ぜんまいじかけのマチルダ
冬の童話2015年投稿作品
背中のねじ巻き きりきり鳴らし、
おめめぱちくり あんよはじょうず。
さてもみなさま ごろうじ召され、
これなる哀れな 木偶むすめ、
ぜんまいじかけの マチルダを。
ある冬の朝、見なれぬおんぼろの幌馬車が、町の広場にとまっておりました。
子どもたちのあいだを、その話は風のようにかけぬけて、夕方ともなれば、おとなも子どももみな、木戸銭をにぎりしめ、いつのまにかはられたそまつな天幕をめざし、広場に集まりました。
山あいの小さな町に、人形しばいが、やってきたのです。
旅の人形つかいは、きみょうな、夫婦ものでありました。
男は、やせてせいが高く、たけの長い、黒いマントをきこんでおります。
もしもよくその顔を見れば、彼が思いのほか若い男だということが分かるでしょうが、男のまるめた背中と陰気な顔つきは、いっけんするとまるで、年とった魔法つかいのようでした。
女はずっと若くて、くり色の巻き毛のあいらしい、まるで子どものような、小さなむすめでありました。
顔にも手にも、つるりとまっしろにおしろいをぬりたくって、はでな、ぺらぺらした衣装をきて、ぎくぎくと、おかしな歩きかたをしました。
「ようこそ、紳士淑女のみなみなさま、ようこそ」
しばいのはじまりにむすめは、舞台のまんなかで、かんだかい声をはって、おおげさにしゃっちょこばって、おじぎをいたしました。
ぎっしりとつめかけたお客たちは、ぴょこんとふかく腰をおったむすめの背中に、金色のねじが飛び出ているのを見て、おお、と白いいきをはきながら、声をあげました。
人形つかいの夫婦は、おんぼろの幌馬車に、つぎはぎだらけの天幕とおりたたみの舞台、そしてたくさんのでく人形をつんで、町から町へと、旅をしておりました。
風のふくまま、気のむくままに、ふらりとおとずれたさきざきで、天幕をはり、舞台をくみたて、木戸銭をあつめては人形しばいをかけて、みすぎよすぎする、気楽な身の上でありました。
そして、なにをかくそう、この男の方は、その見た目のとおり、ほんものの魔法つかいでもありました。
男の魔法で、バイオリンやアコーデオンは、舞台そでで、ひとりでに音をならし、ものがなしい歌やゆかいな歌を、つぎつぎにかなでました。
それにあわせて、小さなおひめさまに王子さま、騎士に道化師、おどりこに村むすめ、さまざまなでく人形たちは、からくりも、あやつり糸も、なにもなしに、ぶたいの上でいきいきと、しゃべったり歌ったり、おどったりはねたり、決闘をしたり愛をかたりあったり、いたしました。
そうして、そんな小さな本当のでく人形たちとはべつに、この人形つかいには、まるで生きた人間のむすめとすんぶんたがわぬ大きさの、お人形のつれあいがおりました。
そのお人形こそが、この小さな巻き毛のむすめ、あわれなる、ぜんまいじかけのマチルダだったのであります。
マチルダは、昔、生きた人間のむすめでありました。
いつのことだったでしょうか、どこの町でのことだったでしょうか、まだ小さかったみなしごのマチルダが、ふうらいぼうの人形つかいの幌馬車にのって、いっしょに旅をするようになったのは。
「あたし、おしばいの口上を言えるわ。
お人形たちの修理もできるし、天幕のつくろいだってできるわ。
だから、あんたの幌馬車にのせて。
いっしょにつれてってちょうだい、とおいところへ」
あざだらけではだしのマチルダが、泣いてたのむので、さいしょはしかたなく、馬車のはしっこにのせてやった人形つかいでありました。
それから、この小さなむすめは、いっしょうけんめいに、人形しばいのてつだいを、いたしました。
やがてしだいにうちとけたマチルダは、小鳥のようにほがらかに、おしゃべりしたり、笑ったり、するようになりました。
ずっと、自分のでく人形たちだけをなかまに、ひとり旅をつづけてきた人形つかいにとって、とつぜん始まった小さなむすめとの日々は、まったく奇妙でにぎやかで、でもわるくないものでした。
そうして、おんぼろの幌馬車で旅をしながら、何年もいっしょにすごすうち、陰気で人ぎらいだったはずの人形つかいはいつしか、小さなマチルダのことが、すっかり好きになってしまったのでありました。
けれども、人を好きになるということは、彼の人形たちのおしばいのように、甘くてうきうきと楽しいばかりのことではないのだと、この気むずかしい人形つかいは、思い知ることになったのです。
マチルダを好きになればなるほど、心に甘いうきうきしたきもちが、あふれればあふれるほど、人形つかは同時に、こころぼそい、いやなきもちにも、おそわれるようになりました。
この小鳥のようにほがらかなむすめが、ある日ふらりと、まさに小鳥のように、とびたってしまうのではないかと。
彼のもとにやってきたときと同じように、とつぜんまたほかの人について、どこか遠いところに行ってしまうのではないかと。
そう思えば、胸の中に、黒い、もやもやした、いやなきもちがこごってきて、おさえることが、できないのです。
あるばんのこと、幌馬車の荷台で月明かりにてらされ、ぼろの中にくるまって、むじゃきにすやすやとねむるマチルダの寝顔を見るうちに、人形つかいの胸の中の黒いもやもやは、いよいよたえがたくなりました。
彼は、うつむいて暗い目をして、じっとなにごとか考えておりましたが、ついに、馬車の座席の下にかくしてありましたひみつの箱から、むかし、どこかで手にいれた、魔法のねじをとりだしました。
子どものてのひらほどにも大きな、真鍮のそのねじは、月の光にかざせば、あわい黄色い光をうけて、きらりと金色にきらめきました。
そうして人形つかいはそれを、なにも知らずに眠るマチルダの、白い背中のまんなかに、呪文をとなえながら、ぐりりと、ねじこんだのであります。
その瞬間、マチルダのふっくらとやわらかだったほほは、つげの木をほって作ったでくのように、かたまりました。
胸の中でみゃくうっていた小さな心臓は、精密なぜんまいじかけに変わり、しなやかであたたかかった手足は、ひんやりと冷たくかたく、ひえきってしまいました。
ああこのときより、かわいそうなマチルダは、このねじの魔法にかかって、ぜんまいじかけのでく人形に、変わってしまったのでありました。
「マチルダおいで、ねじを巻くから」
それからというもの、人形つかいはまいにち朝と晩、欠かさずにマチルダの背中のねじを巻いてやりました。
なぜって、ぜんまいが切れたならマチルダは、もうそれきり、動けなくなってしまうのですから。
きりきりきり。
きりきりきり。
「マチルダや、どこにも行ってはいけないよ。
おまえのねじを巻くのは、このおれだけだ」
きりきりきり。
きりきりきり。
人形つかいは、マチルダのねじを巻きながら、低い声で言いました。
「あたし、どこにも行かないわ。
あんたのことが、好きなんですもの」
マチルダはいつものように、かわいらしい声で、こう答えました。
「そんなこと、信じられるものか。
おまえは、おれにねじを巻いてもらわなけりゃ動けないので、そう言うだけなのだろう」
マチルダは答えず、ちょっと小首をかしげて、こまったようににっこりします。
「昼間、おまえが天幕をはるところを、じっと見ていたあの、若い男はなんだ。
赤毛にそばかすの、ぼうしをななめにかぶったあの男は、おまえになんて話しかけてたんだ」
「あら、あれは、あたしたちと同じ、旅の行商人の、ニコロよ。
あたしのこと、とてもきれいだって、言ってくれたわ。
そうしてあたしに、これくれたわ」
衣装箱にこしかけたマチルダは、足をぎくぎくとゆすりながら、まえかけのかくしから、小さな香水瓶をとりだして、人形つかいに見せました。
「なんだこんなもの、やすものじゃないか」
人形つかいは、にくにくしげな顔をして、あくたいをつきました。
そうは言ってみたところで、人形つかいはマチルダに、やすものの香水どころか、野の花の一本すら、おくってやったことはなかったのですが。
じつのところ、こうしてマチルダが、よその男にいいよられたり、花やおくりものをもらったりすることは、しばしばあったのであります。
そのたびに人形つかいは、陰気な顔をして、低い声をして、その男たちと、男たちのおくりものに、あくたいをつきました。
そしてそのたびにマチルダは、かなしいような、でもなぜだかすこしうれしいような、なんともいえない、変なきもちになるのでした。
そんなときマチルダは、いっしょうけんめいにっこりして、人形つかいのほねばった手を、自分のかたい白い手でにぎろうとするのですけれど、人形つかいはマチルダに背をむけて、ぷいと行ってしまいますので、マチルダはしょんぼりして、うなだれるのでした。
その夜のことであります。
「ねえ、あたし、でかけてくるわ」
晩のだしものを終えてかたづけをすませたころ、マチルダが人形つかいに言いました。
「こんな寒い夜に、どこへでかけるっていうんだ」
人形つかいはたずねました。
マチルダに香水なんかおくる、なまいきな赤毛の青年の顔がよぎりました。
「森へ行くの。 …白いニゲルの花をつんでくるわ。
あんたはニゲルの花が好きだから」
「ああ、おれはニゲルは好きだ、いつもうつむいて地べたを見てる。
うすぐらい木陰で、冷たい雪の中で」
マチルダは首をかしげて、にっこり笑いました。
「そうよ、そんなさびしくて愛らしいニゲルの花が、私も大好き。
こんなに月が明るいから、あかりもいらないわ。
たくさんつんできて、明日のだしものの、おひめさまの花嫁衣装にかざってあげる」
マチルダは、ぴょこんと、衣装箱からとびおりて、人形つかいに、真鍮のねじの飛び出した、背中をむけて見せました。
「だからちょいと、ねじを巻いてちょうだいな」
「いやだね」
人形使いがにくにくしげに言うのに、マチルダは、あら、と目をぱちくりいたしました。
「森へ行って帰ってくるまでに、ねじが切れてしまったらこまるわ」
「まっすぐ行って帰ってくれば、切れやしないだろうさ。
だれかと会って、ぺちゃくちゃおしゃべりなんかしてたら、切れちまうかもしれないがな」
人形つかいの胸の中はいよいよ、黒いタールでどろどろしておりました。
「まあ、赤毛のニコロのこと、やきもちやいてらっしゃるの?」
「ばかを言うな」
マチルダは、ひとつためいきをついて、いつものように首をかしげ、にっこりいたしました。
「あたし、どこへも行かないわ。
あんたのことが、好きなんですもの」
そうして、小さなかごを手に持って、いつものぎくぎくとした足どりで、天幕を出て行きました。
「まっすぐ行って帰ってくるわ」
それが、マチルダの、さいごの言葉でありました。
ぜんまいじかけのむすめはそれきり、夜中になっても、朝になっても、帰ってはきませんでした。
翌日の人形しばいのだしものは、中止になりました。
人形つかいは、彼にしては大きな勇気をしぼって、町にいっけんだけの宿屋をたずね、あの行商人の青年、赤毛のニコロは、まだ町にいるのかとたずねました。
行商のニコロはけさ早く、町を出たのだと、宿屋の主人は教えてくれました。
それを聞くや、人形つかいの暗い目に、いっそう黒い火が燃えました。
マチルダの帰らなかった夜から、三日がたちました。
人形つかいの男はいよいよ、その黒い眼をぎらぎらさせて、ついに天幕もたたんでしまって、広場のすみにとめた馬車の、幌の中に、ひとり、うずくまっておりました。
いまごろマチルダは、あのニコロとかいう赤毛の青年といるのだろうか、人形使いの女房をよして、今度は行商人の女房におさまって、あの青年の手で、きりきりと背中のねじを巻かれては、せっけんやらたばこやら、染粉やらマッチやらを、かわいい声で売り歩いているのだろうか。
そう思えば胸のうちは焼かれるように苦しくて、まるで黒いタールでもそそぎこまれたように、ねばねばと重く、人形つかいは、われしらず、低いうめき声を上げました。
やがて、その夜も明けました。
人形つかいは、いつもにまして暗い顔で、いつもにまして背中をまるめながら、のろのろと、おんぼろの幌馬車に、馬をつなぎなおしました。
そうして、町をあとにしました。
魔法つかいのはしくれではあっても彼は、バイオリンやアコーデオンを鳴らすことと、でく人形をあやつることのほかの魔法は、――かわいいマチルダを冷たい人形に変えてしまった、あのねじの魔法をのぞいては――なにひとつ、使えなかったのであります。
どんな相手をも自分にむちゅうにさせる惚薬も作れなければ、恋敵をひきがえるに変えてしまう呪文も、知らなかったのであります。
ですので人形使いは、またふたたび昔のような、ひとりぼっちのふうらいぼうとなり、これしかできない人形しばいで、遠い町から町を旅して歩くくらしにもどるよりほかは、なかったのでした。
いつでも陰気な顔をして、黒いマントの背中をまるめ、いぜんよりいっそう年よりのようになった人形つかいは、それから何年も何年も、同じように、ただひとりぼっちで、旅の人形しばいを続けました。
何年も、何年も。
おんぼろの幌馬車は修繕され、年おいた馬は買いかえられました。
つぎはぎだらけの天幕も新しくあつらえられ、そしてそれもまたいつしか、つぎはぎだらけになりました。
バイオリンとアコーデオンは、大切に手入れをされて、変わらぬいい音で、音楽をかなでました。
でく人形たちは、時がたつにつれて、つやをまして、とろりとしたあめ色に代わり、毎日、毎晩、舞台の上で、おんなじように泣いたり笑ったり、歌ったりおどったり、決闘をしたりとんぼをきったりいたしました。
でももう二度と、その小さな人形の恋人たちの、甘やかな恋物語のおしばいだけは、かけられることがなかったのであります。
そうして、どれほどの年月がたったことでしょう。
今や、本当の年よりになった人形つかいは、とある町の広場で、その晩のだしものを終えて、でく人形たちをかたづけながら、ふと、お客の引けた天幕の入り口に、人影があるのに気づきました。
「こんやはもう、しまいだよ」
人形つかいが声をかけましたが、その人影は、動きません。
「しばいが見たけりゃ、あしたまた来な」
しわがれた声で言いながら天幕を出て、幌馬車に帰ろうとした人形つかいは、そのお客をまぢかで見たとき、あっと声を上げて、思わず目をみひらきました。
その男は、わすれもいたしません、赤毛のニコロでありました。
大切なマチルダを彼のもとからさらっていった、あの、行商の青年でありました。
そばかすだらけだった青年は、今はすっかり、がっしりとした中年男となって、あのなまいきそうな赤毛も、だいぶんくすんでおりますが、見まちがうはずもありません。
「お、お、おまえは…」
年おいた人形つかいは、がたがたとふるえました。
長い年月にさらされて、やっと薄れかけたあの思いが、心の中に、ふたたび満ちてしまいそうで。
年とってもろくなってしまった心の中が、あの黒いタールのようなきもちで、いっぱいになってしまいそうで、人形つかいは、ふるえました。
そのときです。
「…あのむすめはどうしたんだ」
赤毛のニコロが口を開き、低いかすれ声で、人形つかいにたずねました。
「あんたが女房にしていた、あのかわいそうな人形のむすめは、どうなったんだ」
「…なんだって?」
人形つかいは、目の前の男の言葉の意味が、分かりませんでした。
「おまえが、おまえが、おれのマチルダを、さらっていったんじゃないのか!」
気づけば人形つかいは、すじばった枯れ木のような手でもって、がっしりとした赤毛の中年男のむなぐらに、つかみかかっておりました。
「ちがう、おれはそんなことしてない」
赤毛のニコロは、こんなやせた年よりにつかまれたところで、びくともしないはずでしょうに、なぜだかふらふらとして、今にもたおれそうに、よろめいたのであります。
ニコロは、もうしわけなさげに、言いました。
「あんたには、すまないことをした。
あの晩、宿屋の裏の井戸のところで、まちあわせをしたんだ。
あんたの女房とは知ってたけど、あの人形のむすめが、あんまりかわいらしくって」
人形つかいは、ぜえぜえと息を吐きました。
マチルダの真鍮のねじを、きりきりと巻くときの手ざわりを、思い出しました。
「おれといっしょになる気があれば、来てくれって言った。
だけどもあの晩、あのむすめには、会えなかった」
ニコロは目をそらしながら、とぎれとぎれに言いました。
「井戸のふちに、昼間おれのやった香水瓶だけが、おいてあった。
それがへんじだ、おれはそのまま、町を出た。
そうしてそれっきりだ。
町から町へと渡り歩いて、行商を続けて、よめさんをもらって、今じゃ故郷に、子どもだっている」
人形つかいの指先は、冷たくひえて、ふるえました。
マチルダのかたい冷たい胸のなかで、ちりちりと鳴るぜんまいの、かすかな音を、思い出しました。
「ちょうどこの町に、二十年ぶりに戻ってきた。
そしたら、あんたの人形しばいがかかってると聞いたから。
あの人形のむすめは、あんたをえらんだんだと、思ってたんだよ。
あのころのまま変わらずに、あんたと旅をしていると、思ってたんだよ」
人形つかいは、急に力がぬけたように、赤毛のニコロのむなぐらから手をはなしました。
そうしてうなだれて、よろよろと天幕を出て、月明かりに照らされた、広場に立ちました。
いちめんに銀色の霜をのせて、きらきらときらめく広場の石だたみの上には、月の光を受けた、自分の影だけが、黒々と落ちておりました。
――ああ、どうして、おれは。
人形つかいは今、この年月のあいだに、わざと忘れていた、マチルダのすべてを、思い出しました。
マチルダの、春の小鳥のさえずりのようなおしゃべりや笑い声を、夏のこもれびのようなほほえみを、秋の霧雨のような泣き顔を、思い出しました。
――どうしておれは、マチルダが、いつかおれから逃げて行くにちがいないとばかり、思っていたのだろう。
けれどもう、すべては、ずっとずっと、むかしのことでありました。
今は年をとって、はやく歩くこともできなくなった両足をはげましながら、人形つかいは、急ぎました。
町はずれの城門を、その先の森をめざして、歩きました。
どうして今まで気づかなかったのでしょう、けさおとずれたこの町は、まさにあの冬の夜、彼がマチルダをうしなった、あの小さな山あいの町だったではありませんか。
ずっとずっと、おとずれることをさけていた、黒いタールのような思い出にぬりこめられた、あの町だったではありませんか。
ちょうどあの晩と同じ、いてついた、明るい月夜でありました。
この月が、すべてを見ていたこの月が、長い年月をへて、まさにこの夜、自分と、赤毛のニコロとを、この町に呼びよせたのではないかと、人形つかいは、せすじが寒くなりました。
「マチルダ、マチルダ」
人形つかいは、白い息を吐きながら、妻の名を呼びました。
森は黒々と広がり、木々の枝がときおり、夜風にふかれては、さらさらと雪を落としました。
うっすら積もった白い雪に足あとをつけながら、人形つかいの男は、はだけた黒いマントのすそに雪がまぶされるのにもかまわず、森の中へと進んでいきました。
「…マチルダ」
どこをどう歩いて、この場所にたどり着いたのでしょうか。
いつしか人形つかいは、森の奥の、まばらな雑木林に出ておりました。
ぶなの木の枝ごしに、高くのぼった月の光が、ちらちらと足もとをてらしておりました。
地べたをおおう雪を分けて、木々の根元にひとむら、またひとむら。
雪の白さにまぎれるような、純白のニゲルの花が、うつむいてよりそって、そこここに咲いておりました。
「ここに来たのか、マチルダ」
人形つかいは、がくりとひざを折り、狂ったように、薄く地べたをおおった雪と、その下のふかふかした落ち葉とを、かき分けました。
凍った雪で、てのひらにこまかな切りきずをつけながら、白い雪をのけ、その下の黒い、朽ちかけの落ち葉を、まきちらしました。
そうしてついに年おいた男の指は、やわらかな地面に半分うずもれた、あの金色の真鍮の、魔法のねじを、さぐりあてたのであります。
人形つかいは、汗をうかべて荒い息を吐きながら、地べたにはいつくばって、いとしい妻を、掘り出しました。
長い年月、雨風にさらされ、いつしか土にうずもれたマチルダは、その着ていた毛織物のうわぎも、麻布のまえかけも、朽ちてぼろぼろと落ち、かたい白いからだが、むきだしになりました。
人形つかいは、自分の黒いマントにマチルダをくるんで、そのすそで、マチルダの背中のねじをこすり、泥をおとしました。
そうして、力をこめて、ねじを巻きました。
きりきりきり。
きりきりきり。
――マチルダ。おれのマチルダ。
きりきりきり。
きりきりきり。
きりきりきり。
きりきりきり。
ちりり、ち、ち、ち、と、マチルダのかたい冷たい胸の中で、ぜんまいの動き出す音がしました。
けれどその音は、かつてのように規則正しくおちついた音ではなくて、不安定で、ときどき止まりそうになって、いかにももう、壊れかけの音でありました。
それでもマチルダは、目を開いて、ぱち、くり、と、ゆっくり、まばたきをいたしました。
「マチルダ、すまなかった、マチルダ」
人形つかいはさけびながら、かたく冷たい、ぜんまいじかけのむすめを、力いっぱい抱きしめました。
彼は今、はじめて、心から、自分はマチルダにひどいことをしたのだと、思いました。
なぜあの生き生きとしていたマチルダを、魔法のねじで、不自由なでく人形に、変えてしまったりしたのだろうかと。
なぜでく人形に変えてしまったあとでさえ、マチルダのことを、信じてやれなかったのだろうかと。
もしも、信じてやってさえいたならば、あの夜、ここでねじを切らして動けなくなってしまったマチルダを、むかえにきてやっていたならば。
そうしたら今でもふたり、あのおんぼろの幌馬車で、なかよくいっしょに、旅をしていられたのだろうかと。
年おいた人形つかいは、泣きました。
壊れかけのマチルダも、泣きました。
「ごめんなさい、…まっすぐ行って帰らなくて、…ごめんなさい」
そう言ってマチルダは、泣きました。
「さきに、…香水瓶を、…返しに、行ったの。
だから、ねじが、…切れて、しまったの。
あんなもの、はじめから、…うけとったり、するんじゃ、なかったわ…」
「おまえは、わるくない、マチルダ」
「あたしには、…ばちが、あたったの。
…赤毛の、ニコロが、やさしくて、…ちょっとだけ、うれしかったの。
だから、ばちが、…あたったの、よ」
「ちがうんだ、おれがわるかったんだ。
おまえに、いっこもやさしくしなかった。
おくりものひとつ、したことがなかった。
なのに、いつも、おまえがにげだす心配ばかりしてた」
「ああ」
マチルダは、人形つかいの腕の中で、かつて、いつもそうしていたように、ちょっと首をかしげて、にっこりしました。
「…あたし、どこへも、行かないわ。
だって、あんたが、
…あたし、そんな、さびしいあんたが、
…ほんとに、好きなんですもの」
そう言いおえたときついに、そのかたい冷たい胸の中で、マチルダの小さなぜんまいが、ぴいんとするどい音を立てて、はじけとびました。
涙にぬれた目をみひらいたまま、かすかなほほえみをくちびるにたたえたまま、それきりマチルダは、もうにどと、動くことはありませんでした。
いてつく月がふたりをてらし、純白のニゲルの花は、夜の森の木々の根元に、雪をわって、うつむきながら、さびしげに、咲きほころんでおりました。