第40話 時は金なり
京都地震から数週間。運河が崩落しなかったという事実は、俺の政治基盤をさらに盤石なものにした。
「義春殿、京都の復興需要が、国内経済を再び押し上げています」
佐吉の報告には、もはや疲労の色よりも、運河経済への揺るぎない確信が滲んでいた。
「運河は、緊急物資の輸送路として、その威力を最大限に発揮しました。人々は瓦礫の山となった京の街に、彦根からの支援物資を積んだ船が次々と入って来る様を、まるで奇跡のように語り草にしております。そして、崩落しなかったトンネルの技術は、『運河公債(復興のための債券)』の信用度を極限まで高めています。もはや、薩長を含め、全国の大名や商人が、その公債の購入に殺到しています」
危機は、運河の技術と信頼性を「神の試練」として証明し、「運河が国家の生命線である」という共通認識を全国に植え付けたのだ。
「公債の資金は、ただちに京都の復興と、伊勢湾までの道筋開通までの最終的な地盤調査に充てる。地震の影響を加味し、安全点検が終わるまで開通はしない。絶対に完璧な状態に仕上げる」
そんな中、彦根の運河通信――飛脚網を通じて、オランダに滞在している長英から緊急の暗号文が届いた。通常の報せよりも、格段に緊迫した内容だった。
「長英殿からです。翻訳しました。内容は――『技術を入手したが、それを輸送する船が、帰国直前に、突如としてオランダ当局に差し止められた。イギリスからの圧力と思われる。早急に、帰国のための新たな「外交的な名分」と「船」を要請する』」
俺は、薩長同盟が敗北したところで一息ついていた胸に、再び鋭い痛みが走るのを感じた。国内の反対派を黙らせても、海の向こうには巨大な影が潜んでいる。大英帝国。彼らにとって、極東の小国が独自の物流網を持ち、技術革新を成し遂げることは、自らの利権を脅かす芽でしかない。
「イギリスめ。運河のシールド工法の特許で一度敗北したことを、根に持っているな。長英は恐らく、蒸気機関の核心的な技術、つまりピストンやボイラーの設計図を入手したのだろう」
独りごちた。
俺は思考を巡らせた。鎖国中の日本が、オランダやイギリスの妨害を排除し、外交上の船を確保する方法。それは、日本の持つ「強み」を、彼らの「弱み」と交換するしかなかった。
「佐吉様。長英の帰国を優先する。次の秘策は、耐震技術です」
「耐震技術、ですか?」
「そうだ。京都地震で、我が国の運河の耐震性は世界に証明された。今、欧州各国は、地震への備えや、巨大建築物の安定性について、知識に飢えているはずだ」
俺は、かつて前世で学んだ土木工学の記憶を呼び起こす。石造りの文化であるヨーロッパにとって、振動をいなす「柔」の技術は、彼らのパラダイムを揺るがす価値があるはずだ。
筆を執り、将軍への上申書を書き始めた。一文字一文字が、日本の未来を決定づける重みを持っている。墨の香りが、夜更けの執務室に静かに広がった。
「将軍様に願い出る。日本の誇る耐震技術とトンネル工法の機密情報を、オランダ国王に外交的な贈答品として提供する。その返礼として、技術者の安全な輸送のための最新のオランダ船一隻を、外交使節団の専用船として要求する」
「日本の技術」を外交カードとして利用する。長英が持ち帰ろうとしている未来の技術――蒸気機関と、日本が今持っている最高の技術――耐震インフラを交換するのだ。
「この取引は、向こうにとって割に合う。日本の技術者は、外交上の高価な贈答品を携えて帰国する使節団となる。佐吉様、ただちにこの上申書を提出せよ! 長英を待たせている時間はない!」
タイムイズマネー。時は待ってはくれない。蒸気機関という「火の力」を運河という「水の道」に融合させる。同時に、運河の伊勢湾ルートを開通させる。南北の運河に東西の汽車。間違いなく、彦根――琵琶湖は大都市になる。その時は、間違いなく近い。




