第27話 伊勢湾ルートを切り開け
文政7年(1824年)。逢坂山開通とヒスイ貿易の開始により、彦根藩は富と名声の絶頂にあった。だが、運河計画最後の難関である伊勢湾ルートは、運河計画の成功の熱気とは裏腹に、極めて冷え切った状態だった。
俺が伊勢湾ルート交渉の窓口として紀州藩に送った最初の書状は、一月以上たっても返答すらなく、代わりに京と大坂で奇妙な噂が流れ始めた。
「彦根藩の運河は、伊勢参りの神聖な流れを乱す」
「紀州の良質な木材が、野蛮な北国に流出する」
これらは、伊勢側の利権を守りたい勢力、特に参宮街道沿いの宿場町や、海運で紀州材を運んでいた既存の海運業者が、紀州藩の意向を汲んで流している牽制だった。
彦根城の一室。地図を広げた俺の横で、伝蔵が憤慨する。
「義春殿! 紀州藩は、我々の書状に返事を送らないどころか、裏で風説を流させている。彼らは我々を『金儲けに走る品のない藩』と見下しているのです! このままでは、我々の信用が損なわれる!」
「落ち着け、伝蔵」
俺は冷静に言い放った。
「返事が来ないのは、彼らが『どう断れば、一番彦根藩が傷つくか』を考えている証拠だ。下手に断って、幕府の不興を買うことを恐れている。だからこそ、世論という目に見えない圧力を先に仕掛けてきた」
俺は運河のルート図上で、紀伊半島の根元、伊勢湾に最も近い箇所に指を置いた。
「彼らが運河に反対する真の理由は、利権の損失ではない。我々が、彼らが手放せない伊勢参りという信仰のテコを、経済的に奪ってしまうことを恐れているのだ」
その隣で、長英が目を細めて尋ねる。
「では、その恐怖を払拭するための最後の駒は、やはり……」
「そうだ。金で動かない相手には、信仰と名誉という、より強固な交換価値を提示するしかない。我々が運河を通して、伊勢神宮に、そして国に、どれだけ大きな利益をもたらすかを、紀州藩の面子が拒否できない形で突きつける」
俺は立ち上がり、交渉に向けた最後の準備を始めた。この交渉が、琵琶湖運河の完成、そして日本の未来を決定づけるのだ。そして、その先には――世界進出という壮大な計画が待っている。
俺は、紀州藩からの返事を待たなかった。
すぐに江戸の老中たちへ、「運河計画の最終段階が、紀州藩の非協力によって滞っている」という書状を送った。もちろん、ただの苦情ではない。
「ヒスイ貿易による金銀の還流が遅延すれば、幕府の財政再建にも影響を及ぼす。また、福井側が既に開通準備に入っている中、伊勢側が滞れば、天下の流通における不均衡が生じ、幕府の威信が問われる」と事実を淡々と書いた。
老中たちは、俺がヒスイ貿易の利益を「幕府への義務」と位置づけたことを理解している。御三家であろうと、天下の経済を滞らせる大義は持てない。
二日後、紀州藩江戸屋敷の家老から、「急ぎ大津にて、彦根藩運河奉行との面談の場を設ける」という回答が届いた。風説を流していた傲慢な態度は、幕府からの見えない圧力の前で、一気にしぼんだ。
大津の彦根藩邸に設けられた座敷。対面したのは、紀州藩筆頭家老だった。彼は着座するなり、慇懃無礼な態度で俺を一瞥した。
「運河奉行殿。我ら紀州藩は、貴藩の運河がもたらす『商いの富』など、毛ほども欲してはおりません。むしろ、運河が開通すれば、神聖なる伊勢の地に無秩序な俗人が流れ込み、御三家たる我が藩の統治を乱す」
家老は静かだが、傲然とした声で言い放つ。
「貴殿の運河は、金儲けの汚れた水を、清らかな信仰の場に引き込もうとしている。よって、我が藩としては、領地通過の承諾はできかねる。このまま、京・大坂の運河で満足されるのがよろしい」
伝蔵は、家老の品のない言動に奥歯を噛みしめている。だが、俺は微動だにしなかった。この高慢な態度こそが、彼らの「利権を失う恐怖」の裏返しだと知っていたからだ。
「そのご懸念、ごもっともです」
俺は冷静に切り出した。
「ですが、運河は『汚れた水』を流すものではありません。運河が流すのは、『伊勢神宮へのより深い信仰』であり、『紀州藩の揺るぎない名誉』です。そして、その結果、貴藩の財政が、我々のヒスイ貿易に頼らずとも、自立できるだけの巨額の富を生み出す。信じていただけないなら、その論理を、今ここでご説明いたしましょう」
家老の顔から、わずかに笑みが消えた。俺が何か切り札を隠し持っていることを察したのかもしれない。
「まず、伊勢湾を出入り口とする運河ができあがれば、どうなるか。伊勢神宮への参拝客が増えます」
「それは、さっきから論じていることだ!」
「落ち着きください。話はまだ途中です」
そう、ここから先が俺の用意した秘策なのだから。
「参拝客が増えれば、少しずつ伊勢神宮周辺の石畳などが痛みます。伊勢神宮の威光は幕府も保ちたいはず。つまり、各藩に修復にあたらせるでしょう」
「ちょっと待った。それは、暗に『紀州藩への財政負担が増える』と言っている。我が藩の益はない!」
どうやら、紀州藩としての面目、そして財政を守るための一面的な見方しかできないらしい。物事は俯瞰して考えるべきだというのに。
「各藩の石大工などが集まればどうなるか。彼らは、伊勢地に金銭を落とします。宿泊などの形で」
家老の目が光る。希望を見出したからではない。金勘定が彼の頭の中で繰り広げられているのは間違いない。間違いなく、こっちの思惑通りに判断する。
「……。よし、分かった。徳川御三家の力を用いて伊勢湾を出入り口とした運河建設に力を貸そう。伊勢には、こちらから話を通しておく」
彼の言葉には「徳川御三家の言葉には逆らえまい」という、傲慢さがあった。そうだとしても、運河事業が推進されるのなら文句はない。
さて、次になすべきは清国とイギリスの関係への介入だ。これは、国家プロジェクトの枠組みにとどまらない。幕府の許可が必要だ。
紀州藩家老が立ち去り、座敷に静寂が戻った。
「見事です、義春殿。まさか、信仰の維持と強制的な職人消費という論理で、紀州藩を動かすとは」伝蔵は、未だ興奮冷めやらぬ様子だ。
「国内の障壁は、これで全て取り払われた。残るは、運河の建設と世界進出の二つだ」
俺は、机上に残った地図を広げた。そこには、伊勢湾、琵琶湖、福井のルートが、一本の線として明確に描かれている。
「さて、次になすべきは清国とイギリスの関係への介入だ。ヒスイを売るための拠点確保は急務だが、これは藩の一事業ではない。国家政策の枠組みに入らねば、清の命運を変えるほどの力は動かせない」
俺の視線は、長英へと向けられた。
「長英様。あなたの出番だ。清を拠点とするためには、まず日本の国威を世界に知らしめ、幕府を動かす大義を作らねばならない」
「国威、でございますか?」
長英は、目を瞬かせた。
「そうだ。我々が掘り出した竜骨を切り札に、学術の世界で日本を注目させる。そして、その運河計画が、世界に誇れる日本最高の科学技術であることを証明する。そのための協力者が必要だ」
俺の頭の中には、日本に蘭学の光を注ぎながら、後に国外追放される運命にある一人の西洋人の顔が浮かんでいた。シーボルトだ。
「長英様。長崎へ向かえ。そして、シーボルトという男に接近しろ。日本の国威を世界に広める、歴史的な大芝居を打つぞ」
国内の戦いを終えた俺は、ヒスイと恐竜の骨という二つの武器を手に、ついに国際舞台へとその手を伸ばし始めたのだった。




