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【江戸時代】琵琶湖運河、開通ス  作者: 雨宮 徹


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第13話 大坂の豪商を説き伏せろ

 京の町を一望できる、静謐な奥座敷。そこは、京随一と名高く、実質的に日本の金融を裏で操る豪商――両替商たちの元締めとの会談の場であった。



 障子越しに差し込む冬の淡い光が、線香の煙と張りつめた空気を淡く照らし出している。向かいに座る豪商の末裔を自称するその老人が放つ威圧感は、吹き込む冷気よりも鋭く肌を刺した。使い込まれた煙管の先から立ち上がる紫煙が、俺と彼の間に不透明な境界線を引いている。



「琵琶湖を起点に、逢坂山を貫き、京へ運河を造る、とな。御高説は結構だが、義春殿。果たして、わしらにどれほどの利がある?」



 老人は濁った、しかし全てを見透かすような眼光をこちらへ向けた。



「加えて、水運が栄えれば既存の陸運、飛脚たちは干上がる。彼らが飢えようと構わぬというのか? 仁義なき開発は、いずれ恨みの火となって彦根を焼くぞ」



 来たな、既得権益者の「正義」を盾にした本音だ。俺は乱れることなく、静かに頷いた。



「ええ。仰る通り。このままの仕組みであれば、飛脚の方々は仕事を失い、路頭に迷うでしょう」

「何を言うか! それでは彦根藩の仁義に反する! 貧民救済を謳いながら、裏では実直な労働者を切り捨てか!」

「いいえ。――運河が完成した暁には、運河沿いに『通信所』を設置します。飛脚の方々には、重い物資ではなく、『情報』という名の風を運んでもらう。船は、複雑な山間の村々へは立ち寄れませんから。彼らこそが、情報の最後の足となるのです」



 豪商は目を細め、腕を組んだ。予想外の回答に、言葉の切れ味が一段上がったのを感じる。



「飛脚を情報の運び手に変える、か。面白い詭弁だ。では、我らには何を渡す? 運河が成功せねば、通行料などただの紙屑だ。我らが動くには、もっと確かな『富の匂い』が必要だ」

 


 その問いを待っていた。俺は身を乗り出し、声を一段低める。



「ここだけの話ですが――彦根藩ではすでに新たな政策が動いています。運河の通行権を『手形』として発行し、藩の御用達商人に優先的に流通させる構想です」



 隣で沈黙を守っていた父・義道が、持っていた茶碗を畳に落としそうになった。



「義春……! そんな話、初耳だぞ。家老会議でも……」

「当然です。これは最大の交渉材料ですから。もっとも、今この瞬間に俺の脳内で決定したことですが」



 父の耳元で、しかし断固とした響きを込めて返す。凝視する父の視線が痛いが、今は逸らすわけにはいかない。これは、ハッタリではなく「予言」なのだ。



 豪商が怪訝そうに眉を上げた。



「何をひそひそと。だが、仮にその手形とやらが発行されたとして、我らに不利益はあるまい」

「いいえ。もし、あなた方がここで反対されるのであれば、この新しい手形はすべて、運河の成功を信じる他の新進気鋭の商人……つまり、あなた方の競争相手の手に渡ることになります」



 豪商の、枯れ枝のような指先が微かに震えた。



「京と大坂の手形は、今や陸運の遅さに縛られ、物流の速度に限界が生じている。しかし、運河手形は違う。金の流れる速度が、物理的に加速するのです。富の中心はわずか一年で彦根へと移るでしょう。……あなた方が、時代の外側に取り残される形でね」



 豪商の顔に、怒りと焦燥が混ざり合った、複雑な歪みが浮かんだ。



 既存の権力者が最も恐れるのは、損失ではない。「自分だけが仲間外れにされること」だ。よし、ここから畳みかける。



「そこで、提案があります。運河の維持、管理、拡張を一手に担う『特許会社』を設立します。その権利の断片――いわば『株』という名の持分を、限定的にあなた方に提供しましょう」

「カブ……?」

「はい。運河が成長すればするほど、その価値が上がり、配当が出る。通行量が増えるほど、彦根が発展するほど、あなた方の懐に入る利益は――青天井です」



 青天井。

 


 その言葉が落ちた瞬間、豪商の瞳の奥に、ギラリとした欲望の火が灯った。



「なるほど。つまり、運河そのものが、掘れば掘るほど湧き出る『終わりのない金脈』になるというわけか」

「ええ。京から大坂へ、そして彦根へ。日本の金融の重心が移り変わる、その最初の波。あなた方は、その波頭に乗るか、あるいは飲み込まれるか。選ぶのは今です」



 沈黙が支配する。やがて、豪商は深く、長く、重い息を吐き出した。



「――わかった。協力しよう。運河の建設、存分にやるがいい。資金の調達はわしが引き受けよう」



 勝負は決した。



「では、これにて交渉成立。我々はこれより彦根に戻り、まずは逢坂山に風穴を開けます。それは、あなた方が新時代の覇者となることを告げる、最初の鐘の音となるでしょう」



 俺は、冷めかけた茶をゆっくりと啜った。勝者の茶は、驚くほど格別な味がした。



「では、このあたりで失礼いたします」



 文政4年(1821年)。



 古い金融の秩序が音を立てて崩れ、新しい経済の潮流が生まれた瞬間だった。

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