第20話 魔物の骨が止めた運河
信濃での「洗馬騒動」を金融の知恵で収め、一刻の猶予もなく福井へと舞い戻った俺を出迎えたのは、運河の「未来への希望」とはかけ離れた、原始的な恐怖だった。
福井藩側の掘削現場は、完全に機能を停止していた。人足たちは逃げ出し、現場を警護する藩士たちも青白い顔で、掘削口から一定の距離を取って見張っている。
掘削した土を運ぶはずのトロッコも、資材も、すべてが凍り付いたように動かない。そこには、技術的な問題でも、資金的な問題でもない、人知を超えた何かへの恐れが満ちていた。
「義春様、お待ちください。これ以上は危険でございます」
案内役の福井藩士が震える声で止めるのも聞かず、掘削口へと近づいた。横穴の入り口には、注連縄が張られ、塩や米が供えられている。完全に「魔の巣穴」として扱われていた。
「これが噂の魔物の巣窟か?」
「ええ、左様でございます」
福井藩の財政危機は、加倒式マスト技術という「金銭的な魅力」によって一時的に抑え込まれた。しかし、現場の人間は、金ではなく恐怖に動かされている。
「見つかった骨は、これです」
横穴から運び出された土砂の脇には、布で覆われた巨大な何かが横たわっていた。藩士が恐る恐る布をめくると、それは人間のものとは比べ物にならないほど分厚く、禍々しい、巨大な脊椎骨の一部だった。
これは魔物の骨ではない。恐竜の骨だ。しかし、当時の人間に、この骨の真の価値を理解させるのは難しい。
この骨こそが、運河計画を破綻させる最大の危機であり、同時に、信濃で手に入れる採掘権よりも遥かに大きな富と名声を生む、最大の切り札であることを確信していた。これのために、土砂を彦根藩が受け入れることを条件に加えたのだ。恐竜大国である福井県の地層を掘り進めれば、こうなることは明白だった。先手を打って正解だったな。
運河の完成を進めるために俺は今、歴史を書き換える第二の戦いに挑む必要があった。
骨を検分していると、背後から馬の蹄の音が響き、二人の男が駆け込んできた。
「義春殿! お待たせいたしました!」
一人は、樺山伝蔵。そしてもう一人は、蘭学を修めた天才、高野長英だった。彼らは、逢坂山のシールド工法を一旦他に任せ、急遽こちらへ駆けつけてくれた。さすがに、俺一人で、この一件を片付けるのは難しいと判断した。
「逢坂山の方はどうだ? 順調に進んでいるか?」
「工法の習熟も進み、半分は完了しました。我々がいなくとも滞りはないでしょう。それよりも、この骨……」
長英は、骨を一目見るなり、興奮で息を飲んだ。蘭学の知識がある彼にとっても、この骨は異様な代物だ。
「義春殿、これは竜骨です! ですが、これほど巨大な竜骨は、私が読んだどの蘭書にも記されていません。これは、尋常ならざる古代の巨大な獣の骨です!」
長英の目が、金ではなく、学問的なロマンで輝く。学者らしい反応だ。
「長英様、その『尋常ならざる骨』を、どうすれば金のなる木に変えられる?」
俺の問いに、長英は冷静さを取り戻した。
「それは容易いことです。清国では、竜骨は高貴な生薬として珍重されています。この骨を『万病に効く奇跡の薬』として、細かくすり潰し、独占的に売るのです。竜骨の数百年、数千年を遥かに超える古い骨です。その効能は、誇張して語るに値するでしょう」
長英の提案は、当時の常識を利用した見事な経済戦略だった。だが、この作戦は一時的なものにしたい。恐竜の骨は、他に活かす価値がある。薬以外の道で。
「よし、わかった」
未だ恐怖に怯える藩士に向き直った。
「この骨は魔物ではなく、金です。薬として売る名目で、掘削を再開する許可をください。採掘費用は彦根藩がすべて肩代わりしましょう」
だが、藩士は頭を横に振った。
「そ、それはできません。この骨は藩主の判断待ちであり、これ以上掘り進めることは、祟りを増すことに繋がります。我々はこれ以上、藩の金と信用を魔物のために使うわけにはいかない!」
俺の前に、「金の力」だけでは動かせない、封建的な恐怖と、福井藩の頑なな財政への切迫という、二重の壁が立ちはだかった。そして、この対立こそが、次の危機に繋がることを誰もまだ知らない。




