古都の記憶
「いってきます、カルヴァド陛下」
ヴィオラが手を組み、祈りの詩を静かに口ずさむ間に、馬車は皇都の門を抜け、重苦しい城壁の影から光の街道へと滑り出た。
旅の始まりは、思いのほか静かだった。議会の喧騒と、カルダ隊長の重圧が嘘のように遠ざかり、馬車の揺れと、荷物が微かに擦れる音だけが、空間を支配している。窓の外には、整備された街道が続き、時折、皇国の紋章を掲げた馬車が通り過ぎていく。
僕は、記録官の鞄から真鍮製のマルテル定規を取り出し、改めてその裏に刻まれた規格説明を眺めていた。自転軸から太陽道までの弧長の1000万分の1――これは地球のメートル法と、ほぼ同一の定義だ。この世界の「物理法則」が僕の知る世界と共通しているという事実は、僕がこの世界で戦うための希望であり、同時に、この世界を創った「誰か」の意図を感じさせる不気味な証拠でもあった。
「ミズキ、何をそんなに熱心にご覧になっているのですか?」
ヴィオラが静かに尋ねた。彼女は詩女のローブを脱ぎ、動きやすい藍色の簡素な服に、革製の胸当てをつけ、右手には肘まで覆う無骨な籠手を装着している。対比するのも憚られるが、その素顔には可愛らしいあどけなさを残していた。
「この『マルテル』という単位です。この単位の存在が、僕がこの世界で戦うための武器になる。…しかし、マルティア王国は、一体どうやってこの規格を確立したんでしょうね。」
「マルティア王国は、遥か昔に、海を渡ってきた異文化の民によって建国されたと聞きます。彼らの知識が、今の皇国よりも遥かに進んでいることは、公然の秘密ですわ。」
ヴィオラはそう言うと、ふっと笑みをこぼした。
「あの、ミズキ様。」
「はい、何でしょう、ヴィオラ様。」
「あの……様という敬称はやめていただけませんか。」
僕は驚いてヴィオラを見た。彼女は頬をうっすらと赤らめ、視線を定規から逸らそうとしない。
「え?でも、ヴィオラは皇族に仕える詩女で、僕は異世界から呼ばれた単なる編纂官ですよ。」
「それは宮廷での話です。私たちはいま、皇帝陛下から特命を受け、皇国の運命を懸けた旅に出ている。しかもミズキ様は、皇族の威信を背負う『公的編纂官』という、皇国にとって最も重要な客人です。」
ヴィオラは、言葉を選びながらも、毅然とした態度で言った。
「陛下から、ミズキ様を皇族同等の、『真の同志』として扱うよう、厳命されています。それに……ずっと『様』をつけられると、距離が遠く感じられて、私は少し、寂しいです。」
彼女の最後の言葉は、少女のような可愛らしい本音が混じり、僕の心をくすぐる。
「……分かったよ、ヴィオラ。じゃあ、僕のことも“ミズキ”でいい。これからは、ミズキとヴィオラで、この旅を成功させましょう。」
「はい、ミズキ!」ヴィオラは目を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。「私のことも……ヴィオラと呼んでください。」
お互いに敬称を外したことで、馬車内の空気は一気に和らぎ、僕らの間に確かな信頼感が生まれたのを感じた。ヴィオラは改めて窓の外に目を向けた。その横顔は、懐かしさと、微かな寂しさを帯びているように見える。
「この街道は、よく陛下に連れてきてもらった場所です。」
「カルヴァドと?」
僕が陛下から受ける印象とはずいぶん違うカルヴァドとヴィオラの関係に驚いた。
「ええ。詩女として登用されたのは、私が五歳の時でした。」
ヴィオラはゆっくりと語り始めた。彼女の言葉は、まるで古い詩を口ずさむように、透き通っていた。
「私は辺境の貧しい村の出身です。詩女の素質を見出され、皇都に連れてこられたとき、誰も知り合いはいませんでした。宮廷の生活は、儀式と規律ばかりで、とても孤独で……。同期にはゼルフィアもいましたが、皆、厳しい修行をこなすことに必死で、心から打ち解けられる相手はいなかったのです。」
孤独な幼少期のヴィオラにとって、当時の第二王子カルヴァドは、唯一の救いだったという。
「いつも、第二王子殿下、今の陛下が、こっそり私を外に連れて行ってくださったんです。『月の宮殿に閉じ込められていては、息もしにくいだろう』と。私にとっては、まるで本当の兄君のようでした。身分の違う私がお慕うのも不敬ではありますが、私にとってはいつまでも眩しい兄君様なのです。」
ヴィオラは頬を少し赤らめ、はにかむように微笑んだ。その愛らしい表情は、純粋な少女の姿そのものだった。しかし、その笑顔はすぐに影を落とした。
「でも、全てが変わってしまったのは、十年前です。」
ヴィオラの声が、一気に冷たい現実へと引き戻される。
「第一王子殿下が、遠征先で不慮の事故により亡くなられました。前皇帝陛下は、その悲しみから立ち直ることができず、公務を全て詩女の長や重臣たちに任せ、離宮に引きこもってしまったのです。」
「魔素の研究にのめり込んでしまったんですね。」
ミズキが確認するように言うと、ヴィオラは小さく頷いた。
「はい。前陛下は『魔素の力で、死者を蘇らせる』と……。そう言い残して、国政を顧みなくなってしまわれました。その隙を突いて、シィヴァ教が力を伸ばし、前皇帝の失政を批判することで民衆の支持を集め、瞬く間に政治の中枢に入り込んでしまったのです。」
ヴィオラはの瞳は、かつての光を失った宮廷の闇を映しているようだった。
「第二王子殿下、今のカルヴァド陛下は、兄君の死と、父上の失意、そしてシィヴァ教の専横という、三重の重圧の中で王位を継がれました。元々、カルヴァド陛下は皇位継承からは外されていた御身分でしたので、シィヴァ教以外の貴族や諸侯からの反発も多いのです。」
ヴィオラはギュッと拳を握りしめ、強い決意を込めた眼差しでミズキを見つめた。
「だから、ミズキ。陛下が私と貴方に託してくださった『神話編纂の旅』は、陛下が国を取り戻すための、最後の『祈り』なんです。私はこの旅を、必ず成功させます。陛下の、そしてこの国の光を取り戻すために。」
僕の胸に、その使命の重さがずしりと響いた。この旅は、単なる歴史の記録ではない。それは、一人の純粋な詩女の敬慕の対象であり、苦悩する皇帝の、命がけの願いなのだ。
「分かりました、ヴィオラ。君のその覚悟、しかと受け取った。僕は、僕の持つ全てを使って、この国を救う最高の『物語』を編んでみせます。陛下の考える基盤を作るための時間を稼ぎ出します。」
その日の夕刻、街道沿いにある中規模の街、ルオンに到着した。行商の馬車に偽装した馬車には香辛料とお茶が積まれていた。カシムが宿を探している間、僕たちはルオンの街を少し散策させてもらうことにした。皇都よりも簡素だが、それなりに整った城壁を持つ商業都市といった風情だったが、日が沈むにつれてその顔は一変した。
「詩女としてこの街に何回か訪れたことがあります。ここの街は帝都へ向かう南西の行商人が集う宿場町ですから市場がとても賑わっています。ミズキ、少し覗いてみませんか?」
僕を連れて夜市の中心へと向かった。彼女の顔には、旅の解放感と、陛下への忠誠心の厳格さが同居している。
「ミズキ、これがルオンの夜市です。皇都の市場とは、全く雰囲気が違いますでしょう?」
ルオンの市場は、朝、昼、そして夜で店子が入れ替わる独特のシステムを持っている。夜の帳が降りると、昼間は簡素なバラックだった場所に、煌々と炎を灯した屋台が立ち並び、夜市が始まるのだ。
皇都での商売を終えた商人たちが、売れ残った製品や、規格外の商品を捌くためにここに集まる。そのため、市場には、どこか怪しげな掘り出し物や、奇妙な薬草、そして用途不明のガラクタが溢れかえっていた。
「うわ、すごい……まるでアジアの夜市みたいだ。」
ミズキは思わず声を上げた。焚き火の煙と、多国籍な香辛料の匂い、そして商人たちの威勢の良い掛け声が渾然一体となり、独特の活気を生み出している。
「アジアは、ミズキのいた世界の街の名前でしょうか?たしかに、ここは皇都の計画された賑わいとは違います。商人同士での売買、近隣の農民、そして旅人が集まり、ルオンの夜市は、皇国の経済の裏側を支えている場所です。」
市場を歩く人々は、階級や身分に縛られず、皆、目の前の取引に熱中している。ヴィオラは、詩女のローブではなく、動きやすい藍色の簡素な旅装であるため、一見するとただの若い騎士にしか見えない。
「この布、皇都では倍の値段で売られていましたよ!」「これはデセリオンの獣の牙だ。本物だ!」「一杯どうだい、旅のお方!」
僕たちは、魔素を動力とする煌びやかなランタンが連なる路地を進んだ。露天には、鮮やかな染料、奇妙な生き物の乾燥肉、そして、古びた書籍までが並んでいる。
僕の興味を引いたのは、異世界から来た僕でも理解できる数学的な美しさを持つ工芸品だった。ある露店で、僕は小さな木箱に立ち止まった。中には、正確に六角形にカットされた石がいくつも並べられていた。
「これは何ですか?」
露天の主人は、日焼けした顔に笑みを浮かべた。
「お、坊主、目が肥えてるな。これは『蜂の石』だ。魔素を留めたもので、魔力の減衰が遅い。儀式に使う詩女もいるぞ。」
「この六角形、なぜこんなに正確なんですか?」
僕が尋ねると、商人は得意げに胸を張った。
「さあな。だが、昔からこの形が一番、効率よく魔素を保持できると決まってるんだ。誰が教えたかは知らんが、古の智慧ってやつさ。」
「効率よく」――その言葉に、僕は思わず身震いした。この世界で、六角形が最も効率的な充填方法であることを知っているのは、高度な幾何学を知る者だけだ。この街の市場の片隅にまで、僕の知る世界と同じ「法則」が浸透していることに、僕は改めて驚愕した。
「ミズキ、行きましょう。その石は、旅には必要ありません。」
ヴィオラは、僕の興味を遮るように、少し早口で言った。その声には、ただの忠告ではない、何かを恐れているような緊張が滲んでいた。彼女の表情は、一瞬にして険しくなっている。露店から離れると、ヴィオラは周囲を警戒するように一度振り返り、静かに僕に忠告した。
「ミズキ。気を付けてください。夜市は活気がありますが、それは同時に暗躍する者が紛れ込みやすい場所でもあります。」
「暗躍する者?」
「はい。シィヴァ教の信者、密偵、そして軍閥と繋がりのある者たちです。陛下が公衆の面前でミズキを公的編纂官として発表したことは、既に皇国全土に知れ渡っているでしょう。」
彼女は目立たないように、手の動きだけで、腰に下げた短剣に触れた。表情は今まで見た少女のあどけなさとは程遠く、冷静で張り詰めていた。
「我々の旅は、シィヴァ教の総本山に近いラザークの隘路から始まります。つまり、我々は既に敵地に入り込んでいるに等しいのです。」
皇帝陛下を慕う、少女と同一人物とは思えない気迫に気押される。
「彼らは、ミズキの持つ『新しい物語』の力が、自分たちの既得権益を脅かすことを理解しています。特に夜市のような場所では、皇族の関心が遠いと考える悪意ある者たちが、動き出す可能性が高い。」
その言葉は、僕の脳裏に、帝国議会で牽制の視線を送ってきたカルダ隊長の顔を蘇らせた。カルダは軍部の人間だが、シィヴァ教徒の中に、僕の暗殺を企む者がいてもおかしくない。
「僕たちは、この旅を成功させるために、絶対に死ぬわけにはいかない。」
「その通りです。だから、好奇心だけで不用意に立ち止まらないでください。宿に戻ったら、すぐにヌール様から渡された通信機の確認と、明日の旅路の調整をしましょう。」
ヴィオラは、僕の手をそっと掴み、人ごみを縫うように早足で市場を後にした。
今日の宿は簡素な二段ベッド一つと、長椅子しかないこの部屋は行商人用の簡易宿泊施設らしい。カシムが屋台で購入したスープとあげ肉は宮廷で出てきたものとは違い、野生味の強いしっかりした味だ。付け合わせの香草が風味を引き立てている。かなりうまい。
ヴィオラが通信機に手を触れると木箱の端にあるランプのようなものが点滅する。数分するとゼルフィアが応答した。
「ヴィル、私の声は聞こえてて?」
「ええ、ゼルの声がよく聞こえます。しっかりと!」
旅程の確認と宮廷での情報共有は簡潔に行われた。僕たちが議場から退出した後、皇帝の発表した方針についてシィヴァ教の反発が多少あったようだが、軍閥からの批判は冷静なもので、概ね賛同で議会は終わることができた
。明日の目的地は暁の丘と呼ばれる神殿の跡地だそうだ。
「ミズキ様、私のお願いした侍女とお姫様の物語、必ず書いてくださいね。月の宮殿ではその話で持ちきりですから。」
ゼルフィアは通信の最後にとんでもないお願いをしてくれた。僕は今日見た景色を忘れないうちにスケッチする。ヌールが用意した紙の束は20枚綴りにしてクロッキー帳のように使うことにした。ペンでは描きにくいということから、木炭を用意して持ち出せたのもありがたかった。
ルオンの城壁、市場の熱気は、冷たい宮殿に軟禁状態だった僕の筆に活気を取り戻してくれた。僕が魔素で光るランプを消す頃にはゼルフィアもカシムも静かに寝息を立てていた。
翌日は移動が長くなることを見越して、朝市で買った薄パンに肉を乗せたサンドイッチを頬張りながらルオンの城壁を抜けた。ルオンから北西に向かう道中は畑が広がり、小さな村が点在していたが、夕刻を過ぎるくらいになると人里も少なく、平原が続く。僕は揺れる馬車の中で、昨日の異世界の光景をなんとかスケッチしていた。
ヴィオラは暇そうに僕のスケッチを眺めては、日記のようなものを書いていた。
陽が完全に傾くと緩やかな丘の上に到着した。周囲には苔むした石の柱が立ち並び、遠い昔に何らかの儀式が行われていたことを示唆している。
「到着いたしました。」
カシムが馬を止めると素早くヴィオラが降りて、周りを見張る。
「今夜の野営地、暁の丘です。」
ヴィオラが手早く魔除けの結界を張りながら言った。
「暁の丘、ですか。いい名前ですね。」
僕はカシムと共に野営の準備を手伝いながら尋ねた。
「ええ。古い言い伝えによれば、遥か昔、世界がまだ闇に閉ざされていた頃、この丘に暁に輝く星が落ちてきたそうです。その星がもたらした生命の輝きから、このヴァルナディア皇国は生まれ、発展していったと。」
ヴィオラは焚き火の準備を終え、静かに語った。
「ミズキ様が編纂する『新しい物語』の種となるような、古い神話ですね。」
そう言ってカシムが鍋を火にかけた。
「その通りです。そして、巫女の古い詩の中に、この場所の由来を指し示す、特別な一節があります。」
ヴィオラは夜空を見上げ、詠うように静かに口を開いた。
「暁の星の古歌と伝わる詩です。」
暁を穿ち、天より落ちた
清き銀の、星の炉。
その熱き輝き、永遠の生命を紡ぐも
鎖に繋がれし、地の番人に
主権なく、ただ炎を使役せし。
されど、番人、密かなる契約を結び、
朽ちたる瓦礫より、冠を拾いし。
暁の丘は、鎖を喰らい、自由を産みし場所なり。
その詩を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「……この詩は一体何の話なんだ?皇国の始まりを表しているものなんだろうか?」
「……はい。古い言い伝えでは天より落ちた星の光が、この世界に命を与えたとされています。」
「じゃあ、『鎖に繋がれし、地の番人』とは……」
ヴィオラは首を横に振った。
「そこまでは、詩女の長にも聞かされていません。ただ、その番人が、後に帝国の祖となる『光の主』であると。」
これは古歌というオブラートに包みながら、この国の成り立ちを表しているのだろう。ただ、これだけ聞くと、皇帝の先祖は奴隷の身分だったと解釈できてしまう。それに、神話から歴史を紡ぎ出すのは御法度だったっけ。歴史から神話を解釈しないと、新しい神話を作り出すだけになってしまう。僕は大学の講義を思い出していた。
「暁の丘……暁って、夜が明ける少し前のことですよね。」
「ええ、そうです。今の季節だと、三刻ほどで暁だと思います。」
僕は空を見上げた。
「せっかくだから、暁の時間に空を眺めてみませんか?」
今日の報告は早々に済ませ、暁までの時間僕らは仮眠をすることにした。カシムに暁までの火の番をしてもらい、交代で僕とヴィオラが起きた。初夏とはいえ、この時間帯は風が澄んでいて涼しい。空はそこまで明瞭ではないが、元いた世界より星がはっきりしているように見えた。僕は、天体に詳しくない。星座だってオリオン座くらいしか知らない。だから、元いた世界とこの世界が同じ銀河を見ているかどうかを判断することができなかった。
「ヴィオラ、君は空の星に詳しいかい?僕のいた世界の空では季節ごとに星が変わるんだ。」
「私は特別知識を持っているわけじゃありません。ですが、旅の導として星ぼしを読むすべは存じております。例えば、あの星を見てください。あの、南の大きな赤い星は夏の到来を示す星として親しまれております。それから・・・」
彼女はくるりと振り返り空の一点を指差す。
「あれは、心星です。旅人をいつも照らす心の拠り所にすべき星です。」
僕も彼女の指さす方向を見つめる。もしかしたらあれは北極星のことを指しているのではないのだろうか?北極星についてはさすがに中学校の時に習ったはずだ。確か・・・柄杓の形を探して・・・
「あの青く輝く星です。」
彼女の指した星は僕の知っている北極星ではなかった。それよりもずっと青白く光輝く、大きな星だった。
「あの星は詩女を照らす星、鸛舞う星とも呼ばれ、私たちが各地に魔素を運ぶときに道を間違えないように北を照らしてくれる星なのです。」
やはり、この世界は僕のいた世界と違うのかもしれない。奇妙な類似点を発見したかと思うと、急にそれが怪しくなる。僕の帰還の手がかりはまた経ち消えてしまったようだ。
「心星もあれば、迷い星もあります。この時間なら見えるかもしれません。」
またヴィオラがくるりと振り返るとじっと一点を見つめる。
「ほら、あの星!あれは迷い星です」
頬を近づけて、空の高い位置を指を刺して僕の視線を確認する。
「あの星は、他の星と違う動きをします。だから、あの星は方角を迷わせる。じっと見つめていてください。」
そんな、ばかなと言いかけたが、彼女の真剣な眼差しは欺けない。とりあず指差す方向をじっと見つめる。数十秒、いや、数分は経っていただろう。ジッっと見つめる方向に、一つ早く動く小さな星を認識した。どんどんと右手の星に近づいて見える。そんなことがあるだろうか?
「暁は迷い星たちが騒ぎ出す時間と呼ばれます。」
夜が更け、焚き火が静かに爆ぜる音だけが、丘の上に響いていた。僕は何か思考の海に沈んでいるのを感じながら、ヴィオラの隣にそっと座った。空は濃紺に染まり、星々がその純粋な光を惜しみなく降り注いでいる。
「ミズキ。何を、そんなに深く考えているの?」
ヴィオラは、心配そうに僕の顔を見つめる。
「この国の歴史、そして、カルヴァド陛下のことだよ。」
ミズキがそう口にしたとき、ヴィオラの心臓は一瞬、きゅっと締め付けられた。
「陛下のこと……」
「うん。議会での陛下の顔を見たか?まるで、自分の命を削って、現実とシィヴァ教の専横という二つの重みを支えているようだった。僕の旅が成功しなければ、陛下の精神が先に壊れてしまいそうだ。」
ヴィオラの瞳は、瞬く間に潤んだ。僕の言葉は、彼女が十年間抱え続けてきた不安を、正確に言い当てたようだ。
「そう……ミズキの言う通りだわ。陛下は、昔はもっと明るく、笑顔の素敵な方でした。でも、お兄様、第一王子が亡くなってから、陛下は、笑わなくなってしまった。特にこの一年、陛下は、宮廷の重圧をすべて一人で受け止め、どんどん痩せていかれました。」
彼女は声を震わせながら、両手を胸元で固く握りしめた。
「陛下が、私にこの旅は、私の命綱だと、おっしゃったときの瞳の色を、私は忘れられません。それは、国の未来への希望ではなく、まるで、最後の願いを託すような、絶望の色でした。」
ヴィオラは、僕に寄りかかるように少し体を近づけた。彼女の心配や、宮廷で積み重ねた孤独が滲んでいた。
「私は、陛下のお側で、ずっと見てきた。陛下は、誰にも言えない苦しみを抱えながら、国のために、私のような身分の低い詩女にまで、優しさを与えてくださった。あの純粋な優しさが、あの冷たい王座で、摩耗していくのを見ていられない。」
彼女は夜空を見上げた。
「陛下は、私が初めて憧れた、私だけのお兄様なのです。だから、ミズキ。お願いです。この旅で、陛下が信じられる『新しい光』を見つけてください。私の輝く星を落とさないでください。」
ヴィオラの声は、夜の静寂に吸い込まれそうなくらい小さかったが、その決意は、焚き火の炎よりも強く燃えていた。彼女の願いは、詩女としての使命を超えた、一人の少女の、純粋で切実な祈りだった。
僕は、その小さな体と、強すぎる献身を前に、何も言えなかった。ただ静かに、ヴィオラの肩を抱き寄せ、彼女の願いを受け止めるように、夜空の星々を見つめ返した。この世界と僕のいた世界の繋がり、ただの偶然なのかそれとも意味があることなのか。まだ僕の考えはまとまらない。
夜明けは、まだ遠い。しかし、その光は確かにどこかで生まれつつあると思いたかった。




