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 二ヶ月も経つ頃には、生活にリズムが戻り始めていた。酒を飲むという習慣こそ絶たれてはいなかったものの、夕飯すら満足に用意していなかった彼女が、朝食を作るまでになっている。冷蔵庫との会話が呼び水となり、夫との会話も増え始めていた。だが、何もかもが良い方向へ、未来へ向けて歩き始めたと彼女が感じている一方で、腑に落ちないこともあった。

「旦那がさぁ――」

 半分ほど飲んだ発泡酒の缶を親指と人差し指で摘み、ブラブラと揺らして弄びながら、漆黒の冷蔵庫へと視線を向ける。

「何でか最近ちょっと機嫌が悪いんだよね。アンタ理由知らない?」

『私がいくら高性能でも、さすがに感情や内情を読む機能はありませんからね。わかりませんとしか言えませんね』

「何よ、役立たず」

『聞き捨てなりませんね。冷蔵庫がどれだけ日常生活に貢献しているのか丸一日かけてじっくり説明して差し上げたいところですが』

「が?」

『あまり時間もありませんので止めておきます。それに、心当たりもありますしね』

「心当たりって、やっぱ知ってるんじゃない」

『別に旦那さんの内情を読んだのではありません。理屈から弾き出された理論的な回答ですよ』

「何でもいいから、とりあえず教えなさいよ」

 難しい物言いに少しばかりカチンときて、彼女は眉根を寄せる。

『甘えたいんですよ、きっと』

「……それのどの辺りが理論的結論なワケ?」

『本能です。理屈じゃありません』

「逃げるなよ、オイ」

『今の旦那さんにはマリナさんの温もりが必要なんですよ。何も言わず胸の谷間に埋め……爽やかな大平原で包んでやって下さい』

「何で今言い直したんだ、コラ」

『細かいことは気にしないで下さいよ。私なんてホラ、寸胴ですよ?』

「冷蔵庫の哀れみを受けるとか、どれだけ屈辱的なのよっ」

 口調は激しい。しかしその表情は柔らかかった。子供が居た頃の充足感を取り戻したのではない。あの感覚が他で代用できる代物でないことくらい、彼女にもわかっている。それでも今、彼女は明確に楽しんでいた。たくさんの話に、酒を飲むことすら忘れて没頭した。

 そして、自分がこんなに明るく話せるようになったこと、お酒に溺れなくとも毎日を過ごすことができるようになったことをキチンと伝えれば、夫の機嫌は直る筈だと信じて疑わなかった。事実その夜、話を聞く夫の様子は、ここ最近では珍しく穏やかで、楽しそうでもあった。

 しかし翌日、ことの経緯を功労者に伝えようとして、彼女は知ることになる。

「昨日は話し過ぎて疲れちゃったよ」

 いつものように扉へ手をかけ、定位置に置いてある発泡酒を取り出す。

「あれ、今日は嫌味なし?」

 小言の一つでは揺るぎそうもない笑顔の彼女は、いつになく上機嫌だ。酒が入っていない状態でこれほど明るいのは、ずいぶんと久しぶりである。

「何よ、冷蔵庫の癖に息止めてるの?」

 返事はない。いや、しゃべる気配すらなかった。

「……ねぇ、ちょっとどうしたの? まさか故障?」

 不安になって、右側上部に設置されているコントロールパネルに手を伸ばす。しかし予約録画すらまともに出来ない彼女に原因究明など出来よう筈もない。ただ、何一つエラーメッセージらしきものは表示されておらず、表面上は正常に稼動しているように見えた。

 その後丸一日、中に頭を突っ込んだり裏側に手を突っ込んだりして彼女なりに原因の追究を行ってみたが、何一つわかることはなかった。ただ、彼女が何をしようと冷蔵庫が応えることはなく、虚しさだけがキッチンに木霊した。

 テーブルに肘をついて頭を抱えると、秒針が時を刻む音が耳を突く。それは酒に溺れる前、何もかもに絶望したことを思い出せる音だった。この小さな、囁き程度のリズムが、巨大な杭を打ち込む工事現場にでも居るかのようにうるさく感じられたことを思い出す。悲しみや苦しみが逃げたかったのはもちろんだが、この空白こそ何よりも耐えられなかったのだ。

 だから彼女は、夫に懇願した。

 冷蔵庫を元に戻して欲しい、と。

 もう必要ないだろうと表情を渋らせる夫に、どうしてもと願った。そのあまりの熱意に困惑しつつも、仕方ないという呟きと共に頷きを返す。

 彼女は安堵した。これでまた、楽しい日々が戻ってくると思っていた。

 しかし――

『おはようございます、奥様』

 事務的な挨拶に迎えられて、彼女は笑顔を返せなかった。

『朝食のオススメはトーストにスクランブルエッグ、それにレタスを中心にしたサラダと牛乳です。ぜひ参考になさって下さい』

 セールスマンのような饒舌さが鼻につく。

『台所のお掃除をするポイントは――』

 中途半端に役立つ豆知識が妙に苛立たしい。

『お夕飯のメニューはバランスから考えて――』

「もういいっ。黙ってて!」

『はい、了解いたしました』

 素直に応じて沈黙することすら、今の彼女には不快だった。一昨日と状況は何も変わっていない。自分が居て冷蔵庫があって、勝手に話し掛けてきては気のない返事を返す、その繰り返しでしかなかった。それなのにどうしてか、彼女は強い孤独感を抱えていた。

 そんな不可解なイライラをぶつけるように、彼女は夫へ噛み付く。

「元通りにしてって言ったじゃない!」

「何言ってるんだ。ちゃんと戻したじゃないか。話せているだろ?」

「話せるけど、あんなんじゃなかった!」

「仕方ないだろ。初期化したんだから、会話パターンは出荷時に戻る。以前はもう少しフレンドリーに設定したけど、もうほとんど飲んでいないようだし、あのくらいで丁度良いと思うぞ。まぁ、気に入らないようだったら前の設定に戻すけどさ。でも、結構適当に設定したから細かい数値は憶えてないんだよ」

「そんな……」

 設定数値を憶えていないことが問題なのではない。培われてきた会話データを簡単に消されていたことが問題だったし、何よりショックだった。仮に数値の設定を行ったとしても、そこに在るのは別の冷蔵庫である。

「まぁ、少しでも気晴らしなったみたいで良かったじゃないか」

「え?」

「お酒もやめて、これから少しずつ体力も戻していけば、また子供が産めるようになるよ。いつまでも逃げてないで、そろそろ前を向いて歩いていかなきゃ。サトルはもう、どこにも居ないんだからさ」

 彼女の肩が落ちる。

 夫の言っていることは理解出来る。まんざら間違っているとも思わない。しかしそれでも、絶対に正しいと思えるほど響いてもこなかった。

「冷蔵庫にサトルの代わりなんて務まる筈ないだろう。新しい命を、その分可愛がってあげなきゃ、な」

 抱き締められて、彼女は理解する。

 目の前に居る夫はサトルでなくとも構わないのだ、ということを。

 彼女はサトルの代わりとして冷蔵庫を見たことなど一度もない。サトルは今でも大事だし、代わりなど存在しないのだ。それを夫は、いつまでも過去に囚われて現在を見ていないと思っているのだろう。

「……アナタは――」

 厚い胸板をやんわりと押し返し、俯いたまま口を開く。

「未来を見てるのね」

「そうだよ。過去に逃げるのは、もうお終いにしなきゃ」

「そうね。逃げるのはもう、やめるべきかもね」

 彼女はようやく、酔いが覚めたような気がしていた。

 今までの、酒に溺れていた生活があまりに情けなく思える。それはただの逃避だったと、今はわかる。そして同時に、過去へ逃げることも未来に逃げることも、もちろん仕事に逃げることも同義に過ぎないと思える。現実から逃げているという一点から見れば、その違いがわからないほどだ。

 今、彼女は何をするべきなのか。

 それだけが、頭の中に大きな渦を作り始めていた。

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