第19話 洗馬騒動――百姓一揆を収めろ
「なんだと! そのような口約束を勝手に結ぶとは、言語道断。彦根藩の者でなければ、今ここで首をはねておったわ」
城に戻ると、案の定、藩主から雷が落ちた。そうはいっても、これ以上、手の打ちようがなかったのだから勘弁してほしい。
「ですが、農民たちが帯刀などの特権を恨んでいるのは事実です。これを撤回しなければ、間違いなく一揆は勢いを増します。この城に押し寄せないとも限りません」
「貴様、わしを脅す気か!」
「いいえ、事実を述べたまで」
この藩主を説得するには、別のルートで攻略するしかない。正論で納得はしないだろう。
この藩主は、財政難と幕府からの体裁に最も怯えているはずだ。
「私が貴方を脅しているのではない。現状の藩の財政が、貴方を脅しているのです」
藩主の机の上に置いてあった、藩の借用書の束に目を向けた。
「今、武力で一揆を鎮圧すれば、幕府からの鎮圧費用、復興費用、そして大量の血が流れたことによる幕府からの懲罰という三重の代償を払うことになります。藩に、その金と信用のどちらが残っていますか?」
藩主は、義春の冷徹な指摘に言葉を失った。
「私が提案しているのは、鎮圧費用ゼロ。復興費用ゼロ。そして、松本藩の信用を回復させる策です。その鍵は、農民が憎む特権と、藩が懐に入れた献金という、二つを未来の財産に変えることです」
俺は、懐から取り出した新たな証文――藩債の試案の図面を広げた。
「私が三日後に農民に約束したことは、特権の廃止という代償と、献金を新たな事業の株券に替えるという利益の二つです。貴方が選ぶのは、流血か、未来の利益か。どちらですか」
藩主よりも先に、重臣たちの顔に答えが浮かんでいた。彼らは「役人の次は、自分たちが農民から追われるかもしれない」と思っているのだろう。そして、最悪の場合、殺されるだろうと。
「殿、いかがいたしましょうか」
「いかがも何も……。選択肢は一つしかあるまい。わしとて間抜けではない。未来の利益を選ぼう」
怒りが治まったのか、藩主はどっかりと腰を下ろす。
それでいい。ひとまず、彼の頭を冷やすことには成功したらしい。
「殿。では、具体的な策を申し上げます。まず、献金した豪農たちの怒りを鎮めることが急務です。彼らは金で地位を買った。その地位を奪えば、藩を恨み、次の敵になり得ます」
俺は、試案の図面を藩主の前に広げた。
「しかし、彼らが本当に欲しかったのは、藩の信用に裏打ちされた確実な利益です。献金を、藩への借金、すなわち藩債の形に切り替えます。利子は、藩の苦しい林野収入からではなく、我が彦根藩の運河事業の利益から一部を充当することを、私が特別に約束しましょう」
これには、藩主だけでなく重臣たちも息を飲んだ。他藩の巨大な事業利益を借金に充てるなど、異例中の異例である。
「そして、この策の最大の利点は、幕府への体裁が立つことです。藩は、騒動を武力鎮ではなく、金融政策による藩政の立て直しという、新しい形で解決したと報告できる。これで、藩は財政再建の模範として、逆に幕府からの信用を得ることになります」
「それは、まことか!?」
「ええ」
ここまでくれば、こっちのものだ。難所は乗り切った。
「一刻の猶予もありません。すぐに特権の即時撤廃を布告し、同時に献金者の代表を城内に招集してください。三日後の正午までに、彼らに新しい証文を納得させなければ、約束は反故となります」
「分かった、そうしよう。だが、すぐに呼び出すことはできない。一日の猶予が欲しい」
農民からもらった時間は三日間。それを過ぎれば、すべては水泡に帰す。藩はすでに信用を失いつつある。
「なりません。今すぐ、代表者を集めてください。約束を守ることは簡単です。しかし、それだけでは人心を掌握できません。迅速に行動し、その速さをもって農民への誠意を見せるべきです」
「殿、この者が提案した考えを真に受けるおつもりですか? 我々は、帯刀を許されたから献金したまで」
豪農たちの言葉は柔らかに聞こえるが、暗に「撤回するなら、金を返せ」と迫っている。当たり前と言えば当たり前だ。
「まあまあ、落ち着かれよ。献金で得た特権は、憎悪しか生みません。すでに、屋敷を打ち壊されたことで分かるはずです」
「それならば、献金した分をどうしろと? 諦めろとでも言うのか?」
「あなた方が真に求めるのは、特権ではなく確実で永続的な資産でしょう。それを我が彦根藩が保証します」
俺は、藩主へした内容と同じことを説明する。豪農たちは疑心暗鬼だ。他藩が金を出すなど、過去に例がない。しかし、彼らは渋々ながらも納得したようだった。
「分かった、献金を藩債へと切り替えよう。証文はどれだ? 早く署名して、農民からの殺意をなくしたい」
「まさか、一日で話をつけたのか……?」
「ええ、あなた方の期待に応えるべく」
農民たちのもとへ戻ると、事態終息を告げた。彼らは、あまりの早さに驚きを隠せていない。
「これで、格差はなくなる!」
「我が藩も見捨てたものじゃない」
歓喜に包まれる中、年長の農民は刀を返しつつ、俺に尋ねた。
「しかし、彦根藩は損するだけではないか。それで、お前の立場はどうなる。間違いなく打ち首だ」
「ご安心ください。私にも秘策がありますゆえ」
百姓一揆を治めた借りは、幕府から返してもらえばいい。信濃国境付近にある未調査の山地についての特別な採掘権という形で。あそこにあるのは――。
「義春殿! 大変でござる福井藩の掘削が中断になりました!」
お供として連れてきていた者から文を受け取る。どうやら、福井からの運河掘削に問題が生じたらしい。文に目を走らせる。
「やはり、そうなったか。しかし、原因は明白。今度は福井藩に向かう。工事現場より見つかった魔物の骨とやらを調査する。その上で、不安を取り除く」
魔物の骨は「運河を止める災い」であり、同時に「運河を推進する資金」だ。不安を取り除くだけでなく、「魔物の骨」を金と名声に変える。その実績は、信濃で目論んだ採掘権を幕府が認めざるを得ない、強力な証拠ともなる。
「急ぐぞ。誰よりも早く、福井へ」
俺は、信濃で獲得した信用を、福井で新たな資源へ変換し、運河計画を国家プロジェクトへ押し上げるための次の舞台へと、一気に駒を進めた。




