第33話 シーボルト事件前夜
「耳に入っているかもしれないが……」
佐吉が、小さく息を吐きながら切り出した。その表情には、長年幕府の中枢で働いてきた者だけが知る、得体の知れぬ不安が貼りついていた。
「勘定奉行の中でも義春殿をよく思っていない人々が、貶めようと画策しているらしいと聞いている」
「ええ、私の耳にも入ってきています。嫉妬ほど怖いものはありませんからね」
俺は軽く答えたものの、胸の奥に重石のようなものが落ちる。彦根藩の一介の武士の息子が、急ぎ昇進し、運河計画で幕府を動かす――それが気に食わない者は当然出てくる。功を焦る者、出世の道を奪われたと思う者、単なる嫉妬に駆られる者。幕府は広大な組織だ。敵は知らずに増えていく。
「危機感を持つべきでは? 策に嵌った場合、琵琶湖運河の事業そのものに影響がでるかと」
佐吉の声音は真剣だ。
彼にしてみれば、俺が倒れれば計画に携わる者たちの努力が水泡に帰す。忠義心ゆえの進言だろう。
だが、それでも――いまの俺には立ち止まっている暇はない。
福井・琵琶湖ルートはすでに開通し、工事は順調に進んでいる。今度は伊勢湾へと繋げ、物流の大動脈を完成させる段階だ。ここで足元をすくわれるわけにはいかない。
「早く昇進して、せねばならぬことがあります。運河事業、そして幕府のために」
「義春殿は、常に先を見ておられる。何か情報が入ったら、知らせます」
そう言い残し、佐吉は持ち場へと戻っていった。背中には忠義と焦りが滲んでいる。本当なら、いま胸に秘めている策を打ち明けたい。だが、味方であっても巻き込みたくない。まだ時期ではない。
このもどかしさは、しばらく抱えて生きるしかない。
そして文政11年(1828年)。
それは、嵐の前触れのように突如やってきた。
――シーボルトが、恐竜の写生図や運河の設計図を持ち出そうとしている。
出島周辺ではそんな噂が駆け巡り、やがて幕閣の耳にも届いた。
その翌日、俺は老中や幕臣たちから呼び出しを受けた。胸の奥がざわつく。しかし、やましいことは何もない。
「義春殿、呼び出したのは他でもない。シーボルトなる異国人の件だ」
「お主、内通しておるのでは?」
「このような手口で彦根藩主を騙してきたに違いない」
会議の場に足を踏み入れた途端、矢のように浴びせられる非難。これほどの悪意が、よく一同に揃ったものだと感心すらするほどだ。
どうやら、彼らは俺を追い落とす好機と見たらしい。勘定奉行の一派が吹き込んだか、老中の思惑か。どちらでも構わないが、このまま黙って潰されるわけにはいかない。
「では、シーボルトが持ち出そうとしている話、根拠があるのでしょうか」
淡々と問い返す。証拠がなければ、ただの中傷だ。だが――老中の口元が、嫌な角度で歪んだ。
「ここに、そなたとシーボルトの往復文書がある」
差し出された紙束。筆跡は俺のもの、署名も俺のもの。何より、文面が妙にそれらしく作られている。犯人は相当な筆跡研究家か、あるいは内部の誰かか。
「ここには、明後日、シーボルトが持ち出すと書いてある。つまり、現場を押さえてしまえば、こっちのものだ」
「ですが、それが偽造の可能性は?」
「明後日、出島に行けば偽造かどうかは分かる」
老中たちの顔に浮かぶ、勝利の確信。この場を支配しているのは、論理ではない。義春を潰したいという欲望だ。
だが、望むところだ。この日を迎えるために、俺は――。
いよいよ、幕府の役人たちが出島へ向かう日が来た。朝の空気は冷たく張りつめ、遠くで潮騒が小さく響く。緊張感は嫌でも高まる。
「義春殿! 今からでも遅くない、逃亡の準備をされよ!」
「佐吉様、焦っても仕方がありません。私は、自身の無実を確信していますから」
「拙者も、無実を信じている。しかし……」
佐吉は、まるで自分の首が飛ぶかのような顔で、必死に詰め寄ってくる。
忠義深く、まっすぐな男だ。だからこそ、こんな陰謀ごときで仲間を失うわけにはいかないと焦っているのだろう。
だが――。
「さて、頃合いかな」
俺は小さく呟く。胸の奥には、確信に似た静かな熱が宿っている。
さあ、俺のトラップ発動といこうか。




