第30話 vs太陽の沈まない国イギリス
江戸の老中たちを説得してから数か月。あの熱を帯びた議論の余韻も冷め、季節は静かに巡り、文政9年(1826年)を迎えていた。江戸城下では年始の喧騒が落ち着き、かわりに政治の空気だけが粛々と流れている。だが俺の胸中には、いまだ火種のような緊張が燻り続けていた。
「あなたが、幕府が推薦した同席者ですか?」
声をかけると、男は軽く膝を折り、武士らしい節度のある所作を見せた。年のころ三十ばかり、しかし背筋には武門の矜持が宿っている。
「ええ、そうです。義春殿。此度は、同席と同時に、あなたを見張るように言われております。そうはいっても、拙者が暴走を止められるとは思えませんが」
苦笑を浮かべたその表情は、どこか諦観を含んでいた。おそらく、これまでの経緯をすべて耳にしているのだろう。俺が老中たちから「奔走を通り越して暴走している」と警戒されていることも。
「そろそろ、運命の会談の時間。遅れてはまずいので、余裕をもって向かいましょう」
「拙者は、義春殿の行動に従うのみ。仰せのままに」
その言葉に、過度の謙虚さというよりは、ある種の覚悟が滲んでいた。俺の計画が、大名や幕臣だけでなく、清国やイギリスという巨大国家を巻き込むものであることを、肌で感じているのだろう。だが、ここで引くわけにはいかない。彦根藩の運河計画――いや、日本全体の進路を左右する構想なのだから。
清国の重要施設に設けられた応接室は、東洋的な装飾と西洋の外交儀礼が奇妙に同居した空間だった。窓越しに差し込む薄光が、漆塗りの机と白磁の茶器に鈍い反射を落とす。武士の同行者は背筋を伸ばし、俺はその正面で、イギリス大使と火花ともいえる視線を交わしていた。
すでに会談は始まる前から戦場同然。清国という第三国を舞台にして主導権を握ろうとするイギリスの意図は明白で、こちらも退く理由はない。
「さて、ヨシハル。今回は、我が国に何の用かな? 手紙によれば、我が国が盗人のように書いてあったが……」
薄く笑いながら皮肉を投げてくる大使。言葉尻は柔らかくとも、その背後には大英帝国の自負が見える。
「まさか。そのようには書いておりません。その考え方は偏見です」
軽く受け流すも、内心は油断できない。イギリスが本格的に清国へ食い込めば、日本の立場は弱くなる。彦根藩の琵琶湖運河――日本全体の物流改革を進める上でも、東アジアでの主導権は譲れない。
「それはさておき。日本が先にシールド工法を使ったという話だが、ありえない」
イギリス大使が懐から取り出した日記帳。革装丁は新しいが、それでも権威という衣をまとわせれば、外交の場では有効な武器になる。
「これは、我が国の考案者が書いた日記。ここには、こう書いてあります。文政3年にシールド工法に着手したと。あくまでも、試作品で実用性はありませんが」
「つまり、試作品をもって、先に成功したのはそちらだと?」
「イエス」
室内の空気が一段階冷えたように思えた。
偽造文書ほど厄介なものはない。存在そのものが虚でも、それを証明する手段がなければ、真実は容易にねじ曲げられる。
隣の役人も、勝ち目のない賭場に放り込まれたような表情で、身体をもぞもぞと揺らしている。
だが、ここで退くわけにはいかない。彦根藩の工事現場で汗を流す人々の顔が、脳裏に浮かぶ。彼らの努力を、外交の駆け引き一つで潰してよいわけがない。
「なるほど、文書ですか。ですが、公的な記録ではありません」
「では、無効だと?」
イギリス大使の瞳は勝利を確信した捕食者のそれだった。
だが、ふと――脳裏にひらめきが走る。以前、役人との打ち合わせで何気なく交わした年代の話。あれだ。
「ふふふ」
「何がおかしい、ヨシハル」
大使の眉がひくりと動く。焦りを隠すには、少し遅い反応だった。
「一つお聞きします。文政3年とは、西暦で何年ですか?」
「それは……」
「あなたは答えが分からない。日記には答えがない。なぜなら、こちらを罠にかけようと意識しすぎたためです。答えは西暦1805年です」
瞬間、大使の顔色が揺れた。今更ながら、「そう、そうだった!」と思い出したように言う。
役者ならもっと巧く誤魔化すだろうが、外交官といえども動揺は隠せないらしい。
「今のは言い間違えです。本当は、西暦1820年です」
「まさか、お前!」
「さあ、何を言いたいのか分かりませんが。論戦は終わりです。本題に入りましょう――」
完全に主導権はこちらに移った。
清国への進出を限定的に止めさせるかわりに、この論争は公表しない。イギリスにとっては痛みの伴う取引だが、日本にとっては十分な成果だ。
隣の役人は満面の自信に満ちていたが、この展開は俺が絞り出したものだ。帰国したら、その点はしっかり強調してもらわねば。
「なるほど、ご苦労であった。上様にも詳細を報告する。我が国が清国を救ったと。そして、清国がお礼に拠点を差し出すことも」
江戸に戻り、老中の前で膝をつくと、彼は満足げに頷いた。口調こそ淡々としているが、その目の奥には成果への手応えがあった。
「ありがたき幸せ」
この一言に、何カ月もの奔走がこもる。
「さて、お前の処遇だが……。報告と合わせて上申しよう。『幕府の役人として取り立てた方がよいのでは』と」
渋々と告げられたが、約束を果たす姿勢は確かだった。
これで運河事業は大きく前進する。幕府の官職を得れば、諸藩との交渉もはかどり、現場で働く者たちへより潤沢な支援が送れる。
琵琶湖から福井へ――そして伊勢湾へ。
日本の背骨に巨大な流通軸を通し、いずれは天下の物流を一変させる。俺の計画は、これでようやく第一段階を終えたにすぎない。
さあ、日本を経済大国へ押し上げるゲームを、次のステージへ進めようか。




