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【江戸時代】琵琶湖運河、開通ス  作者: 雨宮 徹


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第43話 火の馬、東洋に降り立つ

 江戸、日本橋の勘定奉行所。俺が窓の外を見上げると、南西の空に小さく、だが鮮明な光が弾けた。彦根から江戸まで、運河沿いの通信網がリレーした「帰還」の信号弾だ。



「……来たか」



 呟きに応じるように、背後で控えていた佐吉が深く頭を下げた。



「長崎より早馬も届きました。オランダ軍艦『フェデリコ号』、長崎港に入港。高野長英殿、無事帰国との由!」





 数日後、江戸の河岸はかつてない熱気に包まれていた。厳重な警備の中、数隻の平田舟に載せられて運ばれてきたのは、巨大な木箱の山だった。その中心に、日焼けし、どこか欧州の空気を纏った高野長英が立っていた。



「義春殿、ただいま戻りました……。約束の物、持ち帰りましたぞ」



 長英の瞳には、死線を越えてきた者だけが持つ、深い輝きがあった。彼は俺の前に歩み寄り、一冊の革装のノートを差し出した。



「これが欧州の……イギリスの心臓、蒸気機関のすべてにございます」



 俺は、周囲の喧騒を遠ざけるように木箱の一つを指差した。



「長英様、まずは見せて欲しい。お前が心酔した『未来』を」



 長英が合図を送ると、職人たちが手際よく木箱を解体した。現れたのは、磨き上げられた真鍮と鋼鉄で構成された、人の背丈ほどもある「蒸気機関の雛形」だった。



 長英は自ら石炭を焚き、水を熱した。周囲に集まった幕府の役人や、密かに見学を許された調所広郷ら大名たちが、固唾を飲んで見守る。



 やがて――。



「シュ、シュッ……シュシュシュッ!」



 鋭い蒸気の噴出音とともに、巨大なピストンが力強く上下し始めた。複雑に噛み合った歯車が回転し、周囲の空気を震わせる。



 牛や馬、あるいは何十人もの人夫が引くような力を、この金属の塊が独りで生み出している。



 驚愕する人々の中で、俺だけは冷静にその動きを見つめていた。現代知識を持つ俺にとって、それは見慣れた原理だ。だが、この時代の素材と加工精度でここまで再現した長英の努力には、深い敬意を抱かざるを得ない。



「長英様、これだけの部品を、日本の職人で複製できるか?」

「容易ではありません。特にボイラーの耐圧性と、シリンダーの気密性。ですが義春殿、我らにはあなたの造った反射炉と、運河で磨かれた鋳造技術があります。職人たちを総動員すれば、半年以内に実用機が造れるはずです」



 俺は頷き、広げられた地図の「伊勢湾ルート」を指差した。



「よし。まずはこの蒸気機関を、船に載せる。人力や風力に頼らず、運河を逆流して進む蒸気船だ。それがあれば、伊勢湾の掘削で出る大量の土砂を、これまでの数倍の速さで運び出せる」

「土木作業に、この神の如き力を使うのですか?」。

「技術は飾るものではない。使い倒して、金を稼ぐための道具だ。長英様が持ち帰ったこの力で、伊勢湾の工期を一気に一年短縮する」





 その日の夜。俺は長英と二人だけで、冷えた酒を酌み交わした。



「義春殿。欧州は広うございました。しかし、これほどまでに技術が政治と経済を動かしている国は、あちらにもございませんでしたよ」



 長英が、運河の街並みを見下ろしながらポツリと言った。


「そうか。だが、これからが本番だ。蒸気機関は、単なる動力じゃない。人々の時間の感覚を変える革命だ。これからの日本は、これまでの百年の進歩を、たった十年で駆け抜けることになるぞ」



 俺の視線の先には、闇の中に浮かび上がる伊勢湾の工事現場があった。



 長英の持ち帰った「火の馬」の咆哮は、やがて日本の隅々にまで響き渡り、古い封建社会の壁を経済の力で粉砕していくことになる。



 伊勢湾全通まで、あと一歩。



 だが、その「一歩」が、日本を世界の列強へと押し上げる決定的な跳躍となることを、この時の俺は確信していた。

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