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『マリナさんは、どうしてお酒を飲むんですか?』
数日後、今日も今日とて飲んだくれていた若奥様に、冷蔵庫が不思議そうに尋ねる。ここのところ話すのも億劫になって、無視を決め込むことが増えた彼女だったが、その質問には興味が湧いたのか、缶から口を離して何やら考え込んだ。
が、結論はすぐに見付かる。
「どうしてって、酔いたいからかな、やっぱり」
彼女の中に、美味しいなんて思いながら飲んだ記憶はない。ビールや発泡酒を好んだのも、アルコール度数が低くてたくさん飲めたからだ。
『あー、わかりますわかります。白い冷蔵庫が「私ってピュアだから」とか言って自分に酔ってるのと一緒ですよね?』
「そんなのと一緒にすんなっ」
『でも、酔うというのはそういうことでは?』
「ちげーよ。もっとストイックな感じなんだよ、私のは!」
『じゃあアレですね。グレーの冷蔵庫が「オレ人気ないんだよね」とか言って不幸に酔ってるみたいな感じですね』
「ふざけんな」
どちらも全く外れてもいないような気がする辺りに、余計苛立ちが募る。コイツはワザと言っているんじゃなかろうかと睨みを利かせてみるが、表情どころか顔すらない冷蔵庫の真意など読める筈もない。
「じゃあ、そう言うアンタは、どうしてしゃべってるワケ? 冷蔵庫がしゃべる必要なんてないよね?」
『な……な、な――』
冷蔵庫がガタガタと震えている。
『何てこと言うんですかぁ!』
絶叫がキッチンに木霊する。壮絶な大音響に彼女は尻餅をつき、酔いも半分くらいは覚めてしまっていた。そのまま、しばし呆然として黒い大きな塊を見上げていたものの、ふと我に返るなりよっこいせと立ち上がり、漏れ出てしまった酔いを取り戻すように発泡酒をあおる。
「いきなり大声出すな。うっさい」
『今のはマリナさんが悪いんです。良いですか。冷蔵庫がしゃべれないようになったら、物を冷やすだけの大きな箱に成り下がるんですよ。癒しも萌えもなくなるんですよ。それがこのキッチンという空間においてどれほど重要なことなのか、一度でも考えたことがあるんですかっ!』
「癒しと萌えってキッチンに必要か?」
『必要ですよ。当然じゃないですかっ。癒しも萌えもないのに、キッチンという戦場を生き抜けると思っているんですか!』
「いや、戦場って……」
『想像してみて下さいよ。キッチンに一人淋しそうに立つ奥様が、旦那様の帰りを待ちながら味噌汁の味見なんてしているんですよ。大観衆の声援どころか労わりの言葉もなく淡々と料理を作るなんて、どれだけ淋しんぼさんなんですか』
「何か、いたって普通の光景に思えるんだけど?」
不満顔で、それでも言われるがままに思索を終えたマリナが、思ったままを口にする。
『……わかりました。我々の存在意義について、少しばかり教えて差し上げます』
「はいはい、言ったんさい」
『キッチンに様々な家電が並んでいるのは、今更言うまでもないことですよね。私の他にも汎用レンジや調理用ヒーター、ミキサーやスライサー、最近出た超音波振動包丁なんかも、一種の家電と言えるかもしれませんね』
「まぁそうね。ウチにもミキサーくらいならあるし」
緩慢な仕草で指を折りつつ、戸棚の奥に仕舞ってある埃を被った調理器具を思い出す。
『それらの耐用年数を知っていますか?』
「たいようねんすう? どのくらい長く使えるかってこと?」
『そうです。御存知ですか?』
「さぁ、五年くらい?」
『小物系はそのくらいですね。ちなみにレンジは八年、調理用ヒーターは十年が基本です。そして私、冷蔵庫は十二年が現在の主流です』
「へぇ……で、それがどうしたの?」
『つまりですね。私達冷蔵庫は最も長くキッチンで皆様とお付き合いをすることになるのですよ。いつもそこにいる、それが当たり前なんです。更に言えば、決して動くことがありません。台所という場所に行けば、いつでも会える安心を提供出来るのも冷蔵庫の大きな特徴です』
「まぁ、こんなのが家の中をウロウロされたらたまったもんじゃないけどね」
『そんな私達が、キッチンを活用する奥様方と話をするようになるのは必然だと思いませんか。むしろ「どうしてしゃべれるのか」ではなく、「どうして今までしゃべらなかったのか」と問うべきじゃないかとすら思いますね』
「いや、必要なかったからだろ」
『何を言っているんですか。昔の人は言いました。長い間使っている道具には神が宿ると。きっと昔も、長年使ってきた冷蔵庫には話しかけていたに違いないと思うんです。それに対し、ようやく冷蔵庫が応えられるようになってきたんですよ』
「冷蔵庫相手にブツブツ言うとか、怖いにも程があるんだけど」
『微笑ましい話じゃないですかっ』
立派な怪談である。
「で、アンタはそんな使命感を抱えてしゃべってるワケ?」
『いえ、単にしゃべりたいからしゃべってるだけですけど』
「そこは肯定しとけよ!」
『まぁ、これも時代の流れってヤツです』
「とりあえずアンタのしゃべりが何の役にも立ってないってことはわかったわ」
『アル中は理解力が足りないですね』
「何だと、コラ!」
『なら試してみましょうよ。冷蔵庫の応援がどれだけ心強いのか、台所レベルの低いマリナさんに教えて差し上げます』
「おう、教えてもらおうじゃねーか」
売り言葉に買い言葉、彼女はずいぶんと久方ぶりにフライパンを握った。それは重く、熱く、そして懐かしい。酔いは覚めていなかったので、その視界は少し遠くに感じられたものの、油の跳ねる音や少し焦げ付いた匂いが、明確な現実を感じさせてくれた。
だが、現実に触れると決まって現れる温かな記憶が、その日は出てくることが出来ないようだった。
半分は、料理に集中していたせい。
そしてもう半分は――
「甲子園じゃないんだから、鳴り物とかやめろ!」
うるさ過ぎる応援のせいだった。