第15話 福井藩主、松平治好という男
文政5年(1822年)。可倒式マストの開発を終えた俺は、すぐさま越前国、福井城へと向かった。
松平家は徳川一門に準ずる大藩であり、城下町は確かに栄えていた。しかし、城に近づくにつれて、その華やかさの裏にある異様な光景が目についた。城下の主要な商人街こそ建物を修繕した跡が見られるものの、一歩裏手に入れば、壁が剥げ落ちた長屋が目立ち、そこで働く人々の衣服は色褪せてみすぼらしい。
「城の普請や対面のための体裁は整えているが、実態は火の車か」
その表面的な威容と、内情の困窮のギャップを冷静に見抜いた。
城内に入ると、その印象はさらに強まった。通された一室は、見事な襖絵に彩られ、使用されている調度品は一つ一つが贅を尽くした逸品だった。それは、「徳川一門」としての格式を必死に保とうとする、福井藩の最後の矜持を示しているようだった。
上座には、福井藩主、松平治好が座っていた。瞳には藩を立て直そうとする強い意志が宿っている。
「遠路はるばる、ご苦労であった。京での交渉は見事な手並みであったと聞く。して、この越前に何の用件で参ったか。我々は、金がない」
治好は、回りくどい挨拶を嫌い、いきなり福井藩の最大の弱点を突きつけた。正直なお方だ。交渉の余地がある
俺は、懐から可倒式マストの設計図と、運河の全貌図を広げた。
「治好様。私が持参したのは、金ではなく、金を生み出す鍵です。そして、我が藩は、福井藩の掘削費用を実質的にすべて肩代わりしましょう」
治好の顔色が変わるのを静かに待ちながら、可倒式マスト技術の無償提供と、土砂の廃棄権という二つの提案を切り出した。
「その代わりに、我が藩から琵琶湖までの運河を造れと申すか……。なるほど、条件は悪くない。可倒式マストは、そなた達の専売特許。他の藩を出し抜くのには十分だ。よかろう。そなたの提案、乗った!」
「では、今度は可倒式マストの図面と必要な機材をお持ちいたします」
福井藩は、運河という「未来の利益」と、土砂処分という「現在の難題の解消」という二重のメリットによって、費用負担の巨大な重圧を飲み込んだのだ。
治好に向けて、最後に念を押した。
「ただし、運河掘削によって出る土砂の全所有権は、その中に含まれるいかなる鉱物・資源も含め、永代にわたり彦根藩に帰属するものとさせていただきます。これは、土砂の処分に伴う環境保全を確実にするためです」
「承知した。土砂の処分費まで肩代わりしてくれるというのだ。願ってもない」
俺は、悠然と茶を飲む。相手を負かした後に飲む茶はうまい。だが、勝利の余韻に浸る暇はすぐに奪われた。福井城の静寂を破り、外から慌ただしい足音が近づいてくる。治好の側近が、顔色を変えて部屋に飛び込んできた。
「殿、大変でございます! 江戸から緊急の早馬で、幕府からの御触れが!」
「落ち着け、何事だ」
「それが……信濃国にて、大規模な農民一揆が発生したとのこと。収拾がつかず、領内全域が騒乱状態に陥っております。幕府は、近隣諸藩へ鎮圧と仲介の協力を求めている、と!」
信濃の洗馬騒動――。文政5年(1822年)に起きた、あの歴史的大事件だ。来た! 運河の成功実績と、この福井との大規模な技術取引という武器を引っ提げて、幕府の懐へ入り込む最大の好機だ!
「治好様」
立ち上がると、松平治好に向けて深く頭を下げ、言葉を選んで発言した。
「この件、我が藩にとって、そして運河事業を国家事業に押し上げるために、見過ごせない好機です。我が彦根藩には、藩札や運河事業で培った財政と人心掌握の知恵があります。この場で直ちに藩主・井伊直亮へ書状をしたため、事態収拾への協力を申し出ます。治好様にも、その旨を幕府へご報告いただくことは可能でしょうか?」
「うむ、承知した。幕府には、彦根藩が既に協力を申し出ている旨、急ぎ報告させよう。井伊の若殿、そなたの活躍、期待しているぞ」
福井藩との取引を終えたばかりの俺の目に宿るのは、運河を遥かに超える国家財政という巨大な獲物だった。




