角を何度も曲がり、もはや自分でもどこをどう走ったのか分からなくなるくらいにくねくねと走り回って、駅前商店街へと戻ろうとしたそのとき、突然真横から何かが飛び出してきて地面に押し倒された。
落ち武者がビルの壁をすり抜けて襲いかかってきたのだ。ずるい、ほんと幽霊ずるい。
落ち武者は、仰向けに倒れた僕の上に馬乗りになって僕の両腕を押さえつけ、真っ赤に充血した目を見開き、血まみれの口を大きく開けて「おおおああ!」と、野獣のように叫んでいる。
「離せ! この!」
必死に抵抗するが、力が強くて押しのけられない。
まさかこのまま殺されてしまうのか、そう思った瞬間、
「こんのぉおお!」
岡嶋さんが叫びながら走ってきて、落ち武者の顔面に飛び蹴りを食らわせた。
見事にクリーンヒット。
落ち武者は後方へ数メートル吹っ飛び、白目をむいて気絶してしまった。
「おおーっ! やった! わたしやった! わたしすごい! ビクトリー!」
岡嶋さんは興奮してぴょんぴょん飛び跳ねている。
「さ、今のうちに逃げましょう! 近くに安全な場所があるからそこに!」
そう言って岡嶋さんは僕の手を取って立ち上がらせてくれた。
「ありがとう、助かった」
「どういたしまして」
押し倒されたときの衝撃のせいか、まだ少しフラフラする。岡嶋さんの肩を借りて歩き出したそのとき、
「お待ちを! お待ちくだされ!」
僕たちの背後から、ずいぶんと鯱張った声がした。
振り返ると、落ち武者が道路に土下座している。
「おかげさまで、拙者、正気に戻りましてござる! かたじけのうござった!」
落ち武者はそう言って顔を上げると、先ほどまでとは打って変わって、まるで生きている人のように血色が良くなっていて、瞳には強い意志の光が宿っていた。
「拙者、種間吉兵衛と申します」
そう言って、目の前の若い侍は丁寧に礼をした。
年齢は僕よりも少し上くらいで、少し痩せ気味だがしっかりと鍛えられて引き締まった体に、素朴ながら清潔感のある小袖と裁付袴を着て、髷もきれいに結い、真面目な人柄がうかがえる。
さっき僕たちに襲いかかってきた不気味な落ち武者と同一人物だとは思えない。
ちなみに正気を取り戻したばかりの吉兵衛さんに、鏡で自分の姿を見てもらったところ、
「怖っ! なにこれ誰これ! 拙者!? これが拙者!? 拙者怖っ!!」
と、大騒ぎしたあと、現在の姿になったのであった。幽霊は自分の意志や記憶で外見を変えられるそうだ。便利なものである。
「それで、なんで吉兵衛さんはあんな状態でさまよっていたわけ?」
まだ少し痛む両手首をさすりながら、吉兵衛さんに尋ねた。
「は。拙者、主君とともに大坂へ赴き、豊臣家との戦にて討ち死にしたのでござる。このように幽霊と成り果ててしまった以上、もはや戦うことも、功名をあげることもできませぬゆえ、故郷に帰って潔く成仏いたそうと思ったのでござる。
しかし、故郷への帰り道が全然分からず、大坂、京、各地をさまよい続けるうちに、自分はなぜさまよっているのか、自分は何者なのかも分からなくなってきて……覚えているのはそこまででござる」
大坂での豊臣家との戦といえば、江戸時代の初期に起こった大坂の陣のことだろう。それまで政治のトップだった豊臣家と、江戸幕府を開いた徳川家が、大阪城で「冬の陣」「夏の陣」の二度に渡って戦い、結果、豊臣家が滅亡したというものだ。そんな昔から、ずっとさまよっていたというのか。
「帰り道が分かんないの? 全然?」
「左様、まったく分からんのでござる」
「目印も覚えてないの? この家の前を通ったとか、この木の前を通ったとかさ」
吉兵衛さんはうつむいて、
「拙者、道を覚えるのが苦手で、となり村へ出かけるだけでもすぐ道に迷ってしまうのでござる……」
「……それでよく大坂まで行けたなぁ」
「大坂へ行く際は仲間たちと一緒だったので道に迷わずにすんだのでござるよ」
なるほど、納得。
「ところで、吉兵衛さんの故郷はなんていうところなんですか?」
今度は岡嶋さんが質問した。
「は、東川松村というところでござる」
知らない地名だった。
「僕は引っ越してきたばかりだから、このあたりの地名はよく分かんないんだけど、岡嶋さん知ってる?」
「いえ、私も聞いたことないですね」
がっくりと吉兵衛さんがうなだれた。
「これだけ景色が変わってしまったのでござる、土地の名前も変わってしまっておりましょう。もしかしたら東川松村も無くなってしまっておるやもしれませぬ」
吉兵衛さんの身体が小さく震えだした、と思ったら急にがばっと天を仰いで、
「もうだめじゃー! ここがどこなのかも分からぬし! 景色変わりすぎ! 人も変わりすぎ! まるで異国じゃ! まったくもって故郷に帰れる気がせぬ! こうなったらここで腹を切るしか! って死ねねぇー!?」
パニックに陥った吉兵衛さんは刀を抜いて自分の腹に突き刺した。が、刀は腹をすり抜けるだけでかすり傷ひとつ負わない。
ケガひとつしないのでホッとしたものの、目の前で泣きながら切腹をくり返す人を見ているのはあまり気持ちのいいものではない。
「お、落ち着いてください吉兵衛さん」
恐る恐る止めさせようとするが、
「いやじゃー! このまま永遠にさまよい続けるのはいやじゃー! ここで死なせてくだされぇ!」
いや、死ねないから、全然死ねないから。
「そうだ!」
突然岡嶋さんが叫んだ。
僕と吉兵衛さんがびっくりして岡嶋さんのほうを見ると、彼女は自信に満ちた表情で言った。
「私の知り合いなら、何か知っているかもしれません!」
「知り合い? どんな人?」
「戦前生まれのおじいさんですよ」
「センゼン、とは何でござる? どこかの国の名前でござるか?」
「あー、戦前ってのは……後で説明する。戦前生まれの人かぁ、まさかその人も幽霊だったり?」
「はい、もちろん幽霊のかたですよ」
「やっぱりそうか……」
今の岡嶋さんの知り合いといったら、やっぱりそうなるよな。
「私よりも幽霊歴が長いですし、少なくとも私よりかは頼りになる、かも」
「そうだな、僕たちよりも頼りになる、かもな。それで、そのおじいさんはどこにいるの?」
「そうですね、たぶん居酒屋にいるんじゃないかな」
「居酒屋? 幽霊が居酒屋に?」
「幽霊でも入れる居酒屋なんです。店長が「見える」人なんですよ」
「……そんな居酒屋があるのか。幽霊だらけの居酒屋なんてあまり行きたくないんだけど」
加えて僕は未成年だし。
「良くないモノは入れないので、安心していいですよ」
「良くないモノ、ね。……吉兵衛さん、さっきまで悪霊みたいになってたけど大丈夫かな」
「あー……どうでしょうね」
「ちなみに、大丈夫じゃなかったら、どうなるのでござる?」
不安そうに吉兵衛さんが尋ねる。
「……なんというか……ビリビリビリ! って、感じ?」
「ビリビリビリ! でござるか」
「もっと強烈に、ビリビリビリー!」
「ビリビリビリー! でござるか」
一生懸命、感電して全身が痙攣しているような動きをしている二人を見て、他に見える人はいないだろうな、と少し心配になる。
こんな調子で大丈夫かなぁ、本当に。