第32話 悲願達成と立ち込める暗雲
悲願達成とは、こういうときに使うのだろう。文政10年(西暦1827年)の冬。無事に福井・琵琶湖の水路が開通した。つまり、清国を拠点に海外へヒスイを輸出できるようになった。これで金銀を買い戻せば、幕府の財政は回復する。俺の作戦通りに。勘定奉行としての役割のみならず、彦根藩の栄光の未来への礎にもなるだろう。藩主の井伊直亮は、俺を藩に戻したがるかもしれないが、固辞するつもりだ。藩士という立場では、日本を経済大国にはできない。残念だが、それが現実だ。
「それで、義春殿はどうするおつもりで?」
「佐吉様の意図が分からないのですが……」
「あとは伊勢湾と琵琶湖が結び付けば、運河計画は成功。そのあとに、何をなすつもりか、ということだ」
佐吉は他人のことながら、心配してくれている。おそらく、俺が困っていれば、どこかの役職に推薦するつもりだろう。ありがたいが、身分不相応だ。
「運河事業が成功したとにすべきことは決まっています。まだ、具体的には言えませぬが。国をよくするための事業でございます」
「ほう、すでに考えがあるとは。杞憂だったか。運河計画よりも大規模なものだろう。困ったことがあれば、拙者を使え。多少、役に立つはずだ」
謙遜しすぎだ。佐吉は、ただの勘定奉行で終わる器ではない。俺はあくまでも、国を経済大国にする役目だけに集中する。国政を担うのは佐吉がふさわしい。明治時代になると、伊藤博文などの強豪はいるが、佐吉も張り合える実力はある。今から楽しみだ。
琵琶湖の様子を見ようと彦根に帰郷すると、見違えるように運河沿いの街が活性化していた。
「義春殿、お待ちしておりましたぞ」と長英。
「ここは本当に彦根か?」
「当然。すべては計画通りでございます。伝蔵殿が指揮したのが成功に寄与しました。今は、信濃に出向いてヒスイ採掘に注力しておられる」
長英が恐竜を用いて学術界を沸かせ、運河とヒスイの一大事業では伝蔵が奔走している。やはり、この二人を選んだのは正解だったと、俺は改めて確信していた。いまや彦根藩は、「学」と「商」と「技」が渾然一体となり、日本で最も革新的な地域に変わりつつある。
「清国経由でのヒスイの輸出に成功しつつある。そこで、次の一手だ」
俺が切り出すと、長英は帳面から顔を上げた。相変わらず観察するような鋭い目だ。
「どのような作戦ですか?」
「可倒式マストは福井で大活躍と聞いている。シールド工法のトンネルを効率よく通過していると」
その一言で、長英の身体がピクリと強張った。次の瞬間、彼は椅子をきしませて身を乗り出す。
「まさか、マストの技術をお売りになるつもりですか!?」
声に動揺が混じっていた。長英は技術流出を何より嫌う。日本の弱点を知り尽くしているからこその反応だ。
「いや、これは彦根で独占したい。運河計画の効果で、金融の中心は琵琶湖に移りつつある。これを活かす。幕府の一部機能を彦根、あるいは大坂に移動させる」
俺の言葉に、長英は大きく目を見開いた。まるで、予想外の雷が頭上に落ちたかのような顔だ。
「その考えは、まことにござるか? なにゆえ、そのような計画を提案されるのでしょうか?」
「もしも、江戸が外国に制圧されたとき、全機能が掌握されかねない。まあ、そんな事態はないと信じたいが」
江戸の海は守りにくい。砲艦外交が迫る未来を知る俺には、それが現実味のある懸念として胸に重くのしかかる。実際、未来の関東大震災では首都機能が麻痺した。
——ならば、この時代に防げる災禍は全て防いでおかなければならない。
「しかしながら、勘定奉行という立場では上申は難しいのでは……?」
「長英の言う通り、もっと上の立場にならねば実現は難しい。そのためにも、より上を目指さねばならぬ」
俺はそこで言葉を切った。長英は真剣な眼差しで俺を見つめている。運河が、ヒスイが、恐竜が、人と人を結び、背中を押してくれる。彦根は確実に変わりつつある。いや、この国すらも変えられるかもしれない。
——ただし、この時の俺はまだ知らなかった。
この雄大な計画の先に、すでに黒い影が忍び寄っていたことに。未来の空が、静かに曇り始めていることに。




