第51話 出島の激震
長崎、出島。海を渡ってきた潮風が、オランダ商館の窓をガタガタと揺らしていた。商館長は、手元に届けられた一通の書状を前に、椅子から立ち上がることすら忘れて硬直していた。まるで、彫刻のようである。
「信じられん……。これは、本当にあの『従順な』日本人が書いたものか?」
商館長の傍らに控える通詞たちも、青ざめた顔で沈黙している。招待状という形式をとりながら、その中身は傲慢不遜な「最後通牒」であった。
『貴国が最初の招待に応じぬのであれば、今後一切、我が国の門を潜ることは叶わぬと思え』
その一文が、商館長の脳裏を火傷のように熱く刺激する。これまでの日蘭貿易は、オランダ側が「世界を知る唯一の窓口」として、常に優位な立場で情報を小出しにしてきた歴史だ。しかし、この書状から漂う空気は全く逆だった。
「商館長、いかがなさいますか? 江戸の……いえ、彦根の義春という若き重鎮は、口先だけの男ではありません。あの京都地震で崩れなかった運河の噂は、世界中に広がっております」
部下の言葉に、オランダ商館長は震える手で煙管を握りしめた。煙管からのぼる煙は心もとない。
「わかっている。奴が提示した『可倒式マスト』の技術……。もしこれがイギリスやフランスの手に先に渡ってみろ。風を読み、帆を操ることで制海権を握ってきた我らオランダの優位は、一夜にして消えてなくなる」
オランダにとって、この招待は「チャンス」などという生易しいものではなかった。行けば、日本の軍門に下るような屈辱を味わうかもしれない。しかし、行かなければ、国家の屋台骨である東インド貿易そのものが、技術競争の敗北によって崩壊する。
「狡猾な。実に、ずる賢い男だ」
商館長は、義春という顔も知らぬ若き政治家の影に、底知れぬ恐怖を感じていた。
日本の文明を「見せてやる」という傲慢さ。それを断れば「時代に取り残される」という冷酷な計算。それは、かつてヨーロッパの強国たちが、未開の地に突きつけてきた植民地主義的な手法そのものではないか。
「すぐに早船を出せ。いや、待て……そんな猶予はないな。私が直接、彦根へ行く。最高の正装と、これ以上ない返礼品を用意しろ」
商館長は、深いため息とともに、日本から突きつけられた「挑戦状」を丁寧に畳んだ。その手は震え、彼の心境を表していた。
「鎖国の殻に閉じこもっていた獅子が、牙を剥いて『自分たちに合わせて踊れ』と言っているのだ。我々に、断る選択肢など最初からない」
長崎の港を出発するオランダの使節団。
それは、世界を驚愕させる「大日本博物館」が、初めてその真価を世界へ問いかける瞬間の始まりでもあった。




