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 幸せは溜め息と共に逃げていく。

 そんな言葉を体現するかの如く、長い溜め息がキッチンに木霊する。簡素な木製の椅子に斜めに腰掛け、テーブルに頬杖をついて天井を見上げている彼女の口から響き渡る怠惰の叫びを聞きつけた瞬間、冷蔵庫が文明に寄与してきた功績を分析した熱い語りが停止する。

『退屈ですか?』

「……そーね」

 顔は向けない。しかしその返答に鋭い棘は見られなかった。この冷蔵庫がキッチンに鎮座してすでに二週間足らず、おかしな同居人にも慣れてしまったのか文句を口にすることはなくなった。一時期別室――リビングなどへ発泡酒を持ち込んで飲んでいたこともあったが、それまでの賑やかさがあった分だけ落ち着かないのか、受け答えに張りこそないもののダイニングから離れる素振りはなくなった。結局のところ淋しいのだろうと自己分析している彼女の心の内を嘲笑うように、冷蔵庫はその理由を問うことなく勝手にしゃべり続けている。

 しかし最初の内こそ、冷蔵庫がしゃべるという特異な状況の物珍しさもあって、耳を傾けているだけで退屈を凌げていたが、人間の慣れというのは恐ろしいもので、どのような異常事態でも習慣化すれば退屈を感じるようになる。人の欲は、闇以外の存在を許さないような海溝よりも確実に深い。

『それならママゴトでもしましょうか』

「……は?」

 反応が遅れる。とはいえ、アルコールのせいではない。

 ここ数日、酒量は確実に減っていた。酔うことに躊躇いはない。そのために飲むという意識にも変化はない。しかし泥酔は避けるようになっていた。彼女自身は決して認めようとしていないが、相手が無機物であろうと会話という接点を求めているが故にのことである。冷蔵庫もそのことがわかっているのだろう。直接に指摘することこそなかったものの、しゃべるという行為から身を引くことはなかった。もちろん、冷やす以上にしゃべることを存在意義に掲げている冷蔵庫にとって、沈黙は死と同義なのだから口を閉じる道理などなかったのだが。

『ママゴトですよ。マリナさんが毎日やってることですよ』

「私がやってるのは家事であってママゴトじゃねーよ。コンセント抜くぞ、コラ」

『そんなことをしたら発泡酒がぬるくなるどころか、賞味期限間近の各種食材がアッという間に駄目になってしまいますよ。ちなみに私は非常電源を備えてますので、十二時間はしゃべり続けることが可能ですからご安心下さい』

「……その電力を冷やすことに回しなさいよ」

『腐った食材の代わりはありますが、マリナさんの心を癒せるのは私以外に居ませんので』

 良いことを言ったつもりだろうが、冷蔵庫としては失格発言である。

「アンタねぇ――」

『そんなことよりホラ、今問題なのは目の前にある退屈ですよ。コレを何とかしないことには、明るい明日は訪れません!』

「はいはい」

 妙に熱くなる冷蔵庫に、マリナは苦笑いを浮かべる。彼女は少しずつではあるが気付き始めていた。この冷蔵庫は、ただ単に思い付きからこんなことを言っているのではない。恐らくは夫の指示なのだろうが、子供を失った悲しみや落胆から少しでも早く立ち直り、自らの人生に復帰出来るようにと気を遣われているのだ。その手段に多少の不満はあるが、心遣いを嬉しく思わないワケではない。

『では早速始めましょう。今すぐ始めましょう』

「そんなに焦らなくても付き合ってあげるってば」

 一見突飛な発言に見えるが、これも彼女に家事をさせるための方便なのだろうとわかる。何かをしていれば退屈は紛れる。退屈が紛れれば自然と酒量は減っていく。極めて単純な理屈だった。

『じゃあ私が奥さんやりますね』

「アンタが奥さんなのかよ!」

『最近アレが御無沙汰だから日照り続きでねぇ。酒でも飲まなきゃやってられないっての。ヒック』

「誰の真似してるつもりだ、コラ」

『あらアナタ、もう帰ってきたの。まさかリストラ?』

「縁起でもないこと抜かすな!」

『今日はずいぶん荒れてるのね。でも大丈夫。例え痴漢で捕まっても、私だけは冤罪だって信じてるから』

 最悪である。

 しかし、閻魔様も裸足で逃げ出すような形相に気付いたのか、冷蔵庫はコロリと口調を戻した。これでも一応は分をわきまえているのである。具体的に言うと、うっかりオバサンと呼んでしまった時のように金槌で凹まされない程度には気を遣っている。

『すいません。ネットで調べた感じだと、これくらいが夫婦っぽいのかと思ったものですから』

「妙なこと調べてんじゃないよ。そもそも夫婦ってのはもっと――」

 言いかけて、はたと気付く。今の自分は妻としての理想像とかけ離れているのではないかと。もちろん夫にだって落ち度はあると思うし、不幸が重なっての結果である以上、仕方のない部分もある。それでも今の二人は、夫婦と呼ぶことすらどうかと思えるほどアンバランスに感じられた。頼るのも結構、甘えるのも結構、だがそれはお互いに支え合っていればこその話である。

「いや、そうね。案外そんなものかも」

 諦めたような溜め息と共に、そんな台詞が漏れ出てくる。

『じゃあ痴漢をした夫を頑なに信じるフリをしながら離婚の準備を始めるところから再開しますね』

「痴漢とかしねーよ!」

 激しく否定の言葉を掲げる彼女は、何故か笑顔だった。

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