第8話 井伊直亮を説得せよ
数日後──彦根城奥の間。藩主に直言が許されたわずかな重臣のみが集う空間は、張り詰めた空気に満ちていた。屏風に映る灯の揺らぎさえ、沈黙を破るのをためらっているかのようだ。畳に膝を揃えて座す重臣たちの姿は、軍隊の整列のように乱れがない。
その最奥、床の間の前に、彦根藩主・井伊直亮が控えていた。
その存在感は、かつて俺の前世で見たどんな国家指導者よりも強烈だった。黙って座しているだけなのに、部屋全体の支配権が彼一人に集中している。
「面を上げよ。壮大な計画の話だと聞く。だが、余の時間は限られている。簡潔に頼む」
威圧でも怒声でもない。だが、そのひと言に、重臣全員が喉を鳴らすのが分かった。
「かしこまりました。長英様、技術の説明を」
俺が促すと、重臣たちの多くは露骨に表情を曇らせた。政と軍の話に慣れた彼らにとって、「技術」など門外漢。期待した話の順序と違う……という失望が視線に滲んでいる。
だが、それこそ俺の狙いだ。この会議は、技術で驚かせ、未来像で惹きつけ、最後に政治と利益で締める三段構え。順序が肝だ。
「僭越ながら申し上げます。琵琶湖と海を直結させる際、塩水が湖へ逆流する危険があります。しかし──『閘門』という西洋技術を用いれば、完全に防げます」
「閘門……? 蘭学で聞いた覚えはない。説明せよ」
長英は、二重の門を用いる基本構造を、簡潔で明瞭に語った。ところが直亮の反応は違った。
「その程度の喩えは不要だ。赤子でも分かる」
重臣たちが一斉に顔を赤くした。彼らの中には、いまだ理解できぬ者もいる。だが、直亮はすでに本質を掴んでいる。
──やはり、この男は天才だ。
「失礼いたしました。では、具体的な仕組みに入ります」
長英はすぐに態度を改め、核心部分を端的に解説した。それを、直亮は涼しい顔で聞き、要所で「なるほど」「面白い」と軽やかに相槌を打つ。
ここまでくれば、話は乗ったも同然──そう思ったところで、直亮の眼光が鋭く細まった。
「だが、ひとつ疑問が残る。帆だ」
座敷が静まり返る。
「船には背の高い帆柱がある。それがある限り、トンネルを掘っても通れぬ。巨大なトンネルなぞ現実的ではない。──どう解決する?」
そこで、渡辺崋山が滑らかに進み出る。
取り出した絵図には、帆柱を倒し、運河のトンネルをすり抜ける船の姿、さらに水路沿いに繁栄する町並みが描かれていた。
「これは……! 確かに倒せばよい。しかし──どうやって倒す? 毎回外して取り付け直すのでは、時間の浪費だ」
直亮の視線が、俺に向けられる。企画者としての答えを求められている。
「可倒式マストでございます」
「可倒式……? マスト?」
「はい。瞬時に帆柱を倒し、また立て直す構造です」
「それはオランダの最新技術か?」
「オランダのみならず──世界中で最新の技術でございます」
直亮の瞳が揺れ、輝く。
「世界中で、最新……」
その言葉を何度も反芻するように呟いた。
「だが、そなたはなぜ世界の最新技術を知っている?」
「そ、それは……」
危ない。転生者であることは口が裂けても言えない。そこで、家臣が助け舟を出す。
「殿、次のご予定が……!」
「構わぬ! この計画は国政の根幹に関わる!」
危機回避。最悪の場合、「自分で考案した」と言って平賀源内扱いされれば済む。
「この運河計画には、続きがございます」
長英と崋山が「え? そんな話聞いてない」という顔をした。当然だ。今初めて口にするのだから。
「運河が完成した暁には──その横に、鉄の車輪が蒸気の力で動き、一日で江戸と大坂を結ぶ新しい道が敷かれるでしょう。運河は、その未来への最初の道となります」
奥の間にいた全員が、息を呑んだ。
「つまり……我が藩にとどまらず、日の本すべての益となると?」
直亮は、頬をわずかに紅潮させていた。
「面白い……面白いぞ!」
彼は立ち上がり、宣言する。
「義春、この計画への着手を命じる! 運河奉行に任じ、全権を与える。人員を集め、ただちに工事に取り掛かれ!」
こうして、琵琶湖運河計画は正式に認可された。
もちろん──ここから先は地獄だ。人員、資材、政治工作、周辺藩の説得、京・幕府への根回し。
だが。俺には前世知識という武器がある。この時代の常識で測られない奇策を、いくらでも用意できる。
「さあ……ここからが本番だ」




