第57話 星条旗の野望と鋼の河
ヨーロッパの二大強国が彦根で沈黙したという報は、大西洋を越え、産声を上げたばかりの野心的な国家、アメリカ合衆国にも届いていた。
「日本が技術大国? 笑わせるな。あそこは捕鯨船の補給するための、ただの寄港地に過ぎん」
そう豪語して彦根に乗り込んできたのは、合衆国特使であった。彼はイギリスのような伝統も、フランスのような美学も持ち合わせていない。あるのは「フロンティア・スピリット」という名の剥き出しの征服欲と、実利への執着だ。
特使は運河を一瞥し、鼻で笑った。
「見事な掘り割りだ。だが、義春殿。我が国にはミシシッピがある。この程度の運河、我が国の蒸気船が一度通れば、その波で岸が崩れてしまうのではないか?」
俺は何も答えず、彼らを琵琶湖運河の「心臓部」――巨大な石造りの閘門へと案内した。ちょうど、日本海から運ばれてきた巨大な輸送船が、閘門に進入するところだった。
特使の目が、その船の形を捉えて見開かれた。
「んだ、あの船は。帆がない……いや、マストが倒れているのか?」
俺が考案した「可倒式マスト」を備えた船が、低い橋をくぐるために瞬時にマストを倒し、運河の中を悠然と滑り抜けていく。そして、閘門の中で水位が劇的に変化し、数分足らずで船が「階段」を登るように高地へと進んでいく様を、ロバーツは言葉を失って見つめていた。
「この運河は、単なる水の道ではない。日本列島という巨大な山脈を無効化し、太平洋と日本海を一つの『池』に変えるための大動脈だ。特使殿、これが何を意味するか分かるか?」
特使の額から、嫌な汗が流れ落ちた。
もし日本が、この運河を通じて瞬時に艦隊を東西に移動させれば。そして、あのシールド工法で作られた要塞が海岸線を守っていれば。
「我々の海軍力では、近づくことすら叶わない。この国を『補給基地』にするなどという考えが、いかに浅はかだったか」
特使がさらに打ちのめされたのは、運河沿いに整然と並ぶ「製鉄所」と「加工工場」の群れを見た時だった。
そこでは、イギリスでさえ手作業に頼っていた部品製造が、水力と初期の蒸気機関を組み合わせた「半自動化」によって、驚異的な速度で進められていた。
「我が国はまだ、森を切り拓いている段階だというのに。貴殿らは、この島国の中に、すでに巨大な『工場の都市』を築き上げている」
アメリカが誇る「自由と成長」の象徴である産業化。それが、はるか東の古い王国で、より洗練された形で先んじられている。その事実は、若きアメリカのプライドを根底からへし折った。
「義春殿。我が合衆国は、貴国との『対等な貿易』を強く希望する。いや、訂正させてくれ。我々に、貴国の製品を、その技術の恩恵を分けていただきたい」
特使は、俺の手を力強く、しかし震える手で握った。ペリーが浦賀に現れるはずだった未来。それは、俺が造り上げた「鋼の河」の奔流によって、永遠に書き換えられたのだ。




