第一話 引っ越しと新居と幽霊とチョップ
まさに渡りに船というやつだった。
背水の陣で挑んだ滑り止めの大学受験になんとか合格し、春から実家を離れて県外の大学へ通う事になった僕は、なるべく家賃が安くて、なるべく大学から近くて、なるべく生活しやすい場所の部屋を探していた。
しかし世の中そんなに甘くはない。
こちらの希望を完全に満たす物件などそうそうあるものじゃない。
ご多分に漏れず部屋探しは難航した。
大学の近所や、大学の最寄り駅の周辺には学生向けのアパートがたくさんある。
しかし、こちらの条件に合うような良いところはもう全て入居済みという状態だった。
大学の近所をあきらめて、通学時間が一時間以内のエリアで探してみたが、これがまた更に難航した。
なぜなら、大学のある町の隣町が数年前から盛んに再開発を行っており、去年あたりから人気のエリアとして栄えてきているからだという。
駅前に大型商業ビルや高層マンションが次々と建ち、駅が改築されて行政サービスの窓口やショッピングセンターのある駅ビルが併設されて利便性が高くなり、この周辺の地域には移住者が殺到しているという。
こんなタイミングで活気が出なくてもいいのに、と自分勝手な愚痴を心の中でこぼした。
不動産屋さんも親身になって根気強く部屋を探してくれていたが、あまりにも難航するものだから、ついに苦肉の策に打って出た。
「あまりおすすめはしてない物件なんですけどね……、一応、見てみます?」
そう言って、あまり気乗りしない態度で一冊のファイルを持ってきた。
築十二年の二階建てアパート。近所に商店街、スーパー、コンビニ、病院あり。一年前にリフォーム済。それで家賃は他の同じような物件と比べてかなり安い。
そして通学時間だが、最寄り駅まで徒歩十分、電車に乗って大学の駅まで四十分、バスに乗り換えて十五分といったところだから、一時間以内という条件をオーバーしてしまうものの、これくらいなら許容範囲内だ。
「ここいいじゃないですか」
まさに掘り出し物を見つけた気分だったが、不動産屋さんはためらいがちだ。
「そうなんですけどね…。一応、ご説明しておかなくてはいけないことがありましてね」
嫌な予感がした。
「いや、まぁ、私はそういうの見たことないので、何とも言えないんですけど、気になる人はどうしても気になっちゃうみたいでしてね…。まぁ、その、何というか、出るらしいんですよね、ここ」
「出る、って……何がですか」
そこをはっきり聞いておかねばならない。
まぁ、大体予想はついてるんだけど。
不動産屋さんはチラチラと周りを見て、近くに人がいないのを確認してから、小声で言った。
「おばけ、出るらしいんですよ」
「おばけ、ですか?」
「そうです、おばけです、幽霊」
「……なーんだ、そうですか」
予想通りで安心した。逆に不動産屋さんの方がキョトンとしている。
「……おばけ、怖くないんですか?」
「あ、僕そういうの全然信じてないんで」
そう、僕はそういうオカルト関係の話は一切信じていない。あんなもの、大体がインチキに決まっているんだ。冷静に考えれば辻褄が合わないことも多いし、バカバカしいにもほどがある。
「不動産屋さんも、見たことないんですよね?」
「え? ええ、まあ、一度もないですね」
「じゃあ、大丈夫です」
不動産屋さんは少し戸惑っていたようだったが、すぐにホッとした表情になった。
すぐに両親に電話し、一緒に内見に行ってくれるように頼むと、父さんの休みの日に母さんと一緒に行ってくれることになった。
自宅に帰ってから、両親に部屋の資料を見せ、不動産屋さんから受けた説明を話す。
父さんは僕と同じで、オカルト系の話を一切信じていないので、
「いい部屋を見つけたじゃないか」
と、すんなり納得してくれた。しかし問題は母さんのほうである。
母さんは父さんとは反対で、オカルトや占いといったスピリチュアルな話が大好きで、わりとそういう話を信じているのだ。
「そんな縁起でもない部屋に住んで、もし何かあったらどうするの!」
と、大層立腹した。
そんな気味の悪い部屋なんか見に行きたくない、とギリギリまでゴネていたが、内見当日には近所の神社で御札やお守りや破魔矢を大量に買ってきて身につけ、ビクビクしながら内見に付いて来てくれた。
案内してくれる不動産屋さんが母の姿を見てだいぶ引いていたみたいだったが、事情が分かっているので、そこはスルーして普通に接してくれたのがありがたかった。
しかし実際に部屋を見てみると、
「あら、明るくて綺麗でいい部屋じゃない、キッチンも使いやすそう。スーパーや商店街が近いから便利でいいじゃない」
「お父さんと喧嘩したらここに住もうかしらね、他に部屋空いてるのかしら?」
とまで言い出す始末。
こうして、内見で何も問題はなかったので、めでたく新居が決まったのだった。
それから数日後、引っ越し当日。
何もない部屋を見たときはけっこう広いと思っていたけど、自分の荷物を全て運び込んだ後はまるで物置のようになってしまった。
何をどこに置くのかはもう決めてあるので、あとはダンボールの中身を所定の位置へ収めるだけだ。楽勝楽勝。
……と思っていたんだけど、思っていたよりも作業はスムーズに進まず、全体の半分ほど片付けたところですっかり暗くなってしまった。引っ越しってこんなに大変なのか。
自分一人分でもこの調子なんだから、一家族の引っ越しとなるとかなりなものだろう。
とりあえず生活必需品は出したし、夕食と就寝するためのスペースを確保して続きは明日にしようと決めた。
近くのコンビニでお弁当と、デザートにポテチとコーラを買ってきた。本当はショートケーキでも買ってささやかながら景気づけをしたかったんだけど、売り切れていたのだから仕方がない。
テレビを見ながら食事を済ませて、風呂に入って歯磨きも済ませて布団に入る。明日は片付けの続きをしたり、必要なものを買いに行ったりと、まだまだやるべきことがいっぱいあるからしっかり休んでおきたい。
疲れのおかげですぐに眠気がやってきた。この分だと明日の朝に目覚ましが鳴るまでぐっすりと眠れそうだ。そう思った。
何かの物音が聞こえて目が覚めた。
どうやらテレビの音声のようだ。寝る前にちゃんと電源を切ったはずなんだが。
そっと薄目を開けてみると、暗い部屋の中でテレビの画面が煌々と光を放っている。
おかしいな、と思った瞬間、ぱりっ、と乾いた音が聞こえた。この音には聞き覚えがある、ポテチを噛む音だ。
もう少し目を開けて部屋の中を見ると、ぼやけけていた視界が少しだけ鮮明になった。
深夜のバラエティ番組を映しているテレビの前に、白い着物を着た女が正座して、残していたポテチを食べているのが見えた。
不動産屋の言葉が頭に浮かぶ。
「この部屋、出るんですよ」
……
……………
思わず息を呑む。
いやいやまさかそんな。
人んちに忍び込んでポテチを盗み食いする幽霊? そんなバカな話聞いたことがない。
とにかく、ここは冷静に対処しなければ。幽霊でないなら不法侵入、幽霊のコスプレをして人の家に侵入し、お菓子を盗み食いする怪しい人ということになる。バカバカしいがこれはこれで怖い。
いずれにせよ非常事態だ。とにかくこの女が何者なのか観察して正体を探らなければ。
歳は僕と同じくらいに見える。テレビを見て屈託なく笑っている顔はわりとかわいい。肩甲骨の下あたりまで伸びた黒髪がつやつやしている。
謎の女はコーラのペットボトルに手を伸ばし、プシッ、という音をたてて蓋を開けた。
キッチンから勝手にコップを持ってきてコーラを注ぎ、ゴクゴクと一気飲みして、
「ぷっはー!」
まるで、風呂あがりの一杯が五臓六腑に染み渡る幸せを実感しています、と言わんばかりの爽やかな笑顔だった。輝いていた。
確信した、やっぱりこいつは幽霊なんかじゃない。幽霊っぽい格好をした不法侵入の現行犯だ。
なんでわざわざこんなややこしいことをしているのかは分からないが、とっ捕まえて白状させれば分かることだ。
「おい」
ドスの効いた声が出た。
「んぅ?」
女はポテチを咥えながらこちらを向いた。
「あ、起きちゃいました? ごめんごめん」
女はテレビのリモコンを手にとって、音量を下げ始める。
「ちげーよ、そうじゃねーよ」
思わずツッコんでしまった。
「お前誰だ、僕の部屋で何してる」
「わたし? ああ、わたしは岡嶋花奈っていいます。初めまして」
「…安村哲生です、初めまして」
女がちゃんと正座して丁寧に挨拶するものだから、こちらも釣られてきちんと挨拶してしまった。
「そうじゃなくて! ええと……岡嶋さん? あんた何で僕の部屋にいるの? どうやって入ったの?」
「わたし、この部屋の住人ですけど」
「はぁ!?」
住人? そんなバカな。
「バカ言うな、僕は今日ここに引っ越してきたんだぞ。ここは僕の部屋だ。ちゃんと不動産屋と契約も交わしてるぞ」
岡嶋さんはきょとんとしている。
「あー、そういうことかぁ。そうかそうか、うんうん」
神妙な顔をして何かを納得したようだが、ポテチを食べるのを止める気はないようだ。
「わたしね、五年前からこの部屋に住んでるんですけどね、一昨年の冬に死んじゃったんですよね。で、ずっと空き部屋だったから、そのまま住み続けてるんですよー」
何だかすごいことをサラッと言った。
一昨年に死んだ? 住み続けてる? 表情や声のトーンからはウソを言っているようには感じなかったが、にわかには信じられない。
「じゃあ、あんたは幽霊ってことか」
「イエス!」
ビシッ! と岡嶋さんは親指を立てた。
一呼吸置いて、岡嶋さんのおでこにチョップしてみる。
がすっ、という音と共に、人間の頭部にチョップした感覚を感じた。
「ふぐぉ!?」
岡嶋さんはおでこを両手で抑えてうつ伏せに倒れた。
「な…なにするだぁ…!」
「触れるじゃないか」
触れる幽霊なんて聞いたことがない。幻覚でもないとすれば、至る結論は一つ。こいつはニセ幽霊だ。
「警察呼ばれたくなかったらとっとと出て行け! このニセ幽霊!」
「ひええええ!?」
ニセ幽霊こと岡嶋さんの首根っこを掴んで玄関まで引きずって行き、ドアを開けて外へ放り出した。深夜なのでなるべく静かにドアを閉めて、しっかりと施錠する。
まったく、都会は恐ろしい。
今度からはちゃんと寝る前に戸締まりを確認しなければ。
冷蔵庫の中のミネラルウォーターを取り出し、コップに注いで飲み干し、今度こそ朝まで布団でぐっすり、と思ったら、
「乱暴な人はモテないですよー?」
今、外へ放り出したはずの岡嶋さんが、ちゃぶ台の側に座ってポテチを食べていた。コップを床に落としそうになった。
「どこから入った!?」
「にやり」
岡嶋さんは不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。てくてくと壁の方へ歩いて行き、そのまま壁の中へ吸い込まれるように消えていった。
呆気にとられていたらコップを足の上に落とした。痛みで我に返る。
「いてぇ!」
足を押さえてうずくまると、壁から岡嶋さんの顔だけが突き出ていて、こちらを見てニヤニヤ笑っていた。
「わたしに壁なんて意味ないんですよ?」
壁の中からするりと出てきて、踊るようにクルクルと回って反対の壁の方へ消えたと思ったら、窓の外に逆さまに浮いて、こちらへ手を振っている。
呆然としていると、岡嶋さんは窓ガラスを通り抜けて、うずくまっている僕の前へふわりと降り立ち、
「ね? わたし本物の幽霊でしょ?」
と、ドヤ顔で胸を張った。
信じられなかった。
ずっとそんなのは嘘だと思っていた。
幽霊、妖怪、神様に悪魔。そんなものは実在しないと思っていた。
全て人間が創作した壮大なファンタジーだと思っていたんだ。
しかし今目の前にいる女性は、自分は幽霊だと言った。
壁抜けもしたし、空を飛んでも見せた。
普通の人間にできるはずがないこと。
ならば、間違いなく。
窓から差し込む街灯の光に照らされた彼女がいたずらっぽく笑っている。その笑顔が何故か妙に可愛らしく見えた。
そのおでこにチョップしてみる。
「んがっ!?」
岡嶋さんはおでこを押さえてうずくまった。痛そうだ。今回はちょっと手加減したんだが。
「なんで触れるんだ?」
壁は通り抜けるのに、なぜ僕は彼女に触れたり掴んだりできるんだろう。
「なんでぇー!?」
岡嶋さんにも分からないようだった。