第12話 思わぬ障害物
「義春、急ぎ京に来い」
それは、公家の説得に向かっていた父・義道からの文だった。字の乱れはないが、筆圧がわずかに強い。墨が紙の裏に染み透るほどに深く、鋭い。父が焦燥を押し殺しているときの、隠しようがない癖だ。公家の説得には時間はかかるが、父なら必ずまとめられる。つまり――別の火種が発生したということ。
嫌な予感を胸に、俺は馬を飛ばし、京の父の宿へ駆けつけた。馬のいななきが、夕闇の迫る京の街路に高く響いた。
京の宿の一室。畳に差し込む夕暮れの光は赤く、どこか不吉な色を帯びていた。父と向かい合うと、開口一番、重たい声が落ちる。
「地元の豪商が反対派に回った」
その一言だけで、部屋の空気が物理的な質量を持って冷えた。豪商の後押しは、公家の説得と同じくらい重要だ。彼らが背を向ければ、京全体が鈍重になる。
「豪商は何を恐れているのですか? 公家と同じく、運河通行料の一部を得られる立場のはずです」
父は溜息まじりに扇子で膝を叩いた。乾いたパチンという音が、静まり返った室内でやけに大きく反響する。
「奴らは今の体制が崩れることを懸念している。水運が栄えれば陸運が衰退する。すると、どうなるか……飛脚は仕事を失う。あまり大きな声では言えないが、豪商と飛脚の関係はずぶずぶだ」
しまった。完全に盲点だった。
豪商にとっては、成功するかも分からない新規事業よりも、長年築いてきた利権の方が重い。彼らは特定の飛脚を重用し、代わりに自分たちの手形を優先的に運ばせることで、金融の流れを握っている。
「公家は通行料で納得したが……こうなると話が変わる。義春、お前ならどうする?」
父の視線には、焦りではなく、俺への期待が込められている。それが逆に重い。だが、逃げるわけにはいかない。
豪商――特に、京と大坂の金融を牛耳る連中なら、思い当たる顔がある。彼らの利害は単純ではない。水運と陸運の争いだけではない気配がした。
「父上、それは……京の金融を支える者たちですね?」
「その通りだ。両替商として大坂と京の金の流れを握る者たちが、最も強く反対している」
「なるほど……。彼らが恐れているのは、運河による輸送費の低下だけではありません。物流の速度と中心地が変われば、金融の中心も京から揺らぐ。飛脚は荷物だけでなく、信用状や手形といった金融の血液を運んでいますから」
父が深く息を吐いた。
「義春、彼らを黙らせる策は本当にあるのか? 公家たちは、豪商の横槍で完全に及び腰だ」
圧力が首筋に乗るような感覚。しかし、逃げる道は最初からない。豪商は金で動く。ならば――こちらも金で揺さぶればいい。彦根藩には、成功を前提として設計した運河計画と、特別藩札という新しい金融装置がある。
「もちろんです」
俺はあえて、不敵な笑みを口端に浮かべた。父を安心させるためではなく、自分自身の覚悟を固めるための笑みだ。
「彼らの目的は金を失わないこと。ならば、運河事業に彼らを巻き込み、むしろ今よりも大きな利益が転がり込む仕組みを作ればいい」
「利益……?」
「ええ。彼らには、金融の中心地が京から彦根へ移る未来を、魅力的に見せればいいのです」
父の目が細められた。怒っているのではない。俺の腹の内を測っているのだ。
「具体的には?」
「ここで説明するよりも、豪商のところへ直接乗り込んだ方が早いでしょう。父上――行きましょうか」
父はゆっくりと立ち上がり、腰の刀に手を添えた。
「……分かった。お前の策、見せてもらう。もし、仕損じれば、親子ともども無傷では済まぬぞ」
「承知の上です」
襖を開けると、夕日は完全に沈み、京の街に灯りがともり始めていた。ここからが本番だ。豪商相手の交渉は、力ではなく頭の勝負。
さて――前世の経済学チートで、豪商を黙らせるとするか。




