020
「狐影を捕まえるのを手伝ってほしい」
時は戻って数時間前。僕と毬虫がこの学校で初対面した時に戻る。狐影が去って間もない頃、そして毬虫が神様の願いをきいてくれと言った後だった。
野球場で九竺と別れ、狐影と毬虫の様子を見ていた僕だったが毬虫に見つかり、久々の再開を果たした――後だった。毬虫から狐影の話をきき、僕が影を渡そうと言っている時に戻る。
しかし。
狐影を捕まえるのを手伝ってほしい。
一体どういう風の吹きまわしだ――違う。
一体どういうことだ?
「狐影を捕まえるって……それってどういうことだ?」
驚きながらも僕は毬虫にきいた――きかないわけにはいかなかった。いやきかなければ進まないと言った方が正しいだろう。
だって。さっきまでお前と狐影は一緒に行動して、影を奪う計画をしていたじゃないか。そして僕に会って、いろいろな話をしていたじゃないか。
狐影を助けるために、毬虫は狐影の手伝いをしていると。そう言っていたじゃないか。
狐影を助けるために、影を奪っていると。強い影を集めていると――だから僕達のような、影を蒐集しにきたって。
そう、僕に話してくれたじゃないか。
なのにどういうことだ。
毬虫の言葉はどういうことだ。
何を言ってるんだ、毬虫は。
狐影を捕まえるって、どういうことだ。
「いーいー…………そうだよね。今まで剣道男児にはいろいろなことを言ってきたもんね」
「……どういうことなんだ毬虫。ちゃんと説明してくれ」
毬虫の言っている意味がわからなかった。
どういうことだ、狐影を捕まえるって。ちゃんと説明してくれ。
「ウチとしては」
毬虫はそう言って続ける。
「ウチとしては、あんまり説明したくないんだけどね。でも、もっと早く君に会っていれば、もしかしたらこんなことにはならなかったのかもしれないと思うと、やっぱり言っておいた方がいいかもしれないね」
「…………」
「なら全部話しちゃおっか。狐影がどんな奴なのか」
「…………一体、何の話だ。ちゃんと僕にわかるように説明してくれ」
「わかってるよ。……わかってるよ」
毬虫はそう言って黙り込む。僕はそれ以上何もきけなかったし、何も言わなかった。黙り込んでいる毬虫を、僕はただ待った。
それは毬虫は何かを考えているようだったからだろう。言いづらいことが――言いたくなさそうなことがあるようだった。僕は毬虫は話してくれるその時まで待った。
沈黙の時間がすぎる。静かな間が続いた。
毬虫は黙ったままだった。玄関の鍵を触ることなく、そして僕に近づくことなく、ただ黙ってその場に立っていた。
そして話し始めた。
衝撃的な言葉を。
「ウチは狐影を捕まえるために、この世界へきたんだ」
その言葉に僕は。
一瞬喉を詰まらせた。
「この世界って……お前は元々この世界にいたんじゃ、なかったのかよ」
「いたよ。魔界よりもずっと長くね」
「ま、魔界?」
「ウチらのいる世界だよ、忘れた? ……まあ正直そんなのはどうでも良いんだけどさ。けどちょっと事情があってね。一年前までこの世界を旅してたんだけど、急に魔界に呼び戻されたんだよ。すぐに戻ってみると狐影が――ウチの弟が脱獄したっていう話をきいてさ。それでこの一年、ずっと狐影を探してたんだ」
「……ちょっと待ってくれ毬虫。狐影は、元々どこかに閉じ込められていたってことなのか?」
「うん。……言ったよね? 狐影は元々魔界ではお尋ね者だって。その件で捕まってたんだ。でも……まさか逃げ出すなんて誰も思わなかったよ。絶対に逃げられないって言われているところから、逃げた囚人がいたなんて……それがウチの弟だったなんて、思わなかったよ」
「…………」
「ウチが戻ってきた時には、既に狐影は雲隠れしていた。世界中を逃げ回ってた。多くの神様が全力で探してくれたけど、狐影は見つからなかった」
「じゃあ……どうして」
どうしてここにいるとわかったんだ。そう言おうとした時に毬虫は続ける。
「ずっと見つからないって思っていた。狐影はきっと、どこかで隠れ続けるんだと思ってた。これ以上の罪を――大罪を重ねたら、地獄流しになりかねないってわかってるはずだから」
「地獄……流し」
二年前の、あれか。
「でも、丁度三ヵ月前に、狐影からウチに手紙がきたんだ。名前は書いてなかったけど、狐影からきたってすぐにわかった。『影を奪うのを手伝ってほしい』って、それだけ書いてあった」
「だから、お前はここにきたのか」
狐影がこの世界にきたのは、そういうことだったのか。そういう経緯があって、毬虫はここへ戻ってきた。
「そう。狐影はこの世界にきたのは、人間の影を奪うことで自分の罪を洗い流そうとしていた」
「人間の影を、奪う? …………それって、お前と同じようなことをしていたってことなのか?」
過去にお前がやっていたようなことと同じことを、狐影がやっていたと言うことなのか。
僕が毬虫に影を奪ってもらったように、人間の影を奪っていたってことなのか。
しかし毬虫の返答は違った。
「違う。狐影はそんな簡単には影を奪わなかった。狐影は――あいつは人間の影の奪い方を知らなかったからね。自分でそのやり方に気づいたのは、この学校にきてからみたい」
「じゃあ、なんで」
なんで狐影はこの学校へきた。
どうしてこの場所を選んだ。
「言ったはずだよ。強い人間の影ほど、魔界では価値があるって。だから狐影は強い影を集めるために、強い人間が集まる場所を探したんだと、ウチは思うよ」
「……そういうことか」
それが、この学校だったんだな。
全ての部活動が全国大会に出場するこの学校を、選んだんだな。
事情がわかってきた。どうして狐影がここにきたのかがわかってきた。狐影は、僕達の影を奪うことによって――自分の罪を洗い流そうとした。
だから狐影はこの世界にきた。
毬虫がここにきた理由も、狐影を捕まえるためにきたということも――そしてその経緯も、僕には全部理解できた。
いろいろなことが入りすぎて、僕は思わず息を吐く。
大体の事情はわかった。毬虫のことも狐影のことも、魔界で何が起こっていたのか、そして僕達の影が奪われたのか――全部わかった。
出々雲小枝の影が奪われたのも、それは出々雲が空手界で名を馳せているからだろう。御伽話と同じ道場に通っていたとなれば、御伽話と同じくらいの実力を持っていてもおかしくない。
ということは偶然。
出々雲の影は奪われてしまったわけか。なんというか、同情してもしきれない話だ。
でも――
でも、僕には一つだけわからないことがあった。もしかすればまだまだ多くの謎があるかもしれないが、今は一つしかなかった。
「毬虫、一つきいていいか」
既に彼女の煙草の火は消えていた。さっきまで点いていた火は、地面にもなく、ただ煙草を持っていた彼女の手が、握り潰されていたのにすぐに気づいた。神様だから僕達では証明できないことができることには、二年前から既にわかっていた。
僕は毬虫にきく。
本題に入るように、僕はきいた。
「お前は、どうして狐影を捕まえようとするんだ」
僕は毬虫の行動に対して、それが一番の大きな疑問だった。
どうして毬虫は狐影を捕まえようとするのか。それが一番の謎だった。
弟である狐影を。
姉弟の関係を持つ狐影を、どうして捕まえようとするのか。弟であるはずの狐影を、どうして捕まえようとするのか。それが僕にとって一番の謎だった。
「…………何が言いたいの?」
毬虫はとぼけるように言った。
冷たい目で僕を見ていた――いや見ていたのではないだろう。既に彼女の目に輝きはなかった。
僕は思わず言う。
「だって、それは……家族だったら、狐影を助けようとするのが普通なんじゃないかって、そう思ったんだ」
「…………」
毬虫は黙り込む。急に黙り込んで、何も言わなかった。僕は続ける。
「なのに、どうしてお前は狐影を捕まえようとするんだ? …………勿論、お前にだっていろいろな事情があるかもしれない。でも家族を助ける義理って言うのは、あるんじゃないのか」
狐影は脱獄して、逃げ回ってる犯罪者だ。魔界じゃあ悪い奴だと思われるのは当然だし、そして逃げ出したのであれば、周りからも風当たりが強いかもしれない。
けれど、それでも少しだけでもいいから、助けてあげるのが家族じゃないのか。狐影から手紙がきた時に、助けてやるべきだと思わなかったのか。
すぐに捕まえにいくんじゃなくて、助けにいくために、この世界にくるべきじゃなかったのか。
「………………わかってるよ」
毬虫は重い口を開いて言う。
「そんなこと、わかってるよ。ウチにだってそんな思いがなかったはずが……ないじゃん」
「…………」
「あったに決まってるじゃん。だから……どんな思いで狐影を捕まえようとしているのか、君にはわからないだろうね」
「…………」
軽率だった、と僕は思った。
失言だった、とも僕は思った。
軽率な発言をしてしまったと思った――失敗した。
毬虫に対して、言ってはいけないことを言ってしまった。触れてはならない部分に触れてしまった。返す言葉がなにもなかった。あるはずがなかった。
そうだった。
毬虫にだって、いろいろ葛藤があったはずだった。ないわけじゃなかった。むしろそれを悟るべきだったと僕は思った。
そんな簡単に、弟を捕まえることを決意ができるはずがなかったじゃないか。
それなのに僕は、軽率すぎた。だから――いや、それ以上何も言い返す言葉がなかった。
「身内で起きたことは身内で決着をつける。それがウチにとってできる――他の神様に対してできる、唯一の償いだと思う」
「……ごめん」
償い、か。
だから毬虫は狐影を捕まえるのか。
狐影が犯したことは、家族である毬虫がどうにかする。そういう責任を彼女はきっと、狐影が捕まった時からずっと背負っていたのだろう。
犯罪者の姉として。
罪を犯した身内の一人と――一柱として。
いやもしかすればそんな責任は持っていなかったのかもしれない。狐影が逃げ出した時から毬虫は狐影を探していたらしいのだから、もしかすればそんな責任は持っていたのではなく、最初っからそういう責任は備わっていたのかもしれない。
狐影が罪を犯した時から、彼女には既にそういう責任があったのかもしれない。
「わかった」
「……え?」
だったら。
だったら毬虫一人に、一柱にそんな役割を担わせたらいけないだろう。毬虫だけに、そんな重役を背負わせちゃいけないだろう。
狐影を捕まえる責任を、彼女一人に押しつけちゃいけないだろう。彼女に全部任せたらいけないだろう。
「わかったよ毬虫。僕も手伝う」
こうなってしまった以上、毬虫の頼みを――神様の願いをきかないわけにはいかない。
勿論、毬虫を助けなくても彼女の力であれば狐影を捕まえることができるだろう。いろいろな――この世界では証明できないほどの力を持つ彼女なら、狐影を捕まえることなど簡単にできてしまうだろう。
しかし、それでも僕に助けを求めるのは、きっと僕がこの学校にいたからだろう。
殺し合った相手である僕が。
願いを叶えられた僕が。
忘れることができなかった僕が。
きっとそこにいたからだろう。
僕が毬虫のことを知っているからこそ、毬虫は僕に助けを求めた。毬虫しかできないと思っていたことを、僕がいたからこそ彼女は僕に助けを求めたのだろう。
僕のような非日常を経験した人間に。
彼女は助けを求めたのだろう。
だったら助ける以外に道はない。
僕達の学校を狐影から守るためにも、毬虫と組む必要性は――意味は十分にある。
「ありがとう。剣道男児」
毬虫はそう言って僕に返した。そっけない態度だった。今まで見たことない、初めてみた態度だった。
泣いているのを、我慢しているのか。
そう思ったが、言うことはしなかった。その思いは言わないのが善だと思った。
その思いをしまったまま僕は言った。
「礼を言うのは後にしてくれ。……でもその代わり、一つ条件がある」
「わかってる。影のことでしょ」
毬虫は煙草とは違う手で持っていた数体の影を見ていた僕を見て、続ける。
「大丈夫。君がウチの願いをきくんだったら、影を貰うことはしない。ウチはもう辞めたんだよ。人間の影を奪う仕事なんて」
「そう、だったのか」
二年前の僕だったら、確実にそんなことは嘘だと言い張って、毬虫から影を奪い返すことを考えていたと思う。
けれど今の僕は毬虫のことを信じ切って、そして狐影を捕まえようとしている。
毬虫に対して、どうしてそこまで信じ込んでいるのか。僕は、僕自身がわからない。
過去に殺し合った相手にも関わらず、毬虫の願いを叶えることを約束したのは、それはきっと過去に彼女に願いを叶えてもらったからかもしれない。
僕の影を代わりとして叶えてもらった願いを、叶えてもらったからかもしれない。
だから、僕は毬虫の願いを叶えてあげることに疑いも何も持たなかった。僕の中での彼女は敵ではなく、今は味方として――同士として見えたのだ。
もしかすれば毬虫の言っていたことが全部嘘かもしれない。狐影と毬虫は実はグルで、狐影の逃亡劇や毬虫の回想なんてものは、嘘なのかもしれない。
けれど今となってはそれしか策はない。ここで毬虫の話を断ったとすれば、何も変わらないのだ。影の話も全部変化なく、毬虫にとられるに違いない。
だったら信じなければ、策はないだろう。
詩辺に電話がつながらない今、これ以外の方法はない。そして今更、毬虫に疑いを持ったって仕方がないのだ。
「わかった。毬虫、契約を結ぼう。僕はお前の手伝いをする。その代わり影を返してくれ。それが今回の契約だ」
「……わかった。今回はこっちからのお願いだからね。こっちから違反することはないと思っていい」
そう言って毬虫は影を自分の影に戻した。きっと万が一のことを考えて、だろう。僕が裏切らないという保障は彼女の視点から見ればないのだ。
「それで毬虫、僕はこれからどうすればいい。僕は一体何を手伝えばいい?」
早速僕は本題に入った。随分と長い戦いになりそうだと僕は思ったから、早速毬虫にきいた。これからの夜が眠れるかどうかでさえわからない――そう思っていた。
しかし毬虫の答えはまたしても違った。
「とりあえず君は明日まで待機していてほしい。ウチは今日、隙を見て一回魔界へ帰るよ」
「……え?」
「そんな顔しないでよ。別に逃げるってわけじゃない。ただ援軍を呼びに一回戻るだけだよ。何も心配しなくていい」
「狐影を捕まえる……ために、か」
「うん。だから剣道男児には、明日まで体力を温存しておいてほしい。……疲れてるんでしょ? 今日、いろいろなことがあったみたいだね」
「あ、ああ……」
どうやら疲れが出ているようだ。練習のせいであるかもしれないが、多分それ以上にいろいろなことが――御伽話や出々雲のことがあったからだろう。
休みたい気分で一杯だったが、そうなると一つだけ疑問があった。
「狐影の方は、大丈夫なのか? お前がいないとなると、不自然に感じるんじゃないのか」
「そこら辺は大丈夫。ウチがいない間じゃあ狐影は行動に出たりしないと思う。影はウチが持ってるからね。少なくとも今日一日は行動にでないと思う」
「……その保障は、ないんじゃないのか」
もしかすれば、狐影はすぐに行動に出るかもしれない。もしも女子寮の玄関が開いていれば、女子寮に奇襲にかかる可能性だってあるはずだ。
出々雲から影を奪ったように、他の生徒の影を奪ったように、彼は奇襲に出てもおかしくない。
彼ならやりかねない。彼ならいつ奇襲を始めてもおかしくない。
簡単に建物の壁を壊せそうな、そんな力を持っていてもおかしくない。
彼はお尋ね者なのだ。どんなお尋ね者かはわからないが、脱獄して、他の神の目を盗んでこの世界にやってくるほどの力を持っているのだ。そして毬虫が僕に助けを求めるほどだから、彼は相当のつわものであるはずだ。
だから、そんな保障は、狐影が独断で奇襲を始めないという保障は、どこにもないはずだ。
しかし毬虫は――
「大丈夫。狐影が勝手に始めない」
そう言い切った。僕は思わずきき返した。
「どうして断言できる? そんな保障は、どこにもないんだぞ。それにもしものことがあったら――」
「大丈夫。ウチを信じて」
毬虫は僕の言葉を遮ってそう言った。その顔はいつになく真剣な顔だった。真剣な眼差しで僕を見つめていた。
まるで狐影が女子寮に入らないことを確信しているかのように。奇襲をしないことをわかっているかのように。
彼女は全てを知っているような顔をしていた。
その意味を――僕は理解できなかった。
どうしてそう言い切れてしまうのかがわからなかった。
神様だからか?
神様だから狐影の奇襲を防げるのか。いや、そんなことは――例え神様だとしても、同じ神様の感情をコントロールすることなんて、未来を予想することなんて、できるはずないだろう。できないはずだ。
なのに、この毬虫の表情はなんだ。
まさか、何か策があるのか。奇策でもあるのか。
「……わかった。お前を信じる」
わからないまま、僕は頷いた。とにかく今は毬虫を信じる以外、何もなかった。いまここで考えたって仕方がなかった。
それなら、そういうことなら、僕は今日休むべきだろう。毬虫の言葉を信じて、今日はゆっくり休んだ方がいいだろう。
神様の忠告はしっかりとききいれた方がいいだろう。
「強引だけど、ごめんね。とにかく今はゆっくり休んでほしい。これからウチは援軍を呼びに魔界に戻るから。明日の朝にはくると思う」
「本当に大丈夫なんだな。僕は今、何もしなくてもいいんだな」
「うん。今はとにかく休んでほしい。君にはまず休養が必要だよ。随分と顔がやつれてる。十分に休んだ方が身のためだよ。こっちに戻ってきたら、またどっかで合流しよう。それまで君には休んでてほ――」
その瞬間だった。
僕の視界に何かが入り込んできた。
いや飛び込んできたと言った方が正しいだろう。僕の目の前が急に真っ暗になった――その直後だった。
毬虫が、毬虫スズが真っ二つに切り裂かれていた。
「……は」
毬虫の腰を裂け目に、毬虫の――少女の体が真っ二つに切り裂かれた――切り離された。
まるでギロチンのごとく、彼女の体は胴体を裂け目として、二つに切り裂かれてしまった。
切り裂かれて――斬り裂かれた?
「…………あ、ああ」
今のは、一体――いや違う。
瞬時のことだったせいか、声を出せなかった。いや声でさえ出せてない。僕の思考が今の状況と全くついていけない。
何が起きたのか、理解できない。
まるで僕だけが時代に取り残されてしまったかのように、今起きている状況がどんな状況なのかを理解できなかった。
毬虫が――斬られた?
きら……れた?
いや違う。
毬虫の体は、まるで創られた幻想だったかのように、霧となって消えていった。
まるで毬虫の体がそこにいなかったかのように。彼女の体は消えていった・
「……あ、あああああ」
消えた。いや違うかもしれない。もしかすれば僕の目がおかしくなって、涙とかであふれかえって、目の前が何も見えないだけなのかもしれない。本当は毬虫の体が真っ二つに切り裂かれている図が――いや。
そんなことは。そんなことはどうでもいい。考えたくない。見たくない。思いたくない。
問題は今だ。
今、何が起きて、どうしてこうなった。
誰か、誰か説明をしてくれ。
どうして急に毬虫がいなくなった。
どうして急に消えてしまった。涙を拭き切っても全く毬虫の姿が見えない。何度もあたりを見渡してもどこにもいない。
毬虫は、どこいった。
「けっ。逃げやがったな。馬鹿姉」
見れば。
毬虫のいたであろう場所の近くに一本の鎌が、まるで誰かが意図的に刺したかのように、深く地面に突き刺さっていた。
大きく、そして鋭い先端を持った鎌が、深く地面にくいこんでいた。
「…………!」
驚いたのはそれだけではなかった。
毬虫がいなくなってしまったことも驚いたことだが、僕の頭の回転が妙に遅いせいか、何があったのかついていけてない。
その大きな鎌の柄の部分には一本の細い鎖が何重にも巻きつけられていた。
ぐるぐると、何重にも何重にも固定するかのように、巻きつけられていた。
まるで一本の鎖鎌を自分で作ったかのように――持てないような大きさの鎌を、見物用として作りあげたかのように。
大きな鎌が深く突き刺さって、その鎌が細い鎖に繋がれていて、そしてその長い鎖の先には――男子寮の最上階には、一人の、いや一柱の神様が僕の目に映っていた。
待ち構えていたかのように。
いやヒーロー参上と言わんばかりに。
御丁寧にも、自分の腕に何重にも鎖を巻いて、立っていた。まるで手錠のごとく巻きつけられていた。
そこに立っていたのは――月明かりに照らされて立っていたのは。
「こ、狐影……」
「よお琴星。久しぶりだな」
狐影は僕が最初に会った時のような口調で返してきた。
狐影だった。
どこからどう見ても、間違えることのない、正真正銘狐影だった。鎖を腕に巻いたまま、狐影は静かに笑っていた。
不気味なほど、静かに。彼の顔はほほ笑んでいた。
「…………」
僕は思わず一歩ひいてしまった。毬虫の言葉を思い出して、僕は思わず一歩後ろに下がってしまった。
狐影の殺気を感じとった。何かの思いを、僕は一瞬、感じとってしまった。
「おいおいそんなに警戒すんなよ。俺様がせっかく、俺様の姉さんから助けてやったのによ。殺されそうになっていたお前を、俺様が善意で助けてやったのに、その態度はねえだろ?」
「助け……る?」
僕が、助けられた?
狐影に助けられた?
いや――まさか、そんなはずはない。
「おいおい礼ぐらいは言った方がいいんじゃねーのか。俺様、お前にいろいろ救ってもらってたから助けてやったんだぜ。いつもならしねーことを、今回は特別に助けてもらったんだぜ。感謝しろよ」
「…………ありが、とう」
何が起こった。一体今何が起こってる。
毬虫の身に一体何が起きた。そして僕の身に何が起きようとしていた。
毬虫に殺されかけていた――僕が?
そんな、そんなはず……ないだろう。だって今毬虫は、僕に対して願いごとをしていたんだ。
狐影を捕まえるのを手伝ってほしい、と。
狐影を捕まえてほしい、と。
そんな毬虫が僕に攻撃なんかするはず、ないじゃないか。
……毬虫は一体、どこにいった。
「……よっと」
その瞬間、僕の頭上を何かが通り過ぎた。僕の頭の上を何かが通り過ぎた。まるで剣道の竹刀がとんできたように、何かが僕の頭の上を通り過ぎた。
ただ頭を打たれなかったことだけが幸いか――いや不幸いだった。
僕の上を一柱の神様が通り過ぎた。通り過ぎて、そして僕の近くで着地した。男子寮の屋上から、彼は鎖を持ちながら落ちてきた。
そしてその近くに深く刺さっていた大きな鎌は、まるで磁石のように狐影の方に戻っていった。狐影に引っ張られるかのように、狐影の手に戻っていった。
着地した狐影は僕の方に振り返った。
「これで貸し借りはなしだからな琴星。ったく、一体何してんだよこんなところで。俺様がいなかったら大変なことになってたぜ」
「…………お前」
「ん? どうした琴星。俺様の顔になんかついているのか」
「…………」
何歩ひいても、何度でもついてくる。そんな感じだった。狐影の殺気を感じてから恐怖を覚えている。
毬虫の言った通り、狐影は恐ろしい奴だ。
脳内ですぐにそれを察知した。狐影の先ほどの身軽い行動といい、そして大きな鎌といい、何らかのスペシャリストであることは確かだった。
いつも持っているのか。その大きな鎌を。
だとすれば彼は異常だ。
異常すぎる狂った神様だ。
そんな大きな鎌を持ち歩いているなんて、使いこなしているなんて、彼は――狐影は。
狂ってる。
「…………お前、さては知ってるな」
「っ!」
急な質問に僕は狐影から一歩ひいてしまった。思わずひいてしまった。
「わかった。そういうことだったんだな。お前と姉さんがそんなに長く話していたのは、そういうことだったんだな。俺様、ぜーんぶわかったぜ」
「……やっぱり、お前は」
やっぱりこいつは。毬虫の言った通り、こいつの本性は――
「ああ。俺様は死神中の死神。お前らが思ってる以上の、残酷な死神さ」
「お尋ね者、なんだな」
「ああ。否定するつもりはない。俺様は元囚人、今は脱獄者さ。……だから、だから琴星――」
鎌が振りかぶられていた。
「キキッ! 俺様の餌になってもらうぜ!」
「!?」
僕は反射的にその大きな鎌を避けた。咄嗟のことだったせいか逆に避けることができた。人間の本能が働いたといった方が正しいくらい、僕はすぐに避けた。
「くっ! うわああああ!」
すぐに走り始めた。狐影から逃げるために僕は走った。何も考えずにがむしゃら走った。
何が起こったのかわからなかった。しかし狐影の言葉といい動作といい、何をしようとしていたのかすぐにわかってた。
毬虫のいったとおり、狐影はお尋ね者だ。それは狐影の言動からすぐに気づいた。
お尋ね者。大きな鎌――畜生。
もっと早く狐影が近くにいることに気づいていれば。
毬虫は大丈夫だろうか。あの時、毬虫に何が起こった? まさか死んだんじゃないだろうか――いやそんなことは絶対ないだろう。
毬虫は一回魔界へ戻った。帰ってくるのは明日の朝だといっていた。狐影が逃げたといったのは、つまりどこかへ行ったに違いない。
そう信じないと僕の心が壊れる。
だったら。
だったらその時まで――毬虫が返ってくるまで、どこかに隠れるべきだろう。寮に入れないとすれば、寮の近くに隠れるのが最適だ。狐影の奇襲を防ぐためにいなければ。
もう狐影は毬虫の言っていた狐影ではないのだ。
いつどこで何をしても、おかしくない。
――いや、だったら。
だったら。
今こそ二年前のように、狐影と戦うべきだ。
「キキッ。なあ琴星よお。俺様はできれば、お前と戦いたくなんかねーなあ」
唐突に狐影は、走る僕の後ろからそう言った。
それには僕は驚くことはなかった。驚くことなんてものはなかった。ただ、僕の言いたいことが狐影に伝わっていただけだから。
狐影も僕の気持ちをわかるのだろう。
神様だから――神様だからこそ。
いくらお尋ね者の神様だとしても、僕の――人間の気持ちを狐影は知ることができるのだろう。
だったらきかないわけにはいかない。
狐影の頼みも、きき入れなきゃいけないのだろう。
神様のお願い。
僕がこの学校を守るための交換条件を、また飲まなきゃいけないのか。
「だがなあ。もしお前がそれを望んでいるんだったら――俺様を倒すことを望んでるんだったら、俺様と戦ったっていいんだぜ?」
「………………」
もう考えている時間はなかった。いや選択肢がなかったといった方が正しいだろう。狐影の頼みは、絶対に断れない。
「……ああ、そうだ。僕はお前を倒したい」
絶対にやらなければいけない。
狐影を倒さなければいけない。
毬虫がくるまでの時間稼ぎしか、それしか僕はできないかもしれないけど。
休んでくれという、毬虫の約束を破って。
僕はこれから戦わなくちゃならない――いや戦おう。
僕は狐影と戦おう。
この学校を守るために。
「はっ。そうだな。じゃあ日が変わる時――夜の正午、俺様はあのでけえ土の上で待ってるぜ。もし約束を破ったり、一秒でも遅れてみろ。俺様はすぐに行動に出させてもらうぜ」
「……わかった。お前を絶対に倒してやる」
「キキッ。まあ俺様に勝つなんて、千年はえーんだけどな」
んじゃ、と。
狐影はその場から姿を消した。僕の後ろから姿を消した。
まるで何事もなかったかのように、その場から姿を消した。
毬虫を――姉を殺そうとした罪悪感もなく。
ただその場から姿を消した。
「……いや」
そんなことを思うのを止めよう。いくら過去のことを思い出したって仕方がない。問題は今だ。
時間を確認する。十時をまわろうとしていた。約束まで後二時間か。
僕はすぐに行動にかかるためにその寮から離れる。また明日になれば戻ってくるが、しかしそんなことを考えている余裕はないか。
とにかく何か策を練らなければ。
僕は走り出す。




