第42話 調所広郷という男
オランダ商館長との「技術交換」の合意から数日。江戸城・勘定奉行の会議室に、一人の男が姿を現した。
薩摩藩家老、調所広郷。その顔は、長年苦しい算盤を弾き続けてきた者の執念か、あるいは削ぎ落された岩壁のような厳しさがあった。男の指先には、墨の跡が染みついている。それは、数多くの非常な帳簿を書き改めてきた証だ。
五百万両という天文学的な借金を抱えた薩摩藩を、密貿易や砂糖の専売、さらには借金の二百五十年分割払いという「禁じ手」で立て直そうとしている、執念の経済官僚である。
「義春。……お主、とんでもないことをしでかしてくれたな」
調所は座るなり、低く、這いずるような声で言った。その鋭い眼光は、俺が江戸で行っている「運河経済」の本質を、誰よりも正確に射抜いている。
「我が藩の砂糖を運河で安く流してやるという誘い、あれには感謝しておる。だが……異国に耐震技術を渡したというのは、聞き捨てならん。それは、我ら地方の大名が幕府に抗うための最後の盾を、先に異国に売り払ったも同然ではないか」
俺は、調所の前でゆっくりと扇子を広げた。この男、調所広郷には、並の武士に使うような建前は通用しない。
「調所殿。貴殿なら分かるはずだ。私は技術を売ったのではない。欧州という巨大な市場に、日本の規格という名の毒を流し込んだのですよ。それも、極上の甘みを持つ、抗いようのない毒を」
佐吉に用意させた図面を調所の前に放り出した。
「私が渡した図面通りに、連中は制作する。だが、その工法、その計算、その部品の寸法……一度使い始めれば、彼らは二度と別のやり方に変えることはできない。なぜなら、すべての土台が『日本の規格』で出来上がってしまうからだ」
調所は図面を凝視し、絶句した。その眼には単なる土木工事の図面ではなく、数十年、数百年後に渡って世界から吸い上げられる黄金の川が見えていたはずだ。
「要は『後から入る者が、先に入った者の約束事に従わざるを得ない状態』を創り出したのです。欧州が強大になればなるほど、彼らは我が国の技術を勉強し続けねばならず、そのたびに我が国に莫大なライセンス料……、失礼、技術提供料を支払うことになる」
調所は深いため息をつき、膝を打った。
「恐ろしい男よ。武力で勝とうなどと考えず、帳簿の上で世界を支配しようとしておる。……だが、義春殿。ならば我ら薩摩はどうなる。運河に依存し、技術を貴殿に握られれば、我が藩の独自性は消える」
「だからこそ、提案があるのです。調所殿」
俺は声を潜め、調所にだけ聞こえるように言った。
「薩摩の密貿易ルート、あれを潰すつもりはありません。むしろ、運河と連携させたい。薩摩が南から持ち込む品を、我が運河が最優先で、かつ『耐震基準適合品』として江戸・大阪へ流す。その代わり、薩摩には『運河公債』の筆頭引き受け人になってもらう」
調所の目が細まった。それは、薩摩の富を幕府のインフラに投資させ、運命共同体にするという誘いだった。
「ふん。借金まみれの我が藩に、さらに金を出せと? ……だが、悪くない。運河の利権を握れるなら、二百五十年の分割払いよりも、よほど確実な実利だ」
薩摩の怪物を、俺は「論破」ではなく「利益」で黙らせた。調所広郷という男は、理屈よりも数字を信じる。彼が納得したということは、国内の反対勢力の最大の牙が抜けたことを意味していた。
調所が去った後、佐吉に視線を向けた。
「佐吉様。薩摩を味方につけた。これで伊勢湾運河の最終工程に、薩摩の資金と人夫も動員できる」
「義春様……政治的な敵まで、経済の歯車に組み込んでしまうのですね」
「それが一番、血が流れなくて済む。さあ、いよいよだ。長崎から報せが来た。長英を乗せたオランダ船が、日本の領海に入ったそうだ」
窓の外、遠く長崎の空を想った。
耐震技術という「盾」を輸出し、代わりに手に入れるのは、蒸気機関という「矛」である。
「火を吹き、大地を揺るがして走る鉄の塊……。長英、お前が持ち帰るその力が、この国を本当の意味で世界へ連れていくんだ」
京都地震の灰の中から、日本は世界で唯一無二の「技術・経済大国」への道を、力強く踏み出そうとしていた。




