第17話 信濃の山里へ
文政5年、信濃国領内。
藩主・井伊直亮の許可という武器を手に、俺は信濃へと入った。城下町は城門こそ閉ざされ、物々しい警戒態勢が敷かれているが、その騒動の原因は、城内よりも農民の集落にある。
役人たちが恐る恐る提供した資料を前に、歪んだ財政構造を冷静に見抜いた。
一揆の原因は藩が財政難を補うため、一部の裕福な農民の献金への見返りとして帯刀を許可したことにある。間違いない。この格差によって憎悪が生まれている。農民は、藩の重税だけでなく、藩に金で権威を買った者たちにも苦しめられていた。
俺は、すぐに騒動の中心地の一つである、荒れた集落に近い寂れた宿場に身を置き、藩の役人に命じた。
「案内しろ。騒動が最も激しかった、特権を持っていた者たちの屋敷と、その周囲の一般の農民の集落だ」
役人は顔面蒼白になった。
「義春様、お待ちください! その集落は一揆勢の恨みが深く、非常に危険でございます!」
「危険を承知で来ている。それに、私は鎮圧に来たのではない。一揆の根源を見に来た。この騒動は、武力で鎮められるものではない。財政と人心で解決しなければ、必ず再発する」
一揆の根本から原因を取り除かねば再発し、藩と農民の溝はさらに深くなる。そして、藩政が傾く。この悪循環ができあがってしまう。何としてでも、根源を絶つ必要がある。「献金と特権」で崩壊した藩の信用をどう立て直すか、その解決策を頭の中で組み立てながら、混乱する山里へと足を踏み入れた。
案内されたのは、騒動の中心となった豪農の屋敷だった。周囲の貧しい長屋が板壁をさらしているのに対し、その屋敷は白壁で立派な構えだ。しかし、屋敷自体は既に打ち壊されており、泥と瓦礫が散乱し、刀までが折れて転がっている。
「帯刀を許された農民」とは名ばかりだ。彼らが本当に欲しかったのは、藩の庇護と武士に近い権威。だが、その権威は、金銭で買ったものに過ぎず、一揆勢の憎悪の前に簡単に崩れ去った。
「義春様、ご覧の通りです。この憎悪は、特権を取り上げるだけでは消せません」と、供の者がささやく。
俺は、瓦礫の山を冷静に見つめていた。脳裏には、彦根藩の藩札と、京の豪商に突きつけた運河会社の株式の仕組みが浮かび上がる。
豪農が求めたのは、金で買える永続的な「利益」と「信用」だ。そして、一般農民が求めたのは、「公正さ」と「生活の安定」だ。特権を廃止するのは当然だが、それだけでは献金した豪農は反発し、財政は再び傾く。ならば、金で買った特権を、金で増える信用にすり替えればいい。
「視察は終わりだ。城に戻って具体策を練る」
そう言うと、役人の顔に安堵が浮かぶ。長居せずに済むのが嬉しいらしい。その役人の胸元をちらりと見た。帯刀こそ許されていないが、その身なりは下級武士のものとしてはあまりに清潔で新品に近い。
こいつもまた、金で身分を買った側の人間か。道理で、この山里の状況を知りながら、恐怖しているわけだ。
その時だった。一行が瓦礫の山から宿場へ戻ろうとした瞬間、周囲の山際から大勢の百姓が、鍬や鎌を手に姿を現した。その数は三十人は下らない。彼らは俺たち彦根藩の面々には目もくれず、案内役の役人を憎悪に満ちた瞳で包囲した。
「おい、金持ちの犬! お前も城に逃げ込んだはずだったな! 今日は逃がさんぞ!」
「藩を騙し、わしらを苦しめた帯刀野郎と同じ穴の狢め!」
百姓たちの怒声が響き渡る。役人は文字通り顔面蒼白となり、腰が抜けてその場にへたり込んだ。
彦根藩の供の者が刀に手をかける。しかし、冷静に制した。
「待て。引け」
俺は百姓たちに向かって一歩進み出た。
「皆の者。私は彦根藩の運河奉行、義春だ。お前たちの不満と苦しみは承知している。そして、ここにいる役人が、お前たちが憎む特権によって身分を得た者であることも知っている」
百姓たちは、武士ではないにも関わらず堂々とした俺の態度に、わずかにたじろいだ。
「だが、今ここでこの男を殺したところで、お前たちの生活は安定しない。飢えは満たされない」
俺は、地べたに座り込んだ役人を指さした。
「この男も、お前たちと同じく藩の財政難の犠牲者だ。藩は金が欲しさに、彼に偽りの権威を売った。そして、お前たちの憎悪を買った。憎むべきは、この男ではなく、この憎悪を生んだ仕組みだ」
「それがどうした! 藩も、その男も、すべて金で解決すると思っているんだ。その性根、叩き直す必要がある!」
「お前たちの憎しみは、特権の撤廃によって晴らされるべきだ。そして、お前たちの生活は、藩の公正な財政によって守られなければならない。暴力では解決できない。暴力はまた暴力を生む」
人類は愚かにも暴力の応酬ですべてを解決できると思っているが、実際は違う。
「私がここに来たのは、特権を廃止し、公正な藩の信用を回復するためだ。そして、そのために、この男が献じた献金を、新しい藩の事業への出資という形で、公正に活用する」
百姓たちは、俺の言葉の真意を測りかねたのか、鍬を握りしめたまま硬直した。
「今、この男を討てば、お前たちは人殺しとして幕府の鎮圧軍に討たれる。だが、私を信じ、この男を城まで戻らせれば、お前たちの要求は必ず実現する。選べ。憎悪か、公正な未来か」
百姓たちの感情を鎮めつつ、「鎮圧」ではなく「公正さ」という論理を提示することで、この危機を乗り切ってみせる。農民たちに、正義の心があると信じて。




