表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

1

今回のテーマは癒し系SFです(笑)

 小脇にいつもの鞄を挟んだ夫が、ネクタイを締めながら寝室を覗き込む。

「それじゃあ行ってくる。あまり飲み過ぎないようにな」

 返事はない。ただ聞こえてはいたようで、面倒そうに持ち上げた右手がヒラヒラと泳いでいた。その様子にもう一言重ねようと口を開きかけた夫だったが、時間的な余裕と精神的余裕を理由に口を閉ざし、そのまま玄関へと歩いていく。どこか沈み込んでいるように思える屋内から出ると、高く青い空が広がった。陽はまだ低いものの、すでに真昼の暑さを髣髴とさせる輝きを放っている。しかし彼は、憂鬱になっても不思議ではない一日の始まりを、いつも通りの澄んだ一歩で進み始める。

 彼にとって、会社も仕事も楽しくはない。それでも、ここに留まるよりは何倍もマシであるように思えた。

 三歳になろうとしていた子供が二人の下を去ってから、もう半年以上が経過していた。突発的に起きた幼稚園バスの横転事故、視界の悪い雨の日、住宅街の影から突き出していた乗用車の鼻先を咄嗟にかわした際にバランスを崩し、後輪の片方が車道を外れて田んぼへと横転したのだ。死者は一名、彼らの子供だけだった。

 夫婦は掠り傷に派手な包帯を巻いて幼稚園の関係者に噛み付く醜い大人達を横目に見ながら、周囲の同情的な眼差しから逃れるように、この問題から距離を置いていった。二人にとって、幾ら貰えるのかなどという問題は何一つ興味を引かなかったからである。

「……また元気になって、新しい子が出来るようになったら、きっと」

 眩しく今日を照らす太陽を翳した左手の向こうに眺めながら、夫の口からそんな呟きが漏れてくる。それは願いであり、希望であり、彼にとって喜ばしい未来だった。二人にとって息子の死は単なる喪失ではない。覚悟の上に成り立った、最後の希望が失われたに等しい状況だった。少なくとも、妻はそう思っているのだろうと彼は思う。

 妻は生まれ付き持病を抱えていた。生きるのに支障はない。しかし心も身体も、過度のストレスに耐え切れない彼女にとって、出産は危険な賭けだった。それを乗り越えられたのは、二人の間に信頼と愛情があったことと、何より彼女自身が新しい命の誕生を強く願ったからである。もちろん、環境面の配慮から来る体調面での好調と若々しい肉体が揃っていたことも、無視の出来ない要因ではあるだろう。しかしそれも、一度の出産を終えるまでの話だ。その負担は彼女の命すら削り、危うい所で踏み止まる程度に苦しめられた。二度目は危険過ぎると、明確な烙印を押されてもいた。それ故に、息子の死が彼らに落とす影は果てしなく重く、そして暗いモノとなっていたのである。

 だから、今の彼女が『酔う』ことに逃げているという事実を、彼は責める気になれない。それは仕方のないことと割り切っている。しかし同時に、それがいつまでも続くことに激しい危機感を募らせてもいた。元々弱い身体は、年齢と共に衰えていく。せめて二十代が終わらない内に、彼女には立ち直ってもらう必要があった。

 新しい未来を作り、育てていくために。

「気に入ってくれるといいが」

 腕時計で時刻を確認しながら、夫は今の自分に出来ることをこなすため、淡々と歩みを進める。いつもと何一つ変わらないように見える彼だが、昨晩は結構大変だった。搬入して設置して初期設定を終わらせる頃には、すっかり日付を跨いでいた次第である。

 もちろん、そうするだけの価値があると思ったからこそ、したことだ。後悔がないばかりか、気持ちの上ではスッキリとしている。とはいえ、眠気の残る身体が重く感じられることだけは、偽りようもない。実感などしたくはないが、彼も確実に齢を重ねているのである。情熱だけで動ける若さを維持するのも、そう簡単ではなくなってしまうだろう。

 酒に溺れ、過去という時間に縛られている彼女が未来に向かうことが出来るのか、そんな重要な課題を、彼は一台の冷蔵庫へ託すことにした。

 どう考えてもムチャ振りである。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ