第16話 外堀を埋めよ
彦根城の奥深く──藩主だけが使う奥の間は、福井城と違い驚くほど質素だった。余計な装飾はなく、季節の掛け軸と香の匂いだけが僅かに漂う。だが、静けさの底にある緊張感は重い。些細な判断が、この国の命運を左右する。
「殿、文はご覧になられましたか?」
俺は正座し、藩主・井伊直亮の表情を窺った。既に文は開封されており、その手には微かに力が入っている。
「ああ、読ませてもらった。しかし……なぜ、我が藩が信濃国の百姓一揆の鎮圧に赴かねばならんのだ」
藩主の声には呆れと不満がこもっていた。 当然だ。幕府の指示とはいえ、わざわざ遠方へ兵を動かす理由は薄い。しかも、運河事業は今まさに山場。藩主としては不満も当然だった。
そこで俺は、深呼吸をして、ゆっくりと言葉を置いた。
「これには理由がございます。我が藩は、運河事業を推し進めている最中。この事業は山城国をはじめ諸藩を巻き込んでおります。ここで一揆を鎮圧し、幕府に恩を売ることができれば、以後の根回しが比べ物にならぬほど容易になります」
井伊直亮は腕を組んだまま、考えを巡らせている。だがまだ決定打にはならない。そこで俺は、さらに一段踏み込んだ。
「殿、私が耳にしたところによると……幕府は信濃に新たな財政再建の模範を求めている様子。今回の騒動の根本は過酷な徴税。単に兵で抑えたところで再発いたします」
井伊直亮の眉がわずかに動く。彼は武断ではなく文治を旨とする男。これは効いている。
「我が藩が赴けば、新しい徴税制度や藩政改革の手法を、幕府に代わって提示できます。刀ではなく知恵で治める。これは殿のお好みにも合致するはず」
井伊直亮の瞳に、かすかな光が戻った。
そこで──俺は声を潜め、切り札を放つ。
「そして、最も大きな実益がございます」
井伊直亮が息を呑んだのが分かった。
「この騒動の解決への報酬として、私は幕府に、信濃国境付近の未調査山地の“特別採掘権”を求めるつもりです」
室内の空気が大きく一変した。
「実は……高野長英と樺山伝蔵に、密かに地質調査を命じておりました。あの山地には、“長い年月を経て巨大な圧力で生まれた、特殊な鉱物質”──清国で高値で取引される『玉石』に酷似した組成の鉱脈が、高確率で存在するとの結論が出ています」
井伊直亮の目が見開かれた。藩主としての打算と欲望が、あからさまに宿る。
「この採掘権さえ得られれば、運河事業の永続的な資金源となり……いずれ彦根を、江戸に次ぐ日本の金融中心地へと押し上げられるでしょう」
俺は静かに畳みかける。
「信濃の一揆鎮圧など、藩の未来に比べれば小さな手間。武力ではなく知恵で鎮め、幕府の信頼を掴み──代わりに未来永劫の富を得るのです」
しばしの沈黙。やがて井伊直亮は、深く息を吐いた。
「よかろう。義春、信濃へ行け。ただし──血を流すな。そしてその採掘権、必ずや手に入れてみせよ」
その言葉は、藩主の命令であると同時に、期待と信頼の証でもあった。
「殿の期待に、必ず応えてみせます」
俺は深く一礼する。信濃行きは、運河計画をより盤石なものにするための布石。失敗は許されない。
だが──心配はなかった。すでに、暴力を使わず一揆を鎮める策はすべて頭の中にある。
今度は俺の前世チートではなく、政治・金融・軍事心理──あらゆる知識を総動員した、本物の交渉戦だ。
「無血で鎮めてみせようか、一揆一つくらい」
そう呟き、俺は信濃へ向けて立ち上がった。




