編纂の仕事Ⅰ
「陛下とオルノブさんが婚約なんて、誰が想像しただろう....」
早朝。まだ夜明け前の皇都。僕はコートの内ポケットに入っている封筒をギュッと握りしめ、息を切らせて目抜き通りに構えたばかりの『ダフタル・ニューズ』皇都支局のビルへと駆け込んだ。
封筒の中身は、昨夜一睡もせずに推敲を重ねた「皇帝陛下の婚約」を伝える記事の原稿だ。
あまりに重大なニュース。情報漏洩を防ぐため、僕自身の手で書き上げ、誰にも見せずに持ってきた。これから印刷工を叩き起こして、極秘で植字作業に入ってもらうつもりだった。
「おはよう! ……って、あれ?」
勢いよくドアを開けた僕は、そこで足を止めた。雑然とした編集フロアには、まだ誰も出勤していないはずだった。だが、オフィスの奥、編集長のデスクに、人影があった。卓上ランプの薄暗い明かりの中、黙々と書類を整理している小柄な女性。地味な色の服に、事務用の腕カバーをつけ、手際よくインク壺を並べ替えている姿。
どこにでもいる、真面目な事務員に見える。
「……ティクス、さん?」
先日、カイトに紹介された「影の月」のティクスだった。彼女は僕の声に顔を上げることもなく、手元の帳簿にペンを走らせながら、ペコリと事務的なお辞儀をした。
「おはようございます、編集長。……お早いのですね。」
「なんで……あなたがここにいるんだ!」
僕は彼女のデスクに詰め寄った。
「ここは新聞社のオフィスだぞ。部外者が勝手に入っていい場所じゃ……。」
「部外者ではありません。」
ティクスは淡々と答え、一枚の紙を差し出す。それはティクスを夜間から早朝の事務員として雇う旨の契約書の写しと僕のサインが入っていた。日付は一ヶ月以上前、この皇都支部を決めたその日だ。
「この支部立ち上げの際に、深夜でも稼働できる体制を作るために貴方によって採用されました。……帳簿の整理も終わらせておきましたよ。」
彼女は積み上げられた帳簿の山をポンと叩いた。背筋が寒くなった。僕は彼女が潜り込んだことに全く気が付かなかったのだ。
もはや、僕は自分の会社の社員をきちんと把握していない。自分を都合がいい立ち位置にするために、出資者のカームさんや編集長のバーツ、他の社員に経営を任せて責任から逃げた結果だ。
しかし、「影の月」が何を企み、こんな事をするのか?僕の新聞をすでに監視していたのだろう。
「……冗談じゃない。ここは僕の会社だ。勝手な真似は困る。」
僕が抗議しようとした時、ティクスがデスクの脇から一枚の紙をスッと差し出した。それは、インクの匂いも新しい、刷り上がったばかりの新聞の試し刷りだった。
「こちら、本日の号外の初校です。……イラスト部分はまだ空白ですが、テキストの植字は完了しております。」
「は……?」
僕はその紙面を見て、凍りついた。そこに整然と並んでいる活字の列。
『氷解! 皇帝陛下、電撃婚約!』から始まるその文章は、一字一句、僕が今、懐に入れている「手書き原稿」と同じものだった。
「な、なんで……!?」
僕は震える手でポケットの封筒を確認した。封は開けられていない。原稿はここにある。
「僕はこの原稿を、昨日の夜、カルヴァド宮の間借りしている部屋で書き上げたばかりだ……。誰にも見せていないし、まだ渡してもいない。どうして、もう活字になっているんだ!?」
「ミズキ様。」
ティクスは、困ったように眉を下げた。まるで、物分かりの悪い上司を相手にしているかのような、ごく自然な態度で。
「我々には、貴方に見えていない手がたくさんあるのです。」
「手……?」
「貴方が原稿を書いているその部屋の天井裏に、あるいは窓の外に……。そして、貴方が寝静まった後に原稿を書き写す者、それを速記で印刷所へ伝える者、活字を組む植字工……。我々の組織には、闇に紛れて働く名もなき影が無数におりますから。」
彼女は事も無げに言った。その言葉に、僕は戦慄した。
彼女一人ではない。僕の私生活、僕の思考、そしてこのオフィスの運営に至るまで、姿の見えない何十、何百という「影」たちが、すでに蠢いているのだ。
ティクスはゲラを指先でなぞりながら、独り言のように呟いた。
「それにしても、素晴らしい記事です。……オルノブ嬢と陛下の婚約。これでマルティアの富は皇国へ還流し、軍備も整う。我々が敷いたレールの上を、陛下が正しく歩んでくださって何よりです。」
「……レール?」
僕は聞き捨てならない言葉に反応した。
「どういう意味だ。二人が結ばれたのは、二人の意思だ。お前たちが関わっていると言うのか?」
ティクスはインク壺の蓋を閉めながら、首を傾げた。
「ええ。出会いの場、共有すべき危機、互いの利害の一致……それらのお膳立てをしたのは我々です。陛下がその道を選ぶよう、障害を取り除き、背中を押しました。」
「ふざけるな……! 陛下は自分の意志でオルノブさんを選んだんだ! 操り人形みたいに言うな!」
僕が声を荒げても、ティクスは動じなかった。彼女は静かな瞳で僕を見つめ、淡々と言った。
「意志、ですか。……ミズキ様、貴方は証明できますか?」
「なに?」
「陛下が自分で選んだと仰ったとして、それが本当に陛下自身の内側から湧き出たものなのか。それとも、我々が整えた環境と情報によって、そう思うように誘導された結果なのか。」
「それは……」
「川の水は、自らの意志で海へ流れるのでしょうか? それとも、地面の傾斜がそうさせているだけなのでしょうか?」
ティクスの声には、抑揚がなかった。嘲笑っているわけでもない。ただの事実確認のように、言葉を重ねる。
「本人が自分の意志だと感じていたとしても、外から見れば、作られた水路を流れているだけに過ぎない。……そして、その違いを証明できる人間など、この世には一人もいません。」
「陛下には心がある! 君たちのような機関の一部じゃない!」
「誰もが機関の一部ですよ、編集長。」
彼女は手元の書類をトントンと揃えた。
「陛下も、貴方も、私も。……与えられた環境という盤面の上で、思考という計算を行い、最適解を出力しているに過ぎない。それを『自由意志』と呼んで錯覚しているだけです。……だから、我々が少し盤面を傾けて差し上げた。それだけのことです。」
彼女の論理に、僕は言葉を失った。
ティクスはふと、手元のゲラにあるオルノブの似顔絵を入れる予定の空白を見つめ、哀れむように目を細めた。
「……可哀想な方ですね、オルノブ様は。」
「……可哀想?」
「ええ。我々が設計したシステムの潤滑油を愛と信じていらっしゃる。」
ティクスの声に、悪意はない。純粋な憐憫だった。それが余計に悍ましい。
「彼女は優秀な部品です。財力があり、胆力があり、そして何より自分は愛で動いているという強固な錯覚を持っている。……錯覚している人間ほど、壊れるまで忠実に機能してくれますから。」
「貴様ッ……!」
オルノブさんの献身を、部品呼ばわりするなんて。僕は激昂して彼女の襟首を掴もうと手を伸ばした。
その時だった。
ガヤガヤと賑やかな声と共に、オフィスのドアが開いた。
「う〜、眠ぃ……。なんでこんな朝早くから呼び出されなきゃなんねえんだよ」
「仕方ないでしょうダラン。今日は世紀の号外が出るんですよ!」
出社してきたのは、ダランをはじめとする『ダフタル・ニューズ』の職員たちだった。
彼らは僕の姿を見つけると、「あ、編集長! お早うございます!」と元気よく挨拶をしてくる。
僕は慌ててティクスを振り返った。
部外者が勝手にデスクを漁っている現場だ。しかも、僕のプライバシーを侵害し、陛下の恋さえも冒涜した連中の仲間だ。ダランたちが怪しんで騒ぎになれば、追い出せるかもしれない。
「ダラン! 違うんだ、この女は勝手に……」
僕が言いかけた、その瞬間。
「皆様、おはようございます。熱いコーヒー、淹れてありますよ。」
ティクスが、何食わぬ顔でポットを持って記者たちに歩み寄った。不気味な気配は消え失せ、そこには気の利く地味な事務員の姿しかなかった。
「おっ、サンキュな、ティクスちゃん! いやー、気が利くなあ!」
ダランが屈託のない笑顔でマグカップを受け取った。
「さあ、皆さん。号外の発送準備を始めましょう。……原稿の植字は、もう終わらせておきましたから」
ティクスがパン、と手を叩いて場を仕切り始めた。
記者たちは「おお! さすがティクスちゃん、仕事が早い!」と歓声を上げ、それぞれの持ち場へと散っていく。
「……え?」
僕は絶句した。
誰も疑っていない。
誰もティクスに違和感を抱いていない。
ティクスが、ふと僕の方を見た。
活気あふれる記者たちの背中越しに、彼女はまた、あの事務的な無表情に戻っていた。
『これが組織です。貴方も、この流れには逆らえませんよ』
そう言われた気がした。
僕は懐の封筒を、ギュッと握りしめた。中に入っている「オリジナルの原稿」。それは、僕の意志の象徴だったはずだ。
自分の城だと思っていた場所が、いつの間にか得体の知れない何かに侵食されている。
味方だと思っていた社員たちの笑顔さえ、今は薄ら寒く見えた。
「……やるしかない、か」
その恐怖を飲み込み、僕はティクスが差し出した影たちが作った号外を掴み取った。
足元に広がる深い闇から、目を逸らすように。
「結びに、余から一事、良き報せを告げよう。」
翌日の帝国議会、重苦しい戦時予算や法案の審議の後、議会が閉廷する瞬間にカルヴァド陛下の発した言葉は忘れがたいものとなった。議員たちのざわめきが引く中、皇帝の声が朗々と響き渡る。その表情は、これまでの氷のような冷徹さとは違い、どこか憑き物が落ちたような、晴れやかなものだった
「余、カルヴァド・ゼイダン・ヴァルナディードは、ヤートリ商会の長、オルノブ・ヤートリを皇妃と定め、共にこの国を歩んでゆくことを、ここに宣言する。」
一瞬の静寂。そして、爆発的な歓声と拍手が議場を包み込んだ。
それは単なる慶事への祝福だけではない。マルティアとの同盟、経済の安定、そして何より「皇帝陛下に人間らしい春が訪れた」という安堵が、議員たちを熱狂させていた。
それと同時に僕は皇都の支社に魔素通信機で連絡を入れる。僕の書いたはずの、影によって作られた号外を町中に撒く指示。気持ち悪さが拭えなかった。
「号外! 号外だーッ!!」
議会が終わるや否や、皇都の印刷所、輪転機をフル稼働させ、刷り上がったばかりのインクの匂いが漂う紙面が、街中にばら撒かれた。ダフタルスクと北部へも早馬を飛ばす。通信がない時代はこんなにもディレイが発生するもんなんだなと冷めた気持ちでいた。
『氷解! 皇帝陛下、電撃婚約!』
『お相手は経済の女傑、オルノブ会長!』
『世紀の合併! 皇国経済に春の風!』
「おい見たか! あの陛下が結婚だってよ!」
「相手はあのヤートリ商会の? こりゃあ景気が良くなるぞ!」
「お祝いだ! 今日は店を早じまいして飲むぞ!」
皇都は一瞬にして祝賀ムード一色に染まった。
戦争やデセリオンの影に怯えていた人々の顔に、久しぶりに心からの笑顔が戻っていた。
号外の発行指揮を終えた僕は、それでも街の喜ぶ様子を見て心地よい疲労感を覚えた。僕の書いた記事は間違っていない。こんなに喜んでくれる人がいる。少しずつ広がる高揚感と共に宮殿の中庭へと足を運んだ。
どこからか楽団の演奏練習の音が聞こえ、空気は華やいでいる。
僕の足取りも自然と軽くなっていた。
不器用な二人が結ばれ、国も明るくなり、僕の新聞も飛ぶように売れている。何もかもが順調だ。
「(ゼルフィアさんたちの言う通り、これが最良の結末だったんだ)」
僕はそう自分に言い聞かせ、噴水のある広場へと角を曲がった。
「―――あ。」
僕の足が、ピタリと止まった。
誰もいないはずの噴水の縁に、ぽつんと一人の少女が座っていた。 純白の儀礼服。長い栗毛。
ヴィオラだった。
「ヴィオラ……?」
彼女は僕に気づいていない。
ただ、うつむいて、膝の上に広げた「紙」をじっと見つめていた。それは、僕が発行したばかりのダフタル・ニューズの号外だった。
一面には、デカデカと『皇帝陛下、婚約』の文字。そして、議会のバルコニーで並んで手を振るカルヴァドとオルノブの似顔絵。僕がさっき描いた幸せそうなイラストだ。
「…………」
彼女の小さな手が、その紙面をギュッ、と握りしめていた。クシャクシャになった紙の中で、幸せそうな皇帝の笑顔が歪む。昨夜、あんなに無邪気に「ミズキさんの描く陛下が見たい」と言っていた彼女。
その願いは叶った。
けれど、それは彼女にとって最も残酷な形――失恋の確定通知として、僕自身の手によって届けられてしまったのだ。
祝祭の音楽が遠くで鳴り響く中、彼女の周りだけ、音が消えたかのように静まり返っていた。その小さな背中は、あまりにも痛々しく、僕はかける言葉を失って立ち尽くすしかなかった。
***
祝賀ムードに沸く皇都の夜。
だが、その喧騒から切り離された宮殿の奥深くで、張り詰めた空気が漂っていた。
「―――来なさい、ミズキ。貴方も証人よ」
僕はゼルフィアに手首を強く引かれ、回廊を早足で進んでいた。普段は穏やかな彼女の金髪が、怒気で逆立っているようにすら見える。彼女の瞳は氷のように冷たく、それでいて燃えるような怒りを湛えていた。
「ちょ、ちょっとゼルフィアさん! 落ち着いて!」
「落ち着いてなどいられません。……あの子が、ヴィルがあんなに泣いているのに、のうのうと祝杯を上げているあの男を、私は許さない。」
衛兵が止めるのを詩女姫という権限を使い、彼女は躊躇なく執務室の扉を、叩き開けた。
「失礼します、陛下!」
執務室には、一日の喧騒を終え、一人静かに書類を整理していたカルヴァドがいた。不敬極まりない乱入者に、彼は眉一つ動かさず、ゆっくりと顔を上げた。
「……騒々しいな、詩女姫。何のようだ。」
「よくも……よくもあの子を!」
ゼルフィアは机に詰め寄り、カルヴァドを睨みつけた。
「ヴィルがどれだけ貴方を慕っていたか、貴方は知っていたはずです! あの純粋な想いを踏みにじり、見せつけるように婚約発表だなんて……人の心がないのですか!?せめて、本人に何か貴方の気持ちを伝えてあげてください。」
彼女の糾弾は正論だった。感情論ではあるが、ヴィオラを傷つけたことは事実だ。だが、カルヴァドは冷ややかな声で返した。
「私は皇帝だ。個人の恋慕で国政を左右することはない」
「そんな建前を聞きに来たのではありません!」
「では何だ? 私にヴィオラを愛せと? ……馬鹿馬鹿しい。」
カルヴァドはゼルフィアをあしらうように言い放つ。
「詩女という地位に甘んじて、いつまでも子どもじみた空想に浸ってもいられないだろう……今回の選択は、彼女にとっても救いだ。」
「詭弁です! 貴方は自分が傷つくのが怖いだけでしょう!?」
ゼルフィアの言葉が熱を帯びる。
「貴方の心が見えない……。貴方はいつも、分厚い氷で心を閉ざして、誰も寄せ付けようとしない。ヴィルの悲しみも、罪悪感すらも、感じていないというのですか!?」
彼女は詩女としての能力――読心の力を解放しようとした。それに気がついたカルヴァドは、ふっ、と自嘲気味に笑った。
「……見たいか? 私の心が。」
「え……?」
「いいだろう。そんなに知りたいのなら……覗いてみるがいい。」
カルヴァドはスッと目を細める。彼はゼルフィアに何を見せるつもりなんだ。
「……っ、見せてみなさいよ、貴方の罪の色を……!」
彼女の瞳が青白く発光する。
だが、次の瞬間。
「――――――ッ!?」
ゼルフィアの表情が、驚愕から恐怖へと一変した。
彼女はビクッと身体を震わせ、まるで灼熱の鉄に触れたかのように、弾かれた勢いで後ずさった。
「……」
「ゼルフィア!?」
僕が支えようとすると、彼女の身体は小刻みに震えていた。顔面は蒼白で、脂汗が滲んでいる。カルヴァドを凝視するその目には、底知れぬ恐怖が宿っていた。
「……満足か?」
カルヴァドは静かに書類に視線を落とした。
「下がれ。……私は忙しい。」
***
執務室を追い出された僕たちは、静まり返った廊下を歩いていた。ゼルフィアの震えはまだ止まらない。僕は心配になって声をかけた。
「ゼルフィア……大丈夫ですか? いったい、何が見えたんですか?」
「…………」
「罪悪感ですか? それとも、オルノブさんへの愛? それとも……」
「……ないの」
ゼルフィアが掠れた声で呟いた。
「え?」
「何も、ないのよ……」
彼女は恐怖に凍りついた瞳で僕を見た。
「空っぽだったわ。……悲しみも、喜びも、罪悪感さえも。そこにあったのは、感情の色なんて一つもない、ただ広大で、冷たくて、真っ暗な……虚無だけだった。」
「虚無……?」
「ええ。まるで、空洞のようだった……。あの男の心があるべき場所には、全てを飲み込む虚ろな穴が開いているだけなのよ……」
ゼルフィアは自身の身体を抱きしめた。
「あんな……あんな空洞を抱えて生きているなんて……。あれは人間じゃない。人の形をした、悲しい怪物だわ……」
彼女の言葉に、僕は背筋が寒くなった。
祝賀ムードに沸く宮殿の中心にいる、幸せを掴んだはずの皇帝。だが、その内側には、かつての実験と絶望によって削り取られた、埋めようのない巨大な穴が空いていたのだろう。
ゼルフィアの恐怖に染まった横顔を見ながら、僕はカルヴァドという男、いや、この国が抱える闇の深さを、改めて思い知らされていた。
オルノブさんはそれを知っているのだろうか?
***
ゼルフィアと別れた後、僕は衝動的に走っていた。向かう先は、宮殿の客間。オルノブさんの部屋だ。
これ以上、黙っていられない。ティクスの「彼女は哀れな部品だ」という言葉と、ゼルフィアの「彼の心は空っぽだ」という言葉が、頭の中で警鐘を鳴らしている。彼女が何も知らずに、影たちの思惑通りに虚無へと嫁ごうとしているなら、それを止める、あるいは真実を伝えるのが友人の義務だ。
「―――ミズキ様? こんな夜更けにどうされました?」
ノックに応じたオルノブは、すでに寝巻き姿で、少し驚いたように僕を招き入れた。部屋には、一度実家のマルティアへ戻るための荷造りされた鞄が置かれている。
「オルノブさん。……落ち着いて聞いてください」
僕は息を整え、意を決して全てを話した。ティクスという影の女が語ったこと。この婚約が影の月によって仕組まれたレールの上にあること。そして先ほど、ゼルフィアがカルヴァドの心を覗き、巨大な「虚無」しかなかったこと。
「……陛下は、貴女を愛していないのかもしれない。愛するという機能そのものが、壊されているのかもしれないんです。」
僕は彼女の目を見て、絞り出すように言った。
「貴女の献身は……影たちが機関を回すための潤滑油として利用されているだけかもしれない。……それでも、貴女はあの人の隣に行きますか?」
重苦しい沈黙が落ちた。オルノブは扇子を閉じたまま、ジッと僕の話を聞いていた。その瞳が揺れる。驚きと、困惑。僕も彼女に打ち明ける言葉を選ぶ。やがて、彼女はふぅ、と小さく息を吐き、窓の外の月を見上げた。
「……そうですか。あの方と私の出会いも、再会も、すべて誰かのお膳立てでしたのね。」
「そうです。貴女は利用されているんだ!」
「ええ。……ですが」
オルノブは振り返った。その顔には、悲嘆の色など微塵もなかった。あるのは、揺るぎない自信と、凛とした美しさだけ。
「それが、どうしましたの?」
「え……?」
「たとえ出会いが仕組まれたものであっても、あの方の不器用な優しさに触れて胸が震えたのは、紛れもなく私自身です。あの方の孤独を癒やしたいと願い、共に歩みたいと決めたのも、私の意志です。」
彼女は自身の胸に手を当て、力強く言い切った。
「きっかけが何であれ、私が抱いた愛も、これから捧げる献身も、何ひとつ嘘ではありません。……影たちがどう画策しようと、私の想いは一欠片たりとも毀損されませんわ。」
「でも……陛下の心は空っぽなんですよ? 報われないかもしれない。」
「それは、どの方を愛そうと同じです。報われるかどうかなんてわからない。中身がないなら、これから私が好きなもので埋め尽くせばいいだけのことです。」
オルノブは悪戯っぽく微笑んだ。
「ミズキ様。商人はリスクを承知で投資をするものです。……あの方は、私が人生を懸けるに値する。外野がどう言おうと、私は私の意志で、あの方を幸せにして差し上げます。」
その言葉には、一片の迷いもなかった。ティクスの冷徹な論理も、ゼルフィアの悲観的な予言も、この女性の強靭な愛の前では無力だった。
「……はは、完敗です。」
僕は脱力して、ソファに座り込んだ。心配して損をした。この人は、僕たちが思うよりずっと強く、そして誇り高い女性だった。
「でも、僕はどうすればいいんだろう……」
僕は頭を抱えた。
「僕の新聞社は、もう『影』に乗っ取られかけています。ティクスという女が入り込み、社員たちも懐柔され、僕の原稿すら検閲されているような状態だ。……これじゃあ、真実なんて書けやしない。」
弱音を吐く僕に、オルノブは優雅にお茶を淹れながら言った。
「あら、乗っ取られたなら、また新しく作ればよろしいのではなくて?」
「新しく? 無理ですよ。また人を雇っても、どうせ影が潜り込んでくる。組織が大きくなれば、必ず死角ができる……ティクスの言う通りだ。」
「ええ。組織である限り仕方ありません。今の『ダフタル・ニューズ』は、表向きの看板として影たちにくれてやりなさい。彼らが好むような、耳障りの良いプロパガンダを垂れ流すスピーカーとしてね。」
そして、彼女は僕の胸元を扇子で突いた。
「ですが、それは影の尻尾を掴んでいる状態でもあります。」
「どういう意味ですか?」
「表では影に従順なフリをして、裏では彼らの悪事を暴く情報を集めなさい。誰かの意図した扇動と聞いて警戒しない人はいないでしょう?あなたが必要な時にそれを大々的に公表するのです。」
目から鱗だった。
僕は「自分の城を守ること」に固執していた。だから、侵入者に怯えていたのだ。だが、守る必要なんてない。大切なのは「箱」ではなく浸透させるための「媒体」だ。僕は宣伝屋として初歩的なことを忘れていた。
「はは、悔しいな。オルノブさんの強さには敵わないです。」
僕の口から本音が溢れる。この世界に来てから、大人になりきれない自分を何度も指摘されている様な気がする。僕は何者にもなれなかった過去の自分を引きずってばかりだ。恋人に捨てられて未練を残し、漫画を描くのもやめても夢を引きずって、激務に身を置いて時間を消費する。
都合の良い言い訳を見つけて弱気になる。今までの僕とまるで成長していない。
「ミズキ様。あなたの話を聞いて、愛とは何かを少し考えていました。」
「愛ですか?」
オルノブの瞳が少し遠くを見つめるように僕から外れた。
「愛というものは、金貨や商品とは違いますのよ。」
「え?」
「愛には質量もなければ、定まった性質もありません。手に取って重さを測ることも、成分を分析することもできない。……ただ、時間を流すことでしか、認識することすら難しいものです。」
彼女の視線が自身の手に移る。
「毎日お茶を淹れる。隣で書類をめくる。くだらない喧嘩をする。……そうやって積み重ねた時間の堆積を、あとから振り返った時に初めて、ああ、これが愛だったのかと気づく。そういうものでしょう?」
「時間の……堆積……」
「ええ。だから、陛下の心が空っぽだろうと、穴が開いていようと関係ありません。私がそこに時間を流し込み、埋めていけばいいだけのこと。」
オルノブは僕に向き直り、真剣な眼差しを向けた。
「例え、いつか二人を別つ何かがあっても、あるいは陛下が最後まで私の愛を理解できなくても、構いません。……愛に偽物も本物もないのですから。ただ、想ったという事実が残るだけ。」
そして、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「貴方も……誰かを本気で愛したことがあるなら、何かに真剣に打ち込んだ事があるなら、きっとわかるはずですわ。」
「――――ッ」
その言葉が、僕の胸の奥にある、開けてはいけない扉を叩いた。
真剣に打ち込んだことが、あるなら……
脳裏に浮かんだのは、この世界に来る前。ダンボールに積まれて処分できないままの漫画の原稿の事だった。吹っ切れることもできず、そのまま放置しているなら、いっそ忘れてしまいたかった。この世界に来た時に、それを見なくて済むから本当に忘れてしまえると思った。
でも、違った。
僕はまだ、未練たらしく漫画を描く夢を引きずっていたのだ。
それでいて、寝る間も惜しんで仕事に打ち込む。忘れようと足掻く僕自身を。
「偽物も本物もない」というオルノブの言葉が、僕の過去を、何者にもなれず、焦りが募る僕自身を痛いほど鮮明に肯定してしまった。
「……う、ぐッ……。」
「あら? ミズキ様?」
視界が滲む。
涙が、溢れて止まらなかった。
「ご、ごめんなさい……なんか、目が……」
僕はボロボロと泣いた。オルノブへの心配なんて建前だった。僕はただ、自分の過去の自分に決着をつけるのが怖くて、人の心配をしていただけだったんだ。カルヴァドの虚無と比較はできないけれど、元の生活の僕も、休日何もすることが出来ない虚無だった。それを悟られまいと、他者とのコミュニケーションを絶って、誤魔化していたじゃないか。
「さあ、お立ちなさいミズキ様。……私の結婚式ですもの、世界中が嫉妬するような神話にしてくださらなきゃ、承知しませんわよ?」
「はい、オルノブ皇后陛下。」
僕は深くお辞儀をした。胸のつかえが取れていた。影がどれだけ暗躍しようと、皇帝カルヴァドが信用できなくても、今やるべきことは別にある。僕はこのヴァルナディアの国家統一のための神話を書き上げて、皇国民に皇国民という意識を共有させなければならない。
ヴァルナディアの東西南北どこで何が起きても、同胞のことと思えるような神話を作り上げなければならない。
それが僕の命令された、神話編纂官の仕事だ。




