第37話 vs薩長同盟
長英たちをヨーロッパに派遣して数日後。俺のもとに驚くべき一報が入った。
「薩摩と長州が手を組んだ!?」
「はい、そのようです」
その知らせは、勘定奉行の執務室内に沈黙をもたらすのに十分だった。
おかしい、薩長同盟は倒幕のために成立したはず。今はまだ文政だ。明治時代になるのは、まだ数十年先だ。なぜ、このタイミングで薩長同盟が成立するんだ?
「状況を詳細に話してくれ」
「はっ。福井と琵琶湖の間に運河が開通したため、国の中央――つまり、彦根を中心に経済が回っています。そうなると、中央より遠い薩摩、長州にとっては海運による利益が下がります。それゆえに、対彦根藩として同盟を結んだようです」
佐吉の報告を聞き、義春は一瞬、天井を見上げた。倒幕ではない。「対彦根(運河経済)」。
「なるほどな……。俺のチートが、史実よりも早く、彼らに経済的な生存危機を抱かせたか」
運河は単なる水路ではない。輸送コストと物流スピードという、経済のルールそのものを変えた。福井から琵琶湖へ抜ける運河経由の物資は、北前船による長距離海運よりも圧倒的に安く、早く、市場を席巻し始めている。遠隔地である薩摩や長州の、海運に依存した既存の流通網が、危機に瀕するのは当然だった。
「彼らが手を組んだことで、具体的な動きは?」
俺は尋問するように佐吉を見た。
「まず、両藩の財源の共同出資です。薩摩の琉球貿易で得た豊富な資金と、長州の関門海峡を押さえる地理的優位性を結びつけ、共同で西洋技術者の高額な引き抜きを始めています」
「技術者の引き抜きだと?」
「はい。主に運河のトンネル掘削技術、そして製図技術を持つ者たちが狙われています。薩摩は自藩で反射炉を持っていますから、運河技術を転用して独自の蒸気機関を開発するつもりでしょう」
背もたれに深く体重を預けた。長英たちを欧州へ送って数日後のこの一報。タイミングが悪すぎる。
長州と薩摩が手を組んで技術者を引き抜く、国内での予算・人材争奪戦。これは義春が最も恐れていた事態の一つだ。優れた技術者は、一度抜けると二度と戻らない。
「佐吉様。落ち着け。この戦は、金と夢の戦いだ」
「金であれば、薩摩も長州も潤沢です。夢、ですか?」
「そうだ。彼らは金を出せる。だが、『一生安定した生活』と『技術者としての最高の栄誉』は出せない」
俺は立ち上がり、机上の江戸の地図ではなく、運河のルート図を指さした。
「まず、ただちに布告せよ。運河事業に貢献した技術者、職人全員に対し、『恩賜報奨制度』を導入する。これは、運河の未来の収益の一部を、俸禄とは別に永続的に受け取る権利だ」
佐吉は目を見開いた。それは未来への投資、すなわちストックオプションの概念だった。
「俸禄は、薩長に倍額積まれれば負けます。しかし、運河事業の永続的な収益という餌は、藩の予算にはない。そして、もう一つ、知名度で対抗する」
「知名度、ですか?」
「そうだ。薩長へ行った技術者は、ただの藩の職人だ。しかし、運河事業に残る者は、『日本を経済大国にした技術者』、『日本の誇るシールド工法技術者』として、世界に名を残す。長英がヨーロッパにいるのは、その最大の証明だ」
俺はは鋭い眼光を佐吉に向けた。
「佐吉様。薩長が組んだ今、この勝負は、どちらが『金』と『夢』をより上手に提示できるかの経済戦争となった。すぐに手を打て。この戦、絶対に負けるわけにはいかない」




