第18話 武士の命
俺の訴えた「公正さ」という言葉が響いたのか、農民たちはゆっくりと鍬を下ろした。だが、その眼に宿る色は消えない。憎しみ、怨嗟、諦め、そのどれともつかぬ感情が濁った水のように沈み込んでいる。
視線だけで斬られそうな緊張の中、冷たい山風が吹き抜ける音だけが耳に刺さった。
「分かった、お前を信じよう。しかし、全面的に信じるわけにはいかぬ。彦根の者といえど、我が藩主の息がかかっておらぬとも限らん」
その声は震えていなかった。怒りに芯を入れた声だ。城へ誰かを連れて行けば立会人にはなるだろう。しかし、間違いなく城門をくぐった瞬間に殺される。今、この場で、言葉だけではなく「覚悟」を示さねば、信頼は生まれない。
俺は深く頷き、ゆっくりと息を吸い込んだ。湿った土の匂いが肺に満ちる。
「お前たちの疑いは、もっともだ。この国を治める者が一度約束を破れば、二度と信じてもらえない。それは道理だ」
言いながら、腰の刀にそっと手を添えた。京の刀工に特注させた、実戦用の頑丈な刀。これを手放すという意味は、武士の側なら分かりすぎるほど分かっている。
俺は刀を鞘ごと抜き、静かに地面へ置く。乾いた土の上に鞘尻が触れる音が、不思議と大きく響いた。
「私が約束を守る担保は、命だけでは足りない。だから、この武士の特権を差し出そう」
空気が凍りついた。農民たちの目が、驚愕で大きく開く。刀を渡すということは、もはや武士の庇護を捨てるのと同じ行為。それを、俺はためらわず突き出した。
「この刀を預かってもらう。もし城に戻った私が約束を反故にしたなら――お前たちはこの刀をもって、いつでも私を討てばよい。大義は、お前たちにある」
どよめきが起きない。声を出す余裕すらないのだろう。
「三日後の正午までに、特権の撤廃と献金の扱いを定めた新しい証文を持って、この場所に戻る」
俺は続ける。
「もし三日後の正午、私が戻らなければ、この刀を売り払い、その金で村を立て直せ。そして――」
腰を抜かし、地面に尻をつけたまま震えている案内役の役人を指差した。
「こいつを裁け。お前たちの望む形でだ。その際、彦根藩が一切干渉しないことを誓う」
一瞬、農民たちの視線が役人に向く。怨念が再び燃え上がりかけたが、それを押し返すように俺は静かに言い放った。
「選ぶのはお前たちだ。憎しみのまま血を流すか、公正な未来を掴むために担保を取るか」
俺はあえて突き放すような冷たい声を出した。慈悲を乞うのではない。これは対等な「取引」なのだと、彼らの理性に叩き込むために。
長い沈黙が落ちた。時間が凝り固まり、あらゆる視線が刀の一点に吸い寄せられていく。
やがて、最も年長と思しき農民が前に出た。彼は折れた鍬を足元に置き、震える手で刀をそっと持ち上げた。武士の魂を握ったという重さに、肩がわずかに揺れた。
「若きものよ。お前の命懸けの信用、確かに預かった。三日後の正午、ここで待つ」
その声には、まだ怒りが色濃く残っていたが、絶望は消えていた。俺は静かに頭を下げた。
農民たちの憎悪が、ようやく「希望という名の債権」へと姿を変えたと感じた。彼らはもはや暴徒ではない。正当な権利を主張する交渉相手となったのだ。
案内役の役人の襟首を掴み、引きずるようにして城へと引き返す。背中に突き刺さる何百もの視線。それを盾のように感じながら、俺は次の戦場へと歩を進めた。
交渉はすでに始まった。タイムリミットは、あと三日。その間に、腐りきった藩の勘定方を根底からひっくり返してやる。




