第52話 深緑の衝撃
彦根の地は、かつてない熱気に包まれていた。琵琶湖のほとりに忽然と現れた巨大な建築物。その前に整列したオランダ商館長一行は、周囲の職人や兵士たちが放つ、静かな、しかし圧倒的な自信に気圧されていた。
「ようこそお越しくださいました。私が、勘定奉行の義春です」
俺は、最上の礼装に身を包み、彼らを迎えた。商館長は俺の若さに一瞬目を見開いたが、すぐに洗練された所作で帽子を脱ぎ、深々と頭を下げた。
「お招きに預かり光栄です、義春殿。しかし……この建物、入り口が見当たりませんが?」
商館長が怪訝そうに周囲を見渡すのも無理はない。彼らの目の前にあるのは、建物の正面玄関ではなく、地面へと緩やかに続く巨大なスロープと、その先に口を開けた漆黒の穴だった。
「我が国の知の神殿へは、地底を通ってお入りいただきます。さあ、こちらへ」
俺が先導し、一行を地下回廊へと導く。
一歩足を踏み入れた瞬間、商館長を含めたオランダ人たちの息が止まった。
「な……なんだ、これは……」
そこは、彼らが知る「洞穴」でも「地下室」でもなかった。
完璧な円筒形を成す壁面。それこそが、琵琶湖運河を掘り抜いたシールド工法の結晶だ。そして、その継ぎ目のない滑らかな壁には、信濃から運び込まれた無数のヒスイが埋め込まれていた。
通路の左右に等間隔で置かれた燭台の火が、深緑の石に反射する。
光は壁を伝い、屈折し、回廊全体を幽玄なエメラルド色の光で満たしていた。まるで、海底の宮殿を歩いているかのような錯覚に陥る。
「美しいだろう? だが、注目すべきは装飾ではない。商館長様、この壁を触ってみてください。どこかに継ぎ目や、歪みがありますか?」
商館長は震える手で、ヒスイの間に露出した壁面に触れた。
「信じられん。レンガでも石積みでもない。巨大な筒が――そのまま地を貫いている。この深さで、これほどまでの圧力を受けながら、微塵の亀裂すら存在しないとは……」
彼のような博識な男なら、これがどれほど異常な土木技術であるか、このヒスイのトンネルを触れるだけで理解できるはずだ。
「これは、我が国のシールド工法という技術です。イギリスがテムズ川の難工事で苦労している間に、我々はこの『柔の構造』を完成させた。地震の揺れすら、この円がすべて逃がしてしまいます」
俺の言葉に、随行していたオランダの技師が絶句し、膝をついた。彼らにとって、このトンネルはもはや建築物ではなく、理解を超えたオーパーツだった。
「義春殿。貴方は、この地下に何を隠しているのだ。この入り口だけで、我が国の王宮が色褪せて見える」
「驚くのはまだ早い。この『緑の静寂』――ヒスイのトンネルを抜けた先で、貴方たちは数千年万前の主と対面することになる」
回廊の突き当たり。巨大な石の扉が、重々しい音を立てて開き始める。エメラルドの光の先に、暗闇の中から浮かび上がる巨大な白骨の影。オランダ使節団が、本当の意味で「日本の恐怖」を知るのは、ここからだった。




