第39話 京都地震、運河の試練
伊勢湾ルートの掘削が最盛期を迎えていた、文政13年(西暦1830年)。京都で大規模な地震が発生した。
江戸の執務室で報告を受けた俺は、指先が凍りつくような感覚とともに、血の気が引くのを感じた。文政の京都地震。史実の年表に刻まれたその四文字が、頭の中で警報のように鳴り響く。窓の外、江戸の空は皮肉なほどに晴れ渡っているが、遠くでは古都が悲鳴を上げているはずだ。
「被害状況は? 運河周辺はどうなっている!」
掠れた声を絞り出す。
佐吉は顔を幽霊のように真っ青にして報告した。体は恐ろしさのあまりに、ぶるぶると震えている。
「京都と、それに連なる福井の一部で甚大な被害が出ています。特に、琵琶湖と日本海を結ぶトンネル付近の山間部も、激しい揺れに見舞われた模様です!」
琵琶湖付近に導入したシールド工法は、未来の技術の中でも特に耐震性に優れている。だが、この時代のセメントや補強材の品質には限界がある。現代の鉄筋コンクリートではない。石積みと俺が苦労して再現した「江戸版セメント」の強度が、大地の揺れにどこまで抗えるか。万が一、運河のトンネルが崩落すれば、運河事業は即座に停止し、俺の政治生命どころか、日本の経済復興の全てが頓挫する。それは、この国が再び鎖さされた中世へと逆行することを意味していた。
「ただちに、運河通信所――彦根の飛脚網をフル稼働させろ! 第一報は人命救助、第二報は運河の安全性だ。特にトンネル内部の損傷度合いを詳細に確認させろ!」
運河は現在、福井ルートが開通している。緊急物資の輸送は、海運よりも運河を使った方が圧倒的に早い。
「運河は今すぐ緊急物資輸送の道として開放せよ。通行料は一時的に免除。彦根に貯蔵してある食料、医薬品をすべて運河の船に積み込み京都へ送る。陸路が寸断された今、水の上こそが唯一の希望の道だ。この輸送が、運河の最大の存在意義となる! 『運河があって命が助かった』――その事実を人々の記憶に刻み付けるんだ!」
数時間後、運河の運行責任者から、待望の報告が入った。
「義春殿! 奇跡です! 琵琶湖と日本海を結ぶトンネルは、一部の亀裂は確認されたものの、崩落は一切ありません。他の区間の水路も、大きな損傷なく航行可能です!」
俺は安堵で崩れ落ちそうになった。未来の技術、シールド工法が、この時代の地震の揺れに耐え抜いたのだ。俺は机に手をつき、肺にある空気をすべて吐き出すように、深く息をついた。膝に震えが、ようやく止まった。
運河が崩落しなかったという事実は、ただちに「義春が推進するインフラは、神の怒り――地震にも耐える」という圧倒的な評価を生んだ。運河は復旧活動において、緊急物資を迅速に被災地に送り届け、その威力を最大限に発揮した。そして、このニュースは、オランダを経由して遠くヨーロッパにも届いた。
「極東の日本にて大地震発生。しかし、勘定奉行・ヨシハルが建造した巨大水路――運河は、驚くべき耐震性を発揮し、一切崩壊せず。日本の技術力は、欧州の想像を超えている」
これは、長英が蒸気機関の技術を入手するための、最高の追い風となった。国内で「技術の安定性」を証明している間に、長英は欧州で「技術の革新性」を追い求めている。
「佐吉様。復興資金は運河の収益で賄う。出し惜しみはするな。そして、この耐震技術こそが、日本の輸出できる最高の知的財産となる。地震大国であるこの国で、地震に勝つインフラを造る。それこそが、欧米列強に叩きつける日本のモデルの正体だ。伊勢湾経由の工事は、この地震の教訓を取り入れ、世界一の耐震基準で進めさせる!」




