第26話 壮大な計画と青写真
文政7年(1824年)。逢坂山トンネルの開通後、運河は既に日本の経済地図を塗り替え始めていた。
大津の湖岸では、可倒式マスト船が次々と京へ向け出航していく。その中には、彦根藩の特別船団が含まれていた。船には信濃から運ばれてきたばかりの、翠玉のような輝きを放つヒスイの原石が積み込まれている。
「伝蔵様。輸送の道筋に問題はないですか?」
運河の成功は肌で感じていたが、俺は念のため、船団の最終確認をしていた。
「問題ございません、義春殿。逢坂山を通過したことで、京や大坂の商人は狂喜しています。ですが……」
伝蔵の声には、興奮の裏に、次の課題への不安が混じっていた。
「伊勢への道筋か……」
俺はため息をついた。琵琶湖運河計画の最後のピース、伊勢湾ルート。このルートが開通すれば、日本海、瀬戸内、太平洋が全て水運で結ばれる。しかし、その交渉は福井の比ではない。
「紀州藩や、伊勢の小藩が、運河による利権の横取りを恐れております。特に伊勢参りという、信仰と巨大な金銭の流れが絡む問題は、藩の思惑だけでは動かせません」
長英が、運河のルート図に視線を落としながら言った。
「彼らを説得する切り札は、ただ一つ。経済的な利益だけでは不十分だ。我々が運河を通して、伊勢神宮そのものへ、いかに貢献できるかを示さねばならない」
俺は、地図上の伊勢の地に指を置いた。
「我々は、伊勢の人々に金を与えるのではない。信仰を活発化させる機会を与えるのだ。そして、その結果として国全体の経済を回し、幕府の威光を強めるという論理で、彼らを納得させる。それしか道はないだろう」
俺の心は、すでにヒスイ貿易の利益を、伊勢参りという文化的な大事業を動かすためのテコとして使う戦略へと切り替わっていた。まずは、ヒスイ貿易を成功させねばならない。清とオランダが、ヒスイにどれだけ興味を示すかにかかっている。大丈夫、品質については折り紙つきだ。
「ちょっと待てよ……。この時代、清国はイギリスの植民地になりかけていた。そんな国がヒスイを買う余力があるのか?」
これは大きな誤算だ。つまり、清国へ向けて輸出するならば、イギリスが「これは我が国が預かる」というように誘導させねばならない。何か策はないだろか……。待てよ、イギリスは清国にアヘンを売りつけていたはず。そして、それにより堕落したことが清国が滅亡へ向かった要因の一つ。
「長英様、伝蔵様。清国を立て直すには、いくらの財産が必要だ?」
「はあ?」
長英は、突然の問いかけに素っ頓狂な反応を示す。
「仮にの話だ。完璧じゃなくてもいい、イギリスの魔の手から救い出せれば、それで十分だ」
長英は、蘭学者としての知識を総動員しているらしい。しばしの沈黙。
「はっきりとは分かりません。しかし、清国の人口と領土、そして現在進行しているアヘンによる銀の流出規模を鑑みれば……天文学的な数字になりましょう。もしや、清国という国そのものに恩を売るつもりで……?」
「さすがに、そこまでの壮大な計画は持っていない」
俺は苦笑する。
「俺の考えはこうだ。イギリスは清国の海岸沿いを手中に収めつつある。その牙城を崩せれば、琵琶湖から清国へヒスイを運び込み、海外に売りつける拠点にできる、そう考えている」
どうやら、長英も俺の意図が読めてきたらしい。
「なるほど。オランダがインドを拠点に活動しているように、我が国も清国を拠点にすると」
伝蔵も、この巨大な戦略の意味を理解し始めた。
「考えとしては間違っていないはずだ。清国を拠点にできれば、はるか遠くの国にまでヒスイを輸出できる。そして、金銀を取り戻して幕府を立て直す。そのためにはまず、清国の腐敗しきった役人を金で買収するか、あるいはイギリスの裏をかくか――」
俺の視線は、伊勢の地図から、遥か西の清国へと移っていた。
伊勢参りによる国内の経済活性化は、運河ネットワーク完成のための盾。そして、清国を舞台としたヒスイ貿易は、日本を富ませるための矛となる。
琵琶湖運河計画は、今や、東洋の国際情勢をも巻き込む、巨大な国家戦略へと変貌しようとしていた。




