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リビングからダイニングへ足を踏み入れた瞬間、昨日までとは景色が違っていることに気付く。キッチンの主役とも言うべき冷蔵庫が入れ替わっているのだから、気付くのも当然だ。昨日までくすんだ灰色をしていた物体は、光沢のある漆黒へと姿を変えていた。とはいえ、デザイン的には大きく変わっていない。機能で困惑するようなこともなさそうだった。
「昨日何かゴソゴソやってたと思ったら、これだったのか」
どこか覚束ない足取りで、まだ鮮やかさの残る木目の上を闊歩する。郊外の外れに位置する一戸建ては、夫の会社こそ遠いものの広さと設備に関しては文句の付けようがなかった。学生時分に恋をして、社会に出て間もなく結婚してからは専業主婦として家庭に納まり、子供という存在を奪われる直前までは、世界の誰よりも幸運な幸福を手にしているのではないかと思っていたほどだ。夢のようだと思ったことも、一度や二度ではない。
当時は、現実が夢でないことに安堵した。しかし今は、現実が夢でないことに絶望している。自分の記憶も過去も、全てなかったことに出来ればと、その日の彼女も思っていた。
朝の彼女は、いつも決まって気分が悪い。
昨日の酔いが完全に抜けておらず、それでいながら脳細胞がアルコールに溺れていない。痛みだけが残り、嫌な記憶だけが思い出される。まるで胃の中に石でも詰め込まれた狼のように身体が重く、間接を曲げただけできついと思えるほどに全身がむくんでいる。視界を動かしただけで脳が揺れたような気持ち悪さを振り撒くので動きたくはないのだが、水分を欲する口元の意志に従って仕方なくダイニングを訪れ、そして苦しみから逃れるために冷蔵庫から酒を取り出す。
それがいつもの彼女だった。
そして今日も、そのつもりで冷蔵庫へと手を伸ばす。
『おっと、あっしに触れたら火傷するぜ、お嬢さん』
その手が触れる直前で止まった。というより、思考が止まった。その声が何処から響いたのか、あるいは脳内でのみ響き渡る幻聴なのかどうかすら曖昧になって、とりあえず周囲を見回してみる。
だが言うまでもなく、そこには誰かの姿どころかゴキブリの姿さえ見付けることが出来なかった。
「……ひょっとして、アンタがしゃべった?」
まさかと思いつつ、目の前に居る巨大な黒い箱に問いかけてみる。
『やだなぁ、お嬢さん。そんなの愚問じゃないですか。電子レンジやコンロがしゃべると思いますか? つまりはそういうことです』
「いや、普通は冷蔵庫もしゃべらんでしょ」
『またまたご冗談を。私の居た工場では冷蔵庫が話すなんてありふれた日常でしたよ』
「怖っ!」
『そんな散歩中の犬に突然話しかけられたみたいな顔しなくても良いじゃないですか。失礼ですね』
「いやいや、四角い物体が輪になって世間話してるとか、ホラー以外の何だと言うワケ?」
『それが世の中の進歩というものです』
嫌な文明開化である。
「……まぁ、何でもいいけどね」
諦めたように吐息を漏らしつつ、一番上の大きな扉に手をかけて引き開ける。まだ新しいせいだろう。バクンという音には切れがある。
『ちょちょちょっ!』
冷蔵庫は慌てた。
「何よ?」
『朝起きて、冷蔵庫に満足な挨拶もなしにいきなり飲んだくれモードですか?』
「悪い? というか、どうして冷蔵庫に挨拶しなきゃなんないのよ」
夫がプレゼントとか何とか言っていたから少し楽しみにしていた結果が小言を並べる冷蔵庫だったりしたこともあって、妻は極めて機嫌が悪い。お気に入りの発泡酒を取り出してプルタブを起こすなり、何かを洗い流すかのような勢いで喉へと流し込む。
「かーっ、落ち着くわー」
典型的なビール党だった彼女にとっては代用品でしかなかったが、経済的な理由や負い目から、酒に溺れるようになってからはずっと発泡酒ばかりを飲んでいる。もうビールの味すら忘れてしまったほどだ。いや、味などどうでも良いのかもしれない。
彼女にとって重要なのは、酔えるか否かなのだから。
『……なるほど、わかりました』
不意に冷蔵庫は納得した。
「何がわかったって?」
『つまり不満なのですね?』
不満という響きに、彼女は少しばかり違和感を覚える。実を言えば、こんな状況に陥ってからも変わらず見守り続けてくれる夫には感謝すらしている。手段はともかく、心配してくれるからこそ奇怪な冷蔵庫を購入してくれたのだろうし、その気持ち自体を否定するつもりはない。
ただ、彼女が求めているのはこんな物体ではなかった。
「そうね。大いに不満だわ」
癖のように始まったしゃっくりを止める気すらなく、面倒から逃れたいとばかりの表情で同意する。自分に対する嫌悪すら恨んでいるかのように、その瞳は何も映すことなく全てを拒絶している。
『では改めまして――』
コホンと咳払いなどして、冷蔵庫が無い口を開く。
『ぼんじゅーる、まどもあぜる』
開かれた黒いドアが怪しい口髭に見えるような、如何わしい発言だった。語尾にザマスでも付けた方が、まだそれらしく聞こえるレベルである。
無論、彼女の意識は停止した。発泡酒が右手から滑り落ち、木目の境を凹ませてから転がり始める。しかし中身が漏れ始めるなり動きは止まり、今度は床に甘い匂いを撒き散らし始めた。
「……な……ん」
とりあえず言葉はない。何がどうなってこうなったのかすら、わかっていない顔付きだった。
『あれ?』
「あれじゃないよっ! 今の何? 何のつもりっ?」
『いや、改めて挨拶を』
「何のために!?」
『それはホラ、貴女が不満だと言うので』
「違うよっ。そんな些細な不満じゃないよ!」
『あ、わかりました。まどもあぜる、じゃなくて、まだむ、と呼ぶべきですよね』
「いや、そこはむしろマドモアゼルで」
いつの時代も女は年齢に貪欲である。
『うい、まどもあぜる』
「……いや、やっぱり普通に日本語にして」
仕方なく彼女は譲歩することにした。
いずれにせよ、こうしてキッチンドランカーと冷蔵庫は、必然的な出会いを果たしたのである。