さよなら
彼と、別れた。
今さっきではない。彼ときちんと別れたのは、今日の朝だ。もっと厳密に言えば、一緒に学校に歩いて来る間。そのたった二十分の間に、どうして別れるのか(別れるべきなのか)、それについての互いの意見、果ては彼と付き合っていた二年間でたまった物もの(クリスマスや誕生日のプレゼント、ペアのテディベアが付いたストラップ、二人で撮ったプリクラなど)の処理方法までが、みっちりと話し合われた。
「わからないんだ」
唐突に彼はそう言った。待ち合わせ場所から歩き出して、最初の信号で立ち止まった時に。
「アユミちゃんの事が、よくわからない」
「・・・どういう事?」
私が訊いた。
「・・・俺にもよくわからないんだ。何がわからないのか、どうしてわからないのか。でもただ一つわかるのは、俺たちは別れるべきだって事だけなんだ」
彼は苦悶する様に眉根にシワをぐっと寄せ、そして言った。
「ごめん」
それはそれは、辛そうな目だった。その目を見て私は確信した。ああ、この人はけっして、私と別れたいわけじゃないんだな、と。それと同時に、悟った。私と彼は、今日、別れるべきなんだ、と。
それで、私たちは別れた。怒声も涙も、掴みかかりも報復殺人もなし。拍子抜けする程に平穏な別れだった。
そして、今でも私はそのままだ。むしろ冷静沈着と言ってもいいくらい。
変な話だ。二年間も付き合ってきた男に突然わけのわからない別れ話を切り出され、その結果本当に別れてしまったというのに。友達と話して、下らない事でちゃんと笑って、ご飯だっておいしかった。一体全体、どうして私はいつもどおりに一日を過ごせたのだろう?
それは、家に帰ってからもずっと一緒だった。制服から着替えている間も、ママにごみ袋をもらって、写真やペンダントや小物入れを、そのついでに固まったマニキュアなんかを放り込んでいる時も。
一般的に言えば、私はもうちょっと悲しむべきなのだと思う。あるいは苦しむとか、切なそうに笑うとか。それなのに、私は涙一つ流さない。
彼は泣かない人だった。私は彼の前でいっぱい下らない事で泣いたのに、彼は、一度として私の前で泣かなかった。どうして泣かないでいられるの、と訊いたら、確か、「泣くのも割とめんどくさいし」と冗談めかして言われた。本当の理由がそうだったのか、私は知らない。もしかすると、ただ単に見栄を張っていただけなのかもしれない。
「お風呂空いたよ、ママ」
テレビの前に寝そべって、メールを打っているらしいママに言う。返事はない。
「ねえ、ママってば」
テレビドラマのBGMと、それに被せて、カチカチと携帯のボタンを押す音だけが響く。
こういうの、本っ当に苦手だ。嫌悪さえできる。構ってくれないから嫌だというのでは決してなく、ただひどく悲しく、不安な気持ちになるのだ。胸の中が奇妙に空っぽで、それなのに何かが何かに掻き乱されているような、あの感覚。
「・・・わかったわ」
ためいき混じりに発された、不機嫌なママの声。それで私は、さらに打ちのめされてしまう。
出来るだけ大急ぎで自分の部屋に駆け込む。
泣きたい。だけど、泣かない。
ママが打っていたのはきっと、仕事のメールだったのだろう。悪いのはむしろ、声をかけた私の方だ。
それでもふと気づくと、涙が出ていた。小さすぎる一しずくが、目尻から頬を伝う間に潰れて、失くなる。頬には涙のつけた、キラキラとした跡だけが残る。そして私はまた、すうっと苦しくなる。この、たった一粒の涙のせいで。
苦しい、助けて、と彼の事を思い出そうとする。彼の顔とか、やや猫背気味の背中とか、少し肉の付いた、頼もしい腕を。それに思いっきり抱きついた時の温かさと、安定感を。そして気づく。彼はもう、私を助けてはくれない。たとえそれがこの頭の中だけのことだとしても、彼の存在によって安堵する事も、幸福になる事もできない。もう、決して。
「さよなら」
驚いて、顔を上げた。誰が、何を言ったのだろう?
私だ。私の口が、確かにそう、言葉を紡いだ。私の意思とはまったく関係なしに。
「さよなら」と。
言葉の意味を理解したその瞬間、全てが爆発したみたいに、私は泣き出した。
お初にお目にかかります。ビルこと、うぃりあむと申します。
初投稿なので何かと不備があったやもと思いますが、最後まで読んでいただけて嬉しいです。
友人に読ませたところ「実体験?」と言われましたが、もちろん違います。というか、男性とお付き合いした事自体がありません・・・。
こんな感じのふやふやした短編がいくつか書きためてあるので、随時投稿していきたいと思っています。
では、またいつか。