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 一ヶ月が経過しても、相変わらず彼女は毎日酔っていた。

 だが、変化が全くないというワケでもない。

 少なくとも笑顔は増えた。酔うにしても、楽しく酔うようになった。溺れるのではなく、漂うようになった。人はいきなりは変われない。しかし同時に、全く変わらない人間もまた存在しないのである。

 ここ最近、話す時間と家事に費やす時間が増していることを、彼女自身も自覚している。以前は億劫なだけで、家事どころか動くことすら拒絶していた頃から考えると、ずいぶんと大きな変化である。夕飯のメニューを自作する日も増えて、夫も喜んでいた。

 そして今も、思い付きで作ったパスタで昼食を食べている。あり合わせの材料で作ったカルボナーラもどきではあったが、味わうことすら出来なかった子供との食事を思い出しながら、久しぶりの味に舌鼓を打っていた。

『……ずっと疑問だったのですが』

 不意に聞こえた前置きに、口をもごもごと動かしながら振り返る。

「何が?」

『お皿とかお茶碗とか、必ず一つだけ小さい物が用意されてありますよね。使っていないようですけど、お客さん用なんですか?』

「あれは――」

 一瞬、一秒に満たないレベルで戸惑いが表れたものの、それはすぐに引っ込んで平静を取り戻す。

「サトルが使ってた物よ」

『サトルさんというと、お亡くなりになったお子さんのことですか?』

「えぇ、そう」

 動揺はない。ただ、その声にはどこか湿度が感じられた。

『なるほどぉ。私はてっきり客人には少なくしかご飯を出さないようにしてるのかと思いました』

「失礼なこと言うな!」

『そもそもお客さんという存在が全く来てないので、確かめようもないんですけどね』

「余計なお世話だよ!」

 痛いところを突かれて、そっぽを向くようにパスタと正対した彼女は、内心の不機嫌を抑えるように口の中を一杯にする。美味しい物が機嫌を直すのは、いつの時代も共通だった。

 しかし、ふと彼女は気付く。サトルという存在を、片時も忘れたことはないと誓える彼女だが、その名を声に出したのはずいぶんと久しぶりであるような気がした。そもそも、息子の話題を自分以外の誰かと話すことすら、なかったように思う。もしも夫が似たような疑問を抱いたとしても、それに触れようとはしなかっただろう。気を遣っているといえば聞こえは良いが、それはやはり逃避なのではないかとも思う。

 息子のことは忘れたくない、もう忘れたがっている夫とは違う、そんな風に思うことで頑なに自分を正当化しようとしてきた自分が、あまりにも都合の良い言い訳を口にする浅ましい存在に思えてしまった。

『それで、どんなお子さんだったんですか?』

 遠慮など微塵も感じさせることなく、それが自然な成り行きであるという口ぶりで冷蔵庫は聞いてくる。本来なら不快にすら思えても不思議ではない無遠慮な踏み込みが、この時はどういうワケか心地良かった。

「良い子だったし、可愛かったし、私達にとっては宝物だったよ」

『もう少し客観的な分析を加えていただけるとイメージを作りやすいのですが。家電だと何に似てますか?』

「どうして家電に例えるのよ」

 エアコンみたいな息子とか、意味がわからない。

『洗濯機みたいな子供とか、アホっぽいじゃないですか』

「全然わからんわ……じゃあ、アルバムを持ってくるよ」

 立ち上がり、寝室へと向かう。夫が居る時は遠慮していたが、死んで間もなかった頃は、アルバムばかり眺めていた。しばらく経って、思い出すこと自体が苦痛に思えてくるようになると、今度は触れないようになってしまった。アルコールに溺れるようになったのは、その頃からである。

「そういえば、久しぶりだな」

 書棚から引き出してみると、薄っすらと埃が見える。上部を払い、分厚い表紙を撫でると、泣くことしか出来なかった日々のことが頭を過ぎる。あの頃は、まさかこんな風にアルバムを取り出す日が来るなど、想像することも出来なかった。

「まぁ、冷蔵庫がしゃべるとも思ってなかったけどね」

 呟いて微笑を浮かべ、再びキッチンへと足を向ける。

 相手は冷蔵庫だったものの、彼女は間違いなく浮かれていた。自分以外の誰かと息子の話が出来ることに、喜びを感じているのだ。しかしもちろん、そんな素振りを見せれば『あの』冷蔵庫のことだ。無粋なツッコミが飛んで来るに決まっている。彼女は努めて冷静な表情を装って、テーブルに最初のページを広げてアルバムを置くと、椅子に座って冷め始めていたパスタにフォークを差し込む。

 どんな反応が返ってくるのかと気にしながらフォークを回し、絡んだパスタを持ち上げる。

『この猿みたいなのがお子さんですか?』

 パスタは口に届かなかった。

「……アンタねぇ、仮に似ていたとしても、他人の赤ちゃんを見せられた時は猿とか言っちゃ駄目でしょ。小さくて可愛いねとか、そういう風に言ってあげるのが礼儀ってもんなの」

『小さくて可愛い猿ですね』

「猿じゃねーよ。人間だよ!」

『しかしですね――』

「あーはいはい、冷蔵庫に新生児はハードル高かったのね。じゃあもう少し先に行って……これくらいならどーよ。可愛いもんでしょ」

 そう言って広げたのは、二歳頃の写真だ。活発に動き始めて大変だった時期でもある。

『ふむ……』

「何よ、ウチの子の可愛さに不満でもあるの?」

『いえ、可愛いと仰ることを否定するつもりはないのですが、どうしてこの子はいつも口の周りがベタベタなのですか?』

「別にいいでしょ。子供ってそういもんなの」

 好奇心旺盛で、落ち着きがなかったことを思い出す。口の周りがベタベタなのは、何かを食べている時の写真が多いからだ。食べている時以外は、大人しくフレームに納まってくれなかったという印象すらある。

『こうして見ると、小さな子供というのはアンバランスですね。頭や身体の大きさの割に、手足が短過ぎます』

「だから可愛いんじゃない」

『危うい感じを受けるのは私だけですか?』

「とりあえず冷蔵庫に子供を見る目がないってのはわかった」

『正直、可愛さは今一つわかりません。ただ――』

 素直な言葉は、いつにも増して淀みがない。

『笑顔が多いですね』

「まぁ、そういう場面を狙って撮ってるからね。食べてる時は機嫌が良かったし」

『あぁいえ、お子さんではなく、マリナさんがですよ』

「え?」

 言われて改めてアルバムに視線を落とすと、そこに居る自分は確かに一つの例外もなく笑顔を浮かべていた。この当時、楽しいことばかりであったという記憶はない。育児は大変だったし、不機嫌になることだって少なくなかった。しかしそれでも、夫が居て子供が居て、その中に自分の居場所があるという家庭を築けていたことは、幸せだったと表現して間違いはないだろう。

『ネットで調べると、子育てというのは実に大変なものという印象を受けるのですが、この写真を見る限りにおいては、その大変さを抱えるだけの価値があるように見受けられますね』

「そうね」

 微かな笑顔で素直に頷く。

『それにしても羨ましいです』

「羨ましい?」

『えぇ、羨ましいです。口の周りをベタベタにして浪費するだけの存在が家族として認められているというのに、多大なる貢献をしている私が名前の一つもいただけないとは、不公平だと思いませんか?』

「だってアンタ冷蔵庫じゃん」

『冷蔵庫だって名前は欲しいんですっ。家族として認めてもらいたいんですっ。口の周りをベタベタにしたいんです!』

「いや、最後の無理だろ」

『何かこう、良い名前はないんですか? このサトルさんの名前を決める時、最後まで争ったライバルみたいな名前が』

「そんなのないけど、そうねぇ……もし女の子が生まれたらって時に用意しておいた名前ならあったよ」

『どんな名前です?』

「ミサト」

『じゃあ、今日から私はミサトでお願いします』

 そんな宣言に、マリナは露骨に眉を顰める。

「アンタ、男でしょ?」

『え、一応設定的には女性ということになってるんですけど』

「うそーん!」

 そんな驚きが何かを溶かしていく。

 この時、今まで止まっていた時間が動き始めたかのような、そんな気がしたマリナだった。

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