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【江戸時代】琵琶湖運河、開通ス  作者: 雨宮 徹


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第44話 資本の産声


「……よし、始めろ」



 俺の合図とともに、長英が指示を出す。 



 琵琶湖の入り江に浮かぶ、特製の平田舟。その中央に鎮座した、長英お手製の蒸気機関が「シュ……シュウウッ!」と白い息を吐き出した。



 外輪が水面を叩き始めると、船体は帆も竿も使わず、まるで意思を持った獣のように水面を滑り出した。 



「動いた……。風もないのに、水に逆らって進んでおる……」



 岸辺で見守る役人や職人たちから、地鳴りのようなどよめきが上がる。無理もない。彼らにとって、これは理を超えた魔法のような光景だ。



 だが、俺の隣で、食い入るようにその動きを見つめている男が一人いた。薩摩の調所広郷だ。



「義春殿……。これは恐ろしい。これがあれば、風待ちも潮待ちも不要になる。物流の速さが、これまでの十倍、いや百倍になるぞ」



 調所の目は、驚愕を通り越して「欲」にぎらついていた。経済の怪物である彼は、この機械がもたらす莫大な富の匂いを瞬時に嗅ぎ取ったのだ。



「ああ、そうだ調所殿。だが、これ一台を造るのに、どれほどの金と人手がかかると思う?」



 俺の問いに、調所は言葉を詰まらせた。



「一藩の財政で賄えるものではあるまい。幕府か、さもなくば我らのような大藩が、死に物狂いで金を注ぎ込まねば……」

「その通りだ。だから、独占はさせない」



 俺は調所に向き直った。



「この蒸気機関の製造、および運河での運用を行うための『組織』を新しく作る。幕府の直轄でもなければ、どこかの藩の所有物でもない組織だ」



 周囲の役人たちがざわついた。何を言っているんだ、という顔だ。この時代、あらゆる組織は公か私に属するのが常識だ。

「名を『日本蒸気運河会社』とする。出資者は幕府、そして薩摩、長州をはじめとする諸藩。豪商たちからも広く資金を募る」

「何だと? 大名と商人を同じ席に座らせ、共に商いをさせるというのか。そのような不義理、武士が許すはずもなかろう!」



 調所が声を荒らげる。だが、俺は笑って首を振った。



「義理や面子で腹は膨らみませんよ、調所殿。出資した額に応じて株という権利を渡し、得られた利益をその割合で分配する。損をする時は皆で分かち合い、得をする時は皆で肥える。これが株式会社という、世界を席巻することになる魔法の仕組みだ」



 俺は懐から、あらかじめ用意しておいた書付を取り出した。



「これを見なさい。この会社の株を持てば、運河の通行料だけでなく、蒸気船が運ぶ物資の利益、さらには今後開発される新技術の配当も受け取れる。薩摩が五百万両の借金を返したいなら、この『未来』に乗るのが一番の近道だ」



 調所は、俺が差し出した「株券」の雛形を奪い取るようにして見つめた。



 一藩で技術を盗もうとすれば、幕府から目をつけられ、開発費で自滅する。だが、この仕組みに乗れば、リスクを最小限に抑えつつ、最新技術の恩恵に預かれる。



「貴殿は、日本中の金を一つの壺に集め、それを己の指先一つで操ろうというのか」

「人聞きが悪い。私はただ、『みんなで儲かる仕組み』を作りたいだけだ。そうすれば、誰もこの仕組みを壊そうとはしなくなる。戦争をするより、商いをする方が儲かる……。そう思わせれば、こちらの勝ちだ」





 数日後、江戸の有力商人と諸藩の重臣たちが集まった席で、俺は正式に「日本蒸気運河会社」の設立を宣言した。



 最初は反発もあった。だが、目の前で蒸気船が軽々と重い荷を運ぶ姿を見せ、具体的な「配当金」のシミュレーションを数字で示すと、彼らの目は色を変えた。



「これより、この国は武力ではなく資本で繋がることになる」



 長英が持ち帰った蒸気機関という「ハードウェア」に、俺が持ち込んだ株式会社という「ソフトウェア」を組み込む。これで、日本経済を加速させるためのエンジンは完全に組み上がった。



 佐吉が呆れたような、それでいて誇らしげな顔で俺を見た。

 

「義春殿。あなたは本当に、この国を根底から作り替えてしまわれるのですね」

「ああ。伊勢湾の道が開通する時、そこを走るのは幕府の船じゃない。日本中の資本が集まった、この『会社』の船だ」



 文政13年。



 蒸気の音とともに、日本に「資本主義」という名の、決して止まることのない歯車が回り始めた。

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