6:紅色の瞳
※考え過ぎれば若干の性系Rになるかもしれません…?
「シルヴァン、nyuiop!」
そう声をかけられたと思えば、いきなり脇をこちょこちょとくすぐられた。
一体誰なんだ。
いつものように寝たり起きたり、ぼうっと過ごしていたら突然現れた人物。
一体誰なんだ。
私をくすぐりながら、くすくすといたずらめいた笑みをこぼす男の子。
一体誰なんだ。
顔も知らない名前も知らない、そもそも両親の名前も知らないけれど、存在自体も知らない少年にいきなりくすぐられて私は顔をしかめた。つもりであった。
「あゃはあっははひゃあっはは!」
自分の心とは裏腹に私は思いっきり笑ってしまっていた。
だめだ、どうもくすぐられるのは弱い。前世もそうだったがこちらでもそうなのか。弱点があるのは頂けない。
生理現象とはいえ自分の感情が自分で制御できないのは腹が立つ。満面の笑みである自分が憎らしい。
私が笑うと少年も紅色の瞳を更に笑顔に染めた。
ちょっと何処かで見たことのある顔だ。ただ、どこで見たのだったか。
それにしても一方的に攻撃されてそれに易々と落ちてしまうのはあまりにも悔しい。
何処の誰かも分からない者にいいようにされるのは納得出来ない。
私は、私の感情を操る悪魔のような手に少し仕返しをしてやりたくなった。
それは赤ん坊としての本能の結果だったのかもしれない。
5ヶ月ぐらいの赤ん坊がやり始めること。
それは、
『パクッ』
少年の手が私の口の中に収まる。ああ、収まってはいないか。
大人よりもずっと小さい手なのに全て入りきらず、半分口から出てしまった。
それでも頑張ってできるだけ口の中に入れようと頑張った。
少年は「うひゃあ!」と聞こえる声で悲鳴をあげた。悲鳴はどこの世界でも共通のようだ。
くわえて無いほうの少年の手の動きも一緒に止まったのが分かった。
なおも私は攻撃をやめない。もちゃもちゃと口を動かし、手を浸食してゆく。
まだ歯が生えていないのだから痛くはないだろう。
しかし、いきなりくわえられ、手をよだれでべちょべちょにされればビビらないほうがおかしい。
ちなみに私は犬に舐められるのも大嫌いだった。よだれが肌を伝わる感触には背筋が凍る。
と、突然口から手を引き抜かれた。
慌てた少年が無理矢理自分の手を引いたのだ。
手と口の間に唾液の線が見える。希望通り、少年の手はべっちょべちょになっていた。
じっと自分の汚れた手を見つめそれから私の方を向いた。
真っ赤になった頬と歪められた眉と目を見とめ、少し勝ち誇った気持ちになる。
飼い犬に手を噛まれるとはこんな感じだろう。なぁ、少年?まあ私は飼い犬ではないが。
その時の少年の紅色の瞳が少し恍惚としていることに私は気がつかなかった。
「ngyi、bfrtyo!シルヴァン!」
ちょっと怒ったように口を尖らせ、少年が言う。
やっぱり声には非難の色が現れている。
シルヴァン!
また聞こえた単語。理性のない数ヶ月の中でも聞いていた単語。
この名前が今の私の名前のようだった。これだけは、この世界で今たったひとつ分かる単語であった。
もう少ししたら、こちらの言葉にも慣れて言葉を理解できるようになるのだろうか。
そうしたら。
そうしたら前世の言葉はどうなってしまうのだろうか。全て忘れてしまうのだろうか。
30年間日本に帰っていない日本人が日本語をほとんど忘れてしまったという話を昔テレビで見たことがある。
20年間使った日本語をほとんど覚えておらず、たどたどしく日本の単語を紡ぐ。それは実際にあったことだから、私にもいつか起きることなのだろう。
とても怖いものを感じた。
言葉とともに前世のこともどんどんぼやけていってしまうのだろう。友達も、学校も、町並みも、生活も、両親のことも。
智子。それが私の名前で、もう私ではない名前。いつか忘れ去ってしまうかもしれない名前。
シルヴァン。これがいつか前世の私を忘れてしまうものの名前。
転生してから過去のことで落ち込んでしまってばかりで、自分でうんざりする。
それでも考えずにはいられないのだから、今の自分の心をずっと覗いている人がいるのだとしたらひっぱたいて説教をしたくなるだろう。
それでも許して欲しい。私にとっては周りの全てが死んだも同然なのだから。
ぼうっとしていると頬をツンとつつかれた。ぬるっとした感触が頬に触れる。
してやられた。
よだれでべとついた手が私の頬に触れたのだ。
まさかの反撃を受けうろたえてしまう。ぞぞっとしたものが背筋を走る。自分のよだれでも嫌なものは嫌だった。
必死で小さい手を使い、頬をつつく手をどけようとした。しかし結果は散々で、少年の腕はびくともしない上べとついた唾液が私の手のひらにまでついてしまった。
やはり悪いことはするもんではないのかと思いつつも、最初に仕掛けて来たのは彼であるという憤りも無くせない。
そう考えているうちにも少年の指は私の頬をつつき、汚れていないほうの手では逆の頬をつねられた。
と、少年の指が頬から離れ、不自然に私の前に現れる。
馬鹿にされたようで思わずその指に食らいついてしまった。
先ほどのように口を動かし、もちゃもちゃと指を浸食してゆく。半渇きになっていた指がふたたび潤うのを感じた。
またすぐに指を引っ込めるのだろうと思っていたが、今度はなかなか指を引く仕草を見せなかった。
それでもしばらくは勝ちたい気持ちから口を動かすのを止めなかったが、だんだん反撃しない相手に不信なものを感じ、私は口を離した。
「もう止めちゃうのか?」
そう聞こえた気がした。
本当にそう聞こえただけであった。
実際、耳に入った言葉はいつものように分からない言葉であった。
だが少年の目は、脳裏に書かれた言葉が合っているのだ、と思わせる色を宿していた。
カチャリ。
音がして母が入ってくると少年は母を振り向き声をかける。
「syeoriji、syygiohuiofyuf buifof uhepp!」
こちらを指差し、拗ねた顔をしながら母に何か話す。
ときおり「シルヴァン」と聞こえるところから、多分私の行動に対する母への訴えなのだろう。
それを軽く笑いながら母は少年の頭を撫でた。
さっきのはなんだったのだろう。あの空耳も、あの目も、生き物に舐められた感触に似たぞわりとしたものだ。
けれども母と話す今の少年の姿は普通の10か、そこらの子どものものと変わりなかった。




