第55話 大英帝国の黄昏
オランダが屈したという報を受け、次に彦根の土を踏んだのは、時の大英帝国公使、ラッフルズ率いる精鋭の技術視察団だった。
彼らは一様に、傲慢なまでの自負を胸に秘めていた。当時のイギリスは産業革命の最先端を走り、七つの海を支配する最強国家。彼らにとって日本は、少しばかり珍しい玩具を持つ「幸運な東洋人」に過ぎなかったのだ。
「義春殿、私は無駄な儀礼を好まない。貴国の運河、そして例の地下道を見せていただこう。我が国のテムズ川トンネルに比肩するものかどうか、この目で確かめたい」
ラッフルズは、冷ややかな青い瞳で俺を射抜いた。随行する技師も、手にした革表紙のノートを叩き、鼻で笑っている。
「閣下、時間の無駄ですよ。彼らが掘ったのは、せいぜい山を穿つだけの素朴な穴でしょう。蒸気ポンプもなしに、水漏れ一つ防げるとは思えません」
俺は何も言わず、彼らを例の「ヒスイのトンネル」へと案内した。一歩、地下へと足を踏み入れた瞬間だった。技師の饒舌な口が、魚のようにパクパクと動いたまま止まった。
「なんだ、これは。……ありえない」
技師は、狂ったように壁面に駆け寄った。
彼らがロンドンで苦闘していたテムズ川トンネルは、浸水と落盤、そして有毒ガスの噴出によって、工期は絶望的に遅れ、莫大な犠牲者を出していた。彼らにとって「地下を掘る」とは、常に死と隣り合わせの泥沼の戦いだったのだ。
だが、目の前の回廊はどうだ。完璧なまでの円筒。シールドマシンが削り出したようなその滑らかな壁面には、一切の歪みも、水の染み出しもない。それどころか、宝石のようなヒスイが壁一面に散りばめられ、松明の光を神秘的に反射している。
「継ぎ目が……セグメントの噛み合わせが見えない! この曲率、この精度……。義春殿、貴国はどうやってこの土圧を支えているのだ! 我が国のマーク・ブルネル(シールド工法の提唱者)ですら、これほどの安定を導き出すことはできなかったはずだ!」
技師は叫びながら、這いつくばって地面を調べ始めた。イギリスが「理論」の段階で足踏みしていたシールド工法を、日本は「完成された芸術」として実用化していた。その圧倒的な落差が、大英帝国の誇り高き技師の精神を粉々に粉砕していく。
「閣下、見てください。この空気の循環……。機械的な換気装置を使わず、気圧差だけで新鮮な空気を送り込んでいる。我々は、とんでもない怪物と出会ってしまった」
ラッフルズの顔から、急速に血の気が引いていくのがわかった。
彼がさらに絶望したのは、その先に待っていた「蒸気機関の試作機」を見た時だった。
長英が持ち帰った情報を、俺が現代の熱力学理論で補正し、彦根の鋳造職人が鍛え上げたそのエンジン。それは、イギリス製の無骨で巨大な機械に比べ、驚くほどコンパクトで、かつ金属同士が奏でる音は滑らかな旋律のようだった。
「蒸気の漏れる音がしない。このピストン、どうやってこの加工精度を出したんだ?」
技師は、もはやスケッチを取ることすら忘れていた。
イギリス製の蒸気機関は、力強いが常にどこからか蒸気が漏れ、油にまみれ、激しい騒音を撒き散らす「荒々しい野獣」だった。しかし、目の前にある日本の機関は、沈黙の中に爆発的な力を秘めた「研ぎ澄まされた刃」そのものだった。
「ラッフルズ閣下。大英帝国が数十年かけて辿り着いた場所に、我々はわずか数年で到達した。それも、貴方たちの『物差し』よりも、少しばかり正確な物差しを使ってね」
俺が静かに告げると、ラッフルズは力なく杖を突き、深く項垂れた。
「負けだ。完敗だよ、義春殿。我が国が『世界の工場』であると自惚れていた間に、貴国はこの極東で、神の如き知恵を磨いていたというわけか」
その日の夜、ラッフルズは本国への極秘親書を書き換えた。
『日本を植民地化するなど、狂気の沙汰である。我々がすべきは、一刻も早くこの国と対等な同盟を結び、彼らの技術を「拝借」する道を模索することだ。さもなくば、英国の工業は、日の本の波に飲み込まれて消えるだろう』
かつて世界を震撼させた大英帝国の誇りが、彦根の冷たい地下回廊で、静かに、しかし確実に散っていった。




