ラザークの隘路
「この米、少し譲って頂くことってできませんか?」
僕はタルナ村の酒造りに使われるという米を分けてもらった。久しぶりの米、しかも短粒種。もしかしたら日本の米と同じように食べることができるかも知れない。
ラザークの隘路へ向けた旅立ちに向けて、僕たちは準備に追われていた。この日のために田に植えずに育てた米の苗と、酒と米をつめた樽をを馬車に詰め込む作業はかなり重労働だった。タルナの人たちは一緒になって荷物を積んでくれたが、結局タルナ村の数少ない馬車を二台も使うことになった。
その夜、僕はヴィオラに導かれ、村はずれにある小さな集会所へと足を運んでいた。そこは魔素を潤沢に用意した祭りのためだけに開かれる場所のようだ。皇帝から預かった小さな通信機は皇国から離れると魔素濃度の低さからかノイズが酷くなっていたが、ここでは非常にクリアに聞こえた。集会場にはタルナ村の代表として村長だけが通信を聞いていた。
今日はヴィオラが通信を確認すると、いつものゼルフィアの元気な声はしなかった。カルヴァドの静かで冷徹な声が聞こえた。
「ミズキ、ヴィオラ。いよいよ明日、お前たちはラザークへ向かう。表向きは神話編纂の旅だが、今回のラザーク訪問の目的はお前たちも承知の通り、シィヴァ教への食料援助という根源的な武器を送り込むことにある。」
僕は唾を飲み込んだ。通信機から聞こえる声には、常に背筋を凍らせる冷酷さが潜んでいる。
「その手土産だが、単に米の苗を渡すだけではない。」
カルヴァドの淡々とした声に感情が感じられなかった。その無機質な声は僕を苛立たせた。
「明日、お前たちと共にラザークへ向かうタルナ村の技術者十名――男五名、女五名。そして、ラザーク側から交換でタルナ村へ送られてくる十名も同様だ。」
「……それ、どういう意味ですか。」
嫌な予感がする。
「簡潔に言おう。彼らは技術者としてではなく、皇国の楔としてラザークに派遣される。お前たちの滞在期間が一ヶ月であっても、彼らの滞在は最低二年だ。その間に、タルナの人間はラザークの異性と、ラザークの人間はタルナの異性と、可能な限り結婚し、子を成すことを推奨する。」
僕の思考が一瞬だけ停止した。それは、推奨ではない。それは事実上の命令だ。理解すると共に怒りが湧いた。何に対する怒りと言ったらいいか、上手く言葉にできない。だが、僕の中で素朴に信じられていた尊厳を踏み躙るような言葉に怒りが湧いた。
「つまり、シィヴァ教の権力下にあるラザークの隘路に、皇国側につく血縁を意図的に根付かせる。そして、魔素に依存しない食料文化と生き方を教え込むことで、彼らの心を皇族側に取り込む。」
カルヴァドは僕の口調から、何を意図しているか見抜いたようだ。
「これは二年以上前から検討されていた戦略だ。人材に対する配慮など、無意味だ。この作戦は、シィヴァ教という強大な敵に対し、最も効果的で、最も血を流さない方法だと私は確信している。」
「っ……それは、あまりにも、あまりにも人の道に反しています!」
僕は衝動的に声を上げた。全身の血が逆流するような憤りを覚えた。個人の自由、恋愛感情、そして未来を、国の都合で強制的に操作する。それは、異世界であっても許されない暴挙だ。人の尊厳を踏みにじったこの現実を、僕はカルヴァドのやろうとしていることを英雄の偉業として編纂する使命なんて、断じて受け入れられない!
「人の心を、道具のように扱っ――」
声を荒げた瞬間に肩に重みを感じ、僕は言葉を止めた。背後から、肩に誰かの手がそっと置かれたからだ。それは、タルナ村の長の年老いた手だった。
「ミズキ様。お気持ちはありがたい。しかし、それ以上は言わないでくだされ。」
僕は、その固い決意が混じった声に驚いて固まってしまった。
「我らは、この作戦を熟慮し、受け入れました」
村長は、通信機に一礼をしてから語り始めた。
「陛下。私はタルナの村長でございます。ご計画は承知しております。この戦略は、確かに一見、人の道に反するかもしれませぬ。しかし、これはタルナ村の、そして我らが氏族の、切実な生存戦略でもあるのです。」
生存戦略とはどういうことだ、村人たちは皇帝の命令を受け入れているということなのか?僕は理解が追いつかなくて、めまいがした。ただ、村長の言葉は静かに続いた。
「小さなタルナ村では、長きにわたり血縁が濃くなりすぎておりました。このままでは、村の存続に関わる。我々は、村の外に血を送り出し、同時に外の血を受け入れる必要があったのです。だから陛下の計画に参加させていただいた。詩女様から話を聞いた時にはもちろん葛藤しました。しかし、村のみんなで決めたのです。」
村長の顔は、数十年先のタルナ村の存続という、僕の人生よりも遥かに遠くて重い未来を見ているようだ。固い決意と、慎重な面持ち、静かに語りかける声の前に、僕は何も言い返せない。無力だった。
「派遣される若者たちは、皆、村を守るという覚悟を持っています。彼らは、個人の幸せではなく、共同体の生存を選びました。彼らにとって、それは人道に反するのではなく、生きるための尊い使命なのです」
村長が言い終わると、カルヴァドは、一呼吸おいて僕に言い放つ。
「聞いたか、ミズキ。お前の正義は、彼らの生存を否定するものになりかねない。与えられた使命を遂行することを忘れるな。お前の世界の道徳的な判断は、この世界では足かせになる。」
その声は怒りを抑えているような複雑な心境の混じる声だった。僕は反論できなかった。カルヴァドの言う言葉は理解できても、そんなふうに割り切れない。拳を握る以外に僕はできなかった。そんなことできるような雰囲気じゃない。
初めてカルヴァドに言葉で負けた気がした。元々踊らされていただけかもしれないが、悔しい気持ちが湧き上がる。ただ、それは舌戦で負けたからなのか、道理が通じなかったからなのかはわからなかった。
通信が切断され、通信機の光が消えた後も、集会所には重い沈黙だけが残った。
翌朝、日の上る前からタルナ村は賑わっていた。若い技術者たちが、不安の色を見せながらも、どこか誇らしげな、覚悟を秘めた顔で馬車に乗り込む。彼らの決意の重さが、僕の胸を締め付けた。
ラザークの隘路への道のりは、タルナの村から山間部を縫って進む、過酷な旅だった。険しい岩肌、変わりやすい天気、そしてシィヴァ教の信者が多いため警戒の視線が向けられる土地。
目の前に広がる厳しい道と、自分の心の中にある倫理的葛藤の重さが交差した。
「大丈夫ですか?」
心配そうに僕の顔を覗き込む。
「ヴィオラ、君は昨日の陛下の通信、どう思っているんだい?」
ヴィオラは少し考えているようだ。一呼吸置いてから喋り出した。
「自分の意思で婚姻したり、生き方を決めることができないことにミズキは反発していましたね。ですが、私たちの人生で自分の意思で決められることは限られています。だから・・・」
「だから仕方ないっていうのかい?誰かに命令されて自分の人生の大きな選択をしなければならないなんて、おかしいだろ!」
僕は間髪開けず、声を荒げた。思ったよりも大きな声が出たことに自分自身が驚いた。だけど、ヴィオラは顔を横に振る。
「そうじゃありません。私たちと共にラザークを目指す者たちもまた、自分の意思で決めているのです!きっかけは確かに陛下の提案でした。ですが、この二年の間に彼らも自分の人生を決めたのです。納得して自分の道を選んだ者たちなのです。」
僕はわからなかった。それは、自分の意思で決めたことになるのだろうか?この村や皇国のことなんて放っておいて、自分の人生を楽しむべきだ。僕はそれこそが自由意志だと思っていた。でも、ヴィオラの言葉にも説得力がある。それは彼女自身が自分の運命を選べない立場だからなのだろうか。
だとしても、だ。だとしても、政治的な戦略の駒にされることが選んだ道というふうに納得できない。
ラザークの隘路は、その名の通り、山々の深い谷間に張り付くように築かれた都市だった。
タルナ村から二日に及ぶ厳しい山道を抜けて、僕の視界に飛び込んできたのは、岩肌と同じ色をした石造りの建物群と、そこを支配する灰色の空だった。
シィヴァ教自独立治区、ラザークの関所の厳しい検問は一時間以上かかっただろう。皇帝からの勅令の紙を広げて、ヴィオラ勅令を読み上げたが、検問官は必要以上に長い時間をかけて全ての荷物を調査した。
この地は、かつて農業不適の狭い土地ゆえに食糧難に苦しみ、魔法の復活というダルメアの最初の奇跡によって救われた歴史を持つという。そのため、魔法と、それを司るシィヴァ教の権威は、住民の生命線となっていた。ダルメアの奇跡から百年も経たず、皇国から独立自治区を認められるほどにこの地域のシィヴァ教の威力も大きくなった。この地域の成長からシィヴァ教が皇国全土に広がったのだ。しかし、今はラザークの隘路の街全体に暗く、不安げな空気が漂っているようだ。魔素の不足は日を増すごとに、この地域の活力を奪っている。
シィヴァ教の本殿は、隘路の最も奥まった、巨大な岩山の中腹にそびえ立っていた。
石造りの広間は簡素だが、張り詰めた空気と、玉座のように高い位置に座るダーレン大僧正、そしてその下に並ぶ数十名の僧侶たちの威圧感に圧倒される。
ダーレン大僧正は、白く長い髭を蓄え、僕たちを異質な異物として値踏みしているように見えた。
交渉役はヴィオラだった。普段のヴィオラからは想像もできない、氷のように冷徹な外交官としての彼女の姿に、まず圧倒された。彼女の表情には一切の動揺がなく、その声は広間に響き渡るほどクリアだった。少女らしいあどけなさは微塵もみられなかった。
「私たちは、タルナの稲作技術と種、そして魔素に依存しない食料文化を、貴教団の指導のもとでラザーク全域に普及させる準備ができています」
ヴィオラは淀みなく、一つ目の「手土産」を提示した。
「その対価として、まず、タルナの技術者十名と、貴教団の若者十名を二年間の文化・技術交流のため、交換派遣いたします。そして、この特別な召喚者イチカワ・ミズキに、一ヶ月の滞在と、教団の歴史・神話に関する資料の調査権を要求します。」
交渉の席についていた僧侶たちの間に、ざわめきが起こる。彼らは、食料援助は喉から手が出るほど必要としつつも、皇国側からの介入、特に長期にわたる人材の交換という要求に、強い警戒心を示した。
一人の年長の僧侶が立ち上がり、声を荒げた。
「長期の人材交換は、我々の聖域に皇国の技術と思想を深く根付かせようという意図ではないか、恩義を感じさせてさらなる要求を求めるつもりではないだろうな!」
ヴィオラは一歩も引かず、むしろわずかに口角を上げてみせた。その笑みは、まるで相手の弱みを正確に把握しているかのような、プロの冷酷さを帯びていた。いや、もしかしたら挑発だったのかもしれない。
「教義、ですか。魔素の不足が続けば、貴教団の信徒は飢えで倒れます。その時、貴教団の教義は彼らの腹を満たせますか? 飢えた信徒が離散した時、貴教団に聖域という権威は残るでしょうか?」
ミズキは、ヴィオラの容赦のない言葉に息を呑んだ。普段の愛らしい彼女からは想像もできない、冷酷なロジックだ。彼女は信仰そのものを否定せず、「信仰を支える生存基盤」という現実を突きつけていた。
「二年間という期間は、稲作技術と魔素に頼らない生き方を、貴教団の民に深く理解していただくために必要不可欠です。この援助は、貴教団を支配下に置くためではなく、両者が共倒れになることを防ぐための、共存の提案です。」
「共存だと?侵略の間違いではないのか?」
何人かの僧侶のヤジと怒号が響く。その時、顔を上げたヴィオラの眼光が光ったように見えた。
「皇帝陛下は平和的解決を望んでいるのです。もし、侵略を望んでいるのであれば、ラザーク一帯が飢えてから武力による解決を提案されることでしょう。そちらの方がきっと安上がりに済むでしょう。」
僧侶たちは彼女の気迫に負け、部屋は一瞬の静寂が訪れる。その空気を支配するかように、ヴィオラは一切感情を交えずに、論理と国家間のバランス、そして挑発を混ぜながら語り続けた。その圧倒的な交渉力と、彼女の冷徹な覚悟に、愕然とした。彼女がただの巫女ではない、詩女たちは外交官であり、間者なのだ。
「シィヴァ教開祖のダルメア様は、協力関係を築くことで皇国の発展に尽力してきました。ダルメア様の尽力を無駄にしたくありません。」
ヴィオラの言葉に緊迫した沈黙が場を支配する中、僕は深呼吸して任務を全うする決意をした。
「ダーレン大僧正、私が異界から召喚されたミズキ・イチカワでございます。」
僧侶たちはざわつき出す。このラザークにも僕の噂は届いていたようだ。今はカルヴァドの与えた神話編纂官と名乗りたくなかった。それが僕のできる唯一の抵抗だったからなのかも知れないけれど、とにかくそうは名乗らなかった。
「私は本日、このラザークに活路を見出す一つの方策を考えてきました。私が皆様にご提示するのは、シィヴァ教というブランド・アイデンティティが直面する、存続という名のクリティカル・イシューに対する、リブランディングの提案です。」
僧侶たちの間から聞きなれない言葉の羅列に、困惑の声があがる。それでいい、僕はとにかく熱っぽく捲し立てる。
「本提案のゴールは、魔素に依存しない持続可能なソリューションを導入し、貴教団のユーザー、すなわち信徒のロイヤリティを再構築することにあります。」
部屋の雰囲気を変えるためにも、僕は精一杯大きな声を出していた。
「貴教団が今後直面する真のクリティカル・イシュー、つまり解決する重要課題は地域の停滞です。」
僕は理解して欲しい箇所だけをわかりやすく言い直す。これはハッタリ、根拠を証明できるほど僕に調査する時間があったわけではない。恐怖訴求になるかも知れないが、ここは日本じゃない。危機を煽って覚えさせればいいのだ。
「ラザークは、外部からの資源流入を制限することで、独自のブランド・アイデンティティを守ってきた。しかし、その結果、隘路という地理的な特徴が、成長のボトルネックと化しています。」
移動中に考えた台本を頭の中で完璧に組み立てて、澱みなくはっきり、そしてテンポを上げながら発音する。
「解決方法は、このラザークを、ラザークの門を公に開くことです。」
僧侶たちの怒号が聞こえる、ヴァルナディア皇族一家が見捨てたこの土地を切り拓いたのは我々だぞ、と僧侶たちの怒りが聞こえた。きっと、その通りなんだろう。しかし、僕にはどうすることもできないし、その責任は僕には無い。さらに大きな声を出すために深呼吸する。
「ここにいる僧侶の皆様はこの土地の真価を理解していません。この土地を開くことで、ヴァルナディア皇族に優位に立てるということも理解していません。ラザークの門を閉ざすことだけを考えていませんか?」
僕はゆっくり、はっきり言葉を選んだ。そして恭しく地図を広げた。
「ここに、我々皇国側が分析したヴァルナディア全域の流通シミュレーションのデータがあります。」
地図上のラザーク、皇都、マルティア王国を結ぶ線を指差して僧侶たちに見せつける
「ラザークの真価は、その排他性にあるのではありません。この地は、マルティア王国、皇都、そして山岳地帯の村々をつなぐ、最も戦略的なロジスティクス・ハブとなる潜在的な優位性を持っています。」
飴と鞭だ。ヴィオラが教団の痛いところを突いて散々鞭を振るった。僕は教団の優位性を持ち上げる。
「貴教団に提案するのは、この地理的優位性を価値として還元する地域復興事業です。開祖ダルメア様が行った魔素を使った復興に続く、第二の復興を皆様の努力で成し遂げるのです。」
ダルメアの名前を出した瞬間に僧侶たちの顔色が変わる。僕が復興させるのでは、彼らが共感できるストーリーを与えられない。僕が提供するのは自分たちで作り上げた最善策という幻想だ。
「皇国が調査した、マルティア王国と皇都をつなぐ抜け道を一般に解放するのです。門戸を開放し、通行料や関税を徴収する。道は物資を運び、人を呼び込み、価値を呼び込みます。」
「これは、ラザークを独立した自治区のまま衰退させるのではなく、交易の要衝として発展させるという戦略的な選択です。門を閉ざすという過去の戦略をアップデートするのです。今こそ自分たちの手でダルメア様の改革を完成させましょう。」
これは僕の考えた道の神話の一つだ。道を作り、解放し、流通を整備する。衰退するはずだった地方は、街道に近ければ近いほど発展するだろう。
「この道を公に開くことで、貴教団は食料の提供者であると同時に、地域の経済的生命線となります。魔素の不足で失われつつある権威は、生存と繁栄という物理的価値によって再構築されるのです。
自分で作ったプレゼン原稿を反芻するうちに、自分がやっていることがカルヴァド皇帝と変わらないのかも知れないと思えて、嫌悪感が湧いたのも事実だ。それでも、僕は、自分の仕事をやり終えることにした。締めは2択を迫る。
「鎖国か、開放か。この二択が、ラザークの生存ではなく、繁栄を決定します。」
僧侶たちの怒号が一瞬にして止む。僕の提案はラザークという独立自治区の独立性を実質的に形骸化させて解体するものでもあった。その意味を理解した者がどれだけいたかは確かではない。ただ、選択を迫られていることだけは、共有できただろう。
玉座に座るダーレン大僧正が、ゆっくりと目を開いた。彼の瞳は、交渉の駆け引きを超えた、遥か遠くの未来を見据えているかのようだった。
「よろしい。」
ダーレン大僧正は、白く長い髭を撫でながら、静かに、しかし断固とした声で言った。
「我が教団は、ダルメア様の奇跡によってこの地を開いた。そしてこの皇国を蘇らせた。だが、ダルメア様も魔法も、我々に腹を満たす力を永続的に与えてはくれなかった。貴殿らの皇帝が我らを疎ましく思っていることも承知している。しかし――」
ダーレンは深く息を吐き出した。
「今、ラザークを救うために、現実的な手立てを考えるべきではないか? 信仰だけでは、人は飢えを凌げぬ」
その一言が、交渉の決着をつけた。信仰の最高指導者による「現実」の受容。僧侶たちはこれ以上の反論ができず、カルヴァドの条件を受け入れた。
タルナ村の若者たちと、ラザークの若者の交換が行われ、「二年間の技術交流」という名目のもと、僕らは教団の聖地への潜入を果たした。
その夜、僕らは僧侶たちの監視がないことを丹念に確認してから通信をした。
「こちらはヴィオラです。聞こえますでしょうか?」
ラザークの隘路は魔素の不足に見舞われているために通信もノイズが混じる。ザザザ、というノイズの後にゼルフィアが応答した。
「ヴィオラ?ゼルフィアよ。少し声が遠いけれど、なんとか声が聞こえるわ。あなたたちから連絡があるということはラザークの隘路には上手く潜入できたと考えていいかしら。」
「ええ、予想通り反発もあったけれど、要求を呑ませることに成功したわ。」
ヴィオラが議会の様子などを簡単にまとめて伝える。
「想定よりも上手くいっているわね。こちらからもあなた達に伝えたいことがるの、皇都の状況を聞いて欲しいの。」
「何かあったのですか?」
「ええ、本日の議会で隣国との外交政策方針が発表されたの。マルティア王国との関係強化のために来月行われる外交交渉に皇帝陛下が自らがマルティア王国、貿易都市ウルバーラに訪問することに決まったわ。今日からその準備で陛下もヌール様も忙しくされているの。本当は、あなた達の交渉成功を陛下が一番最初に聞きたかったでしょうにね。」
ヴィオラは少し寂しげに話す。
「ラグナス様は調査のために、タリア様も辺境警備隊の鼓舞のために国境に行くことが決まったの。」
彼女だけ、月の宮殿に取り残されたような、そんな感傷的な気持ちになるのが理解できる。だからと言うわけではなかったが、僕も彼女に頼みたいことがあった。
「ゼルフィア、僕たちは明日からシィヴァ教の古い書物などを調べる。その間、君には詩女に伝わる古歌というものを書き出して欲しい。ヴィオラから聞いたんだけど、この国の古詩は歴代の詩女から口伝で伝わっているそうだね。僕が神話を編纂するのに文字に起こして欲しいんだ。」
「わかった、私、あなた達がシィヴァ教を調べている間にまとめておきます。それと、私からも貴方にお願いしたいことがあるわ。私の頼んだ侍女がお姫様を守る物語、必ず書いてくださいね。」
ゼルフィアは僕のお願いを聞いたのち、元気な声で応えてくれた。
翌日から、僕たちの「神話編纂の旅」という偽りの使命が本格的に始まった。
割り当てられた部屋は、僧侶たちが使う簡素な石造りの一室で、窓の外には灰色の岩肌しか見えない。それでも、シィヴァ教の宝物殿に隣接する書庫と資料室への立ち入りが許可されたことは大きな前進だった。
資料室の空気は冷たく、分厚い羊皮紙の匂いが満ちていた。ヴィオラは僧侶たちの監視がある中、冷静に調査を進めていた。僕もダルメアに関する古い文書を広げ、魔素の不足と魔法の技術に関する記述を読み進めていた、その時だった。
「ニャー」
小さな鳴き声が、資料の山の中から聞こえた。
「ん?」
僕が音のした方を見ると、古文書が積み上げられた棚の影から、一匹の猫が姿を現した。毛並みは上品な白と黒のまだらで、首輪には教団の証らしき、小さな磨り減った真鍮の飾りがつけられている。猫は少し警戒しながらも、ゆっくりと僕が広げた文書の上に飛び乗ってきた。
「ちょっと、危ないだろ!」
僕は慌てて声を上げそうになったが、隣で熱心に記録を取っていたヴィオラが、僕の慌てぶりに気づき、そっと微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ミズキ様」
彼女は筆を置き、その猫を優しく撫でた。交渉の場で見た、鋼のような冷徹さは微塵もない、いつもの愛らしい表情だった。
「この子は聖域の番猫ですよ。ヴァルナディアでは猫は単なるペットではなく、魔素の異常な集積を本能的に察知する守り神とされています。特にシィヴァ教では、猫の静かで孤高な佇まいがダルメア様の教えに沿うものとして大切にされているのです」
猫の地位の高さに、僕は思わず苦笑する。
「へえ、猫様が聖域の番人か。ここの世界は猫が偉いんだな」
そうこうするうちに、猫は僕が読んでいたダルメアの功績に関する古文書の上に、堂々と香箱座りをしてしまった。僕がそっとどかそうとしても、微動だにしない。
ヴィオラはクスッと笑いながら、「聖なる番猫が、あなたの調査の休憩時間だと決めたようですね」と言った。
諦めて手を止めると、猫はゴロゴロと喉を鳴らし、僕の膝にまで飛び移ってきた。その重さと温かさが、カルヴァドの冷たいロジックや、タルナ村人の重い覚悟で強張っていた僕の心を、一瞬だけ溶かした。
「……可愛いな、お前」
僕は思わずそう呟き、猫の柔らかい毛皮を撫でた。この世界に来て初めて、政治や使命から離れ、純粋に安堵できる瞬間だった。この小さな聖域で、猫は、僕にとって道徳的な判断が足かせになる世界から逃れられる、唯一の休憩場所となった。
翌日も、ヴィオラと共に教団の資料調査を続けた。ダーレン大僧正の「現実的な手立て」という判断があったとはいえ、僧侶たちの監視の目は厳しく、彼らの信仰と飢餓の板挟みによる苦悩が、重い空気となって資料室を満たしていた。
僕はまず、シィヴァ教の教義の書物を調べた。
教義の中心は、精神統一のための瞑想や修行法、そして心の持ち方に関するもので、禅宗に酷似していた。魔法の教団でありながら、その教えは極めて内省的だ。
「ダルメア様は、常に心の平穏と調和を説かれました。魔法は道具であり、最終的な救済は自己の内側にあると……」
僧侶は静かに語る。
そしてダルメアの功績に関する古文書からは、開祖が次々と奇跡を起こし、古に滅んだ魔法を復活させたことで、人口増加によって窮地に陥っていたラザークの隘路の生活水準を飛躍的に改善させたことが分かった。農業不適の地だからこそ、魔法が絶対的な生命線となり、教団の権威が確立したのだ。
この魔法を用いた生活水準の飛躍的な改善は皇国によって取り込まれ、ヴァルナディアは急速に魔法に取り込まれていったようだ。
しかし、この教団には欠点がある。教義にはダルメアを讃える言葉はあっても、「神話」、すなわち具体的な物語がないのだ。ダルメアの誕生や旅、奇跡の詳細なエピソードは抽象化され、「魔法の源を復活させた」という事実だけが、核として残されている。
「なぜ、魔法が生活の基盤となったこの地で、開祖は魔法そのものではなく、心の平穏という、魔法と対極にあるような教えを説いたのか?」
その「物語の空白」は、僕が編纂すべき「新しい神話」の鍵であり、ダルメアの隠された真実を示しているのではないだろうか。それとも、彼女の人生そのものがこの教団の神話になっていたのかも知れない。
調査が一ヶ月の期限に近づいた頃、僕ははヴィオラと共に、教団の最も奥まった宝物殿の調査を特別に許された。監視役の僧侶がつく厳戒態勢の中、ダルメアの遺品が収められた聖櫃が開かれる。
古びた遺品や書物の中から、核心的な発見があった。羊皮紙で書かれたシィヴァ教の設立までの記録、僕たちはダルメアの日記を発見したのだ。日記はフランス語で書かれているようで、僕には殆ど読めなかった。日記の途中に横18マス、縦9マスの中に幾つかのアルファベットの書かれた表には見覚えがあった。一番上の列の左端にはH、右端にはHe。化学を学んだ人間なら、反射的にそれが何を意味するか理解できる――この異世界に存在し得ない、元素周期表の断片だ、と。僕は自分の手が震えているのがわかった。
そして、最後のページにはインクが滲むほどの激しい筆圧で、I'm not wrong. I shouldn't be wrong.と、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、そして何かに訴えかけるかのように殴り書きされていた。
一体どういうことだ?僕は慌ててメモをとる。
この日記はシィヴァ教の人間にも、ヴィオラにも読めない文字で書かれているらしく、結局、解読することはできなかった。そして、元素周期表もまた、彼らにとっては暗号文に見えるらしい。このヴァルナディアにアルファベットを理解するものはいないのかもしれない。重要な発見であることは確信できたのに、それが何を意味しているかまでは掴みきれないままだった。
そして、最も重要な発見。
日記に添えられた遺物、添えられた遺物は小さな金属製の箱に入っていた。中を見せてもらうと「時空結晶」に酷似した、乳白色の光を放つ小さな破片だった。
「ミズキ、これは一体何なのでしょうか?」ヴィオラが不安そうに声をかける。
「……ダルメアは、僕と同じ、異世界から来たのかも知れない。」
突然シャー!という、けたたましい鳴き声が資料室の外から響いてくる、番猫だ。時空結晶を警戒しているのだろうか、毛を逆立てて威嚇している。小さな破片を金属製の箱にしまっても、じっとこちらを警戒したままだった。番猫は、その日を境に僕に近づくことは無くなった。
謎を深めながらもウルバーラへの次の旅路への期日が迫ってくる。
「ヴィオラ、一度、カルヴァドと合流しよう。」
僕はヴァルナディアに得体の知れない違和感を感じ始めていた。




