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【江戸時代】琵琶湖運河、開通ス  作者: 雨宮 徹


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第28話 シーボルトの選択

 文政8年(1825年)。



 義春殿から「日本の国威を世界に広める歴史的な大芝居」を打てとの命を受け、高野たかの長英ちょうえいは長崎にいた。



 長崎の街は、京や大坂の活気とは異なる、異国の匂いと幕府の厳しい監視が混じった特有の緊張感に包まれている。海に突き出た小さな人工島――出島には、オランダ東インド会社の商館が置かれ、西洋の学問や文化、そして情報が、厳重な検閲のもとでのみ、細く流れ込んでくる。



 長英の使命は、この厳重な監視の目をかい潜り、異国人シーボルトへ接近することだ。シーボルトは熱烈な博物学者であり、日本の風土、動植物、そして人々の暮らしすべてを、西洋の科学の目で観察し、記録しようと試みている異才である。その知的好奇心こそが、義春殿の策略の突破口になるはずだ。



「先生、本当にこれを渡すので?」



 長英の付き人として長崎まで同行してきた若者が、長英の懐にある巻物を指して尋ねた。それは福井で発見された巨大な竜骨の、長英自身による緻密な写生図と、義春の指導で書かれた蘭学の最先端をも超える解説文が記された書簡だった。



 書簡には、地球が数百万年かけて形成されたという学説や、人類が生まれる遥か前に地上を支配した巨大な獣の存在が、福井の骨の構造的な矛盾を論理的に説明するために利用されていた。



「ああ。シーボルトは、知識という対価でしか動かせぬ男だ」



 長英は出島を見つめた。彼はこの異国の学者を、日本の未来のために利用しなければならない。



「この書簡は、日本の学問の水準を示すものでもある。もしこの『古代の獣の骨』が、我々の論理通りにシーボルトの知的好奇心を刺激すれば、彼は必ずやこの発見を世界の学術界へと発信せざるを得なくなる」



 それは、「日本は単なる鎖国した野蛮な国ではない、地球の歴史すら解き明かした科学先進国である」という、国際的な評価を得るための最初の一歩だ。



 長英は、出島の日本人通訳を通じて、厳重な警戒の中でシーボルトの門弟へと書簡を送り届けた。





 数時間後。長英が長崎の蘭方医の屋敷で待機していると、血相を変えた通訳が駆け込んできた。



「長英先生! シーボルト先生が、すぐに貴殿に会いたいと! 書簡の内容に大変な衝撃を受けている様子です!」



 長英は、静かに笑みを浮かべた。歴史を動かす最初の一手は、確かに打たれた。





 長崎の蘭方医の屋敷。緊張した面持ちの長英は、目の前に座る異国人シーボルトと向き合っていた。シーボルトは、血色の良い顔に深い探求の光を宿し、長英が持参した竜骨の写生図と解説文を、何度も見返している。



「驚いた……! これは、想像を絶する巨大な獣の骨だ。私が故国で学んだ知識を遥かに超える。君たちの書簡には、『人類の歴史よりも遥か昔、地球がまだ火と水に覆われていた時代の支配者』とあるが、これは何を根拠に書いたのか?」



 シーボルトの日本語は流暢だが、その興奮は隠しきれない。彼は、長英の若さからは考えられない、当時のヨーロッパの学術界すらまだ手探りであった地球の年代学に触れられたことに衝撃を受けていた。



「それが、私があなたにお目にかかりたかった最大の理由でございます」



 長英は静かに答えた。



「その骨——義春殿は恐竜という生物の骨だと名付けましたが、福井の運河工事現場から掘り出されました。そして、この解説のほとんどは、私の主君、彦根藩の義春様の論理に基づいております」

「ヨシハル? その人物は、いかなる学者だ? なぜ、この稀有な骨を、自ら研究せずに私に見せる?」

「主君は学者ではございません。運河奉行です。そして、彼こそが、この日本を西洋に比肩する科学大国に変える鍵だと確信しております」



 長英は、姿勢を正した。



「シーボルト先生。先生は、この骨を『学問上の発見』としています。しかし、義春様はこれに『国威こくい発揚はつよう(国外に威信を示して名声を高めること)』というもう一つの価値を見出しました」

「国威、だと?」

「はい。日本は、この恐竜の発見によって、『地球の歴史の秘密を持つ国』となります。そして、この骨が掘り出された運河——福井の運河は、『日本の知恵と技術を結集した、世界に誇れる土木技術の結晶』です」



 長英は、義春から託された論理を、淀みなく展開した。



「つまり、この発見は、日本の学術が西洋に劣らないことを証明し、運河の技術がその証明を裏打ちするのです。もし先生がこの発見を世界に公表すれば、先生の名声はアジアの研究者として比類なきものとなり、同時に、日本は『世界から注目される科学先進国』となります」



 シーボルトは、長英の言葉の裏にある巨大な構図を理解した。彼は、この恐竜の骨を無視すれば、自らの名声を高める機会を逃すことになり、逆に公表すれば、日本の政治的意図に利用されることになる。



「……恐ろしい藩士だ、ヨシハルという男は。私を動かすためだけに、これほどの秘宝を提示した」



 シーボルトは呟いた。



「先生の知的好奇心を満たすことこそが、我々の最大の目的でございます。先生の著作に、この恐竜の骨と、それを掘り出した運河の技術が記されれば、日本が、そして先生の名声が、世界中で語り継がれることになるでしょう」



 それは、シーボルトにとって抗いようのない誘惑だった。知識の独占は、学者にとって最大の罪である。ましてや、地球の歴史を覆すかもしれない世紀の発見を、隠し続けることなど。



 シーボルトは、ゆっくりと図面を閉じ、深く息を吐いた。



「分かった。この骨と運河は、私の研究人生における最大の発見となるだろう。私は、日本の威信と私の名誉を賭けて、この事実を必ずやヨーロッパに発信してみせる。ただし、骨の一部は、研究のために私に預けてもらおう」

「喜んで」



 長英は深く頭を下げた。これで、義春の「国威発揚戦略」は成功した。次に待つのは、世界的な注目を背景とした、幕府への登用である。

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