吉報の兆し
皇都に戻った僕は、街の空気が以前とは少し変わっていることに気づいた。大通りの新聞売りの少年に、市民たちが詰め寄っているのだ。
「おい、ダフタル・ニューズの最新号は未だなのか?」
「北部の鉱毒がどうなったか知りたいんだ!」
「この国が危ない状況なのは本当かい?」
僕の新聞が、ここ皇都でも熱狂的に求められていた。それは書き手として誇らしい光景であると同時に、少し背筋が寒くなるような「熱」でもあった。
「―――需要過多ですね、ミズキ殿。」
路地裏に引き込まれるように声をかけられた。振り返ると、そこには見慣れた顔のカイトと、もう一人、小柄なフード姿の人物が立っていた。
フードから覗くのは、無機質だが整った顔立ちの女性。
「初めまして。ティクスです。」
「ティクスさん……?」
なぜ影の月のカイトが、物静かな女性を僕に引き合わせたのか、その時は未だ理解ができなかった。
「単刀直入に言います。皇都に新しい『ダフタル・ニューズ』を作りませんか?」
カイトが切り出した。
「印刷所と流通網は我々『影の月』が提供します。貴方は新聞の型を作るだけでいい」
「……それは、新しく『影』の広報誌でも作る気なのかい?」
僕が眉をひそめると、ティクスが淡々と答えた。
「効率的な政治宣伝機関として運用したいのです。民衆は今、貴方の言葉を信じている。その信頼を利用して、デセリオンへの警戒心を植え付け、国論を統一する必要があります。」
「利用する、か……。僕は、真実を伝えたいだけだ。誰かの都合のいいように扇動するのは……。」
僕が拒絶しようとすると、カイトが冷ややかな笑みを浮かべた。
「おやおや。今さら何を言っているんです?」
「え?」
「貴殿がこの世界に召喚された本来の役割をお忘れですか? カルヴァド陛下の政治的選択を、都合よく神話として編纂し、後世に残すこと。……それが貴殿の仕事だったはずだ。」
カイトの言葉が、鋭い棘となって僕の胸に刺さった。そうだ。僕は元々、歴史の語り部として、皇帝を正当化するために呼ばれた存在だ。
「神話編纂も、新聞による政治扇動も、本質は同じでしょう? ……文字で世界を既定する。貴殿の仕事は初めから、皇国の宣伝ですよ。」
「......クソ!」
悔しいけれど、何も言い返す言葉がない。このヴァルナディアには日本のようなルールや新聞社同士の協定が無い。倫理規定も何も無い中で僕は思うがままに新聞を発行していた。
「貴殿のライズ社は、そのまま貴殿が思うように作りあげればいい。だけど、情報が偏るのも良くないでしょう?」
カイトの言葉は僕が最近『影』たちが持ち込む情報を後回しにしていた事に対する牽制だろう。
「貴殿が協力しなくても、我々はいくつか新聞社を設立します。競争が生まれた方が誘導もしやすくなる。その中でも、マシなものを貴殿の影響下に置いておくのも悪くない、でしょう?」
即座に反論できなかった。
「私はミズキさんのお側で、良いお返事を待っております。」
カイトたちの提案は、僕の存在意義そのものを揺さぶる、痛烈な問いかけだった。
***
「……はぁ」
僕は重い足取りで宮殿へと向かった。
自分一人では答えが出ない。カルヴァドに相談しようと思ったのだ。彼は妹の件で憔悴しているかもしれないが、この国の行く末を決めるのは彼だ。
「失礼します、陛下。ミズキです」
ノックをして執務室に入ると、そこには先客がいた。北部の視察を終え、報告に来ていたオルノブだ。
だが、部屋の空気が……妙だった。
「あ、あの……その、北部の、予算の件ですが……」
「適切だ、進めてくれ。」
いつもの「鉄の女」による、丁々発止のやり取りがない。二人はテーブルを挟んで座っているのだが、互いに視線を合わせようとせず、オルノブ嬢に関して言えば書類の端を見つめたり、無意味にペンを回したりしている。
……なんだ、この空気?
僕が入室しても、二人のギクシャクした雰囲気は変わらない。
「あ、あの! 陛下、顔色が……少し、優れないようですが……その、体調は.......」
オルノブがおずおずと尋ねる。先日、僕たちの前で「好きかも」と自爆して以来、彼女はカルヴァドを意識しすぎて挙動不審になっているようだ。
「問題ない。何かおかしなところがあるか?」
「へっ!? ! すみません!?」
「あ、ああ。君こそ大丈夫か?」
「……何か……本当に今日はすみません。」
ボンッ、と音がしそうなほど真っ赤になるオルノブは、完全におかしな挙動をしている。そもそも、カルヴァド陛下の顔色は、今まで一度でも優れたところを見たことがない。
妹への絶望と自己嫌悪に沈んでいたカルヴァドだ。このところは予算を通すために、慣れない接待やらなんやらで予定が詰まっていたんだろう。目の下のクマはいつも以上に濃くなっていた。
対してオルノブは意識しまくっている。中学生の初恋のようにガチガチだ。
「…………」
僕は入り口で立ち尽くした。
深刻なプロパガンダの相談をしに来たのに、部屋の中はピンク色の不器用なオーラで充満している。
僕は入り口で立ち尽くし、目の前で繰り広げられるあまりに不器用な二人のやり取りに、入るに入れない状態だった。
……どうしよう、これ。
扉を閉めるべきか、咳払いをして存在を知らせるべきか。そう迷っていた時だった。
ポン、ポン。
背後から、誰かに肩を叩かれた。
「―――ッ!?」
「しーっ……! 声を出さないでください、ミズキ様」
振り返ると、そこにはヌール女史とシャオが立っていた。だが、二人の様子がどこかおかしい。
ヌール女史は、いつもの能面のような無表情なのだが、その片手には琥珀色の液体――それも、アルコール度数60度は超えていそうな、極北産の臭いのキツい蒸留酒の瓶が握られている。
そしてシャオに至っては、両手に発泡エールの小瓶を持ち、口にはなぜか乾燥イカの足を一本、タバコのように咥えていた。
「こっちですわ。……特等席へご案内します」
シャオがイカを咥えたまま器用にウインクし、手招きする。二人は僕の両脇を抱えると、音もなく移動し、執務室のさらに奥――普段は使用人しか使わない裏口の細い扉の前へと僕を連行した。
「ここなら、死角からバッチリ見えますから。」
「……業務外の監視活動ですので、記録には残せないのが残念ですね。」
ヌール女史はそう言い訳をすると、無表情のまま蒸留酒の瓶を煽った。ゴキュ、ゴキュ、と男らしい喉の音がする。彼女もまた、この不器用な主君の恋路を見守るのに、シラフでは耐えられなかったらしい。
「さあ、クライマックスですわよ!」
プシュッ。シャオが小声でエールの栓を開け、イカを齧りながら扉の隙間に張り付く。完全にスポーツ観戦かドラマ鑑賞のノリだ。
僕も恐る恐る、二人の間から中を覗き込んだ。
視線の先には、最高権力者と大商人がいた。
だが、そこには「氷の皇帝」も「鉄の女」もいなかった。ヘタレ男と挙動不審の不思議女の無意味な会話が繰り広げられる。
「あ、あの……! へ、陛下。その、北部の……気候なのですが。」
「ん? あ、ああ……。寒いと聞くが。」
「そうなのです……! 冬は……北部は大変寒かったです!」
「…………」
「…………」
二人の会話が死んでいる。
カルヴァドは書類仕事が終わったのか、何故オルノブが戻らないか理解できない、いや理解しないよう努めている。
気の毒なオルノブは扇子を開いたり閉じたりしてパタパタと忙しない。
「あの......私の実家に皇国から、陛下の使者がいらっしゃった話は存じていますか?」
「いや......新年の挨拶か?何か不都合や失礼があったなら謝ろう。」
「......いいえ、存じ上げないなら良いのです。」
二人のやりとりを見て、イカの足を噛みちぎったシャオが暴れ出す。
「あの、バカ陛下は何を知らんぷりしてるんだ!私がオルノブ嬢をヴァルナディア皇帝の妃として迎えたいって、回ってたこと忘れてるフリしやがって!」
シャオのこめかみには青筋がくっきり現れていた。まぁ、余計なお世話かも知れないけれど、あの朴念仁にはこれくらい世話焼きがちょうど良いのだろう。
「本当に陛下はバカですわ。私も星巡りの後にヴァルナディア皇室の家宝を持参してご挨拶に伺ったこと、忘れている筈がありません。」
「え!?」
シャオと僕が驚きのあまりヌール女史の方を向く。
「オルノブ様のご両親はご立派な方で、未だ何も決まっていないので受け取れませんと大変恐縮されていました。陛下も私の出すぎた行動を最近嗜めていたと言うのに。」
ヌール女史は表情ひとつ変えず、蒸留酒をグイッと浴びる。シャオも彼女の暴露に鳥肌がたっていた。陛下以上にオルノブさんの両親もさぞ迷惑だっただろう。
ふと、二人の視線が交差する。
「あっ」
「んっ」
バッ!
目が合った瞬間、お互いが気まずそうに目を逸らす。なんだこの古典的な少女漫画のような空間は。
互いに意識しまくり、どちらも一歩を踏み出さない。もどかしいを通り越して、見ているこちらの胸が痒くなってくる。
「ぐぬぬ……じれったいですわねぇ! そこで『髪飾りが綺麗だ』とか言えませんの!?」
シャオがイカをギリギリと噛みちぎりながら悔しがる。
「……陛下にしては、よく耐えている方です。通常なら、半径3メートル以内に女性が近づいた時点で氷結魔法が発動していますから」
ヌール女史が冷静に分析しながら、さらに強い酒を煽る。その頬がほんのり赤いのは、酒のせいか、主君の春への興奮か。
僕たち三人は、息を潜め、酒とツマミと胃痛を抱えながら、このあまりに不器用で愛おしい二人の行く末を見守り続けた。
「―――では、こちらが北部からの追加予算案です。……ご査収ください」
オルノブが少し震える手で、書類の束を差し出す。
カルヴァドもまた、どこかぎこちない動作でそれを受け取ろうと手を伸ばした。
その時だった。
「あ……」
書類を受け渡そうとした瞬間、カルヴァドの左手が、オルノブの指先に触れてしまったのだ。
その刹那、カルヴァドはまるで火に触れたかのように、弾かれたような勢いで左手を引っ込めた。
それは、ただの驚きではない。明らかな「拒絶」の反応だった。
彼は、自らの義手――あの黒い魔素の塊である忌まわしい腕が、彼女の柔らかな肌に触れることを何よりも恐れたのだ。
だが、事情を知らないオルノブには、それが最悪の拒絶に映った。
「…………ッ」
オルノブの目が見開かれ、次いで唇がわなわなと震えだす。
「も、申し訳……ありません……」
「いや、違うんだ、オルノブ」
「私のような……薄汚い商人が、陛下のお手に触れるなど……不快でしたよね。……っ、失礼いたしました!」
オルノブの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は書類を机に置くと、顔を覆って背を向け、逃げるように扉へと走り出した。
「待て! オルノブ!」
カルヴァドが椅子を蹴って立ち上がる。
彼は逃げようとする彼女の手首を、今度は人間の肉体である右手で、強く掴んだ。
「きゃっ……」
「違う! ……私が避けたのは、君のせいではない!」
カルヴァドは彼女を引き寄せ、その潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私の左手は......」
「へ……?」
「私の左手は……呪われている。君のような綺麗な人が触れていいものではない。……だから、怖かったんだ。君に、私の醜さを知られるのが。」
皇帝の口から漏れた、弱々しい本音。オルノブは驚いたように瞬きをし、やがて掴まれた右手の温かさを確かめるように、そっと握り返した。
「……陛下。私は、泥の中で商売をしてきた女です」
彼女は涙を拭い、いつもの強気な、けれど最高に愛らしい微笑みを浮かべた。
「綺麗なものしか愛せないほど、柔な神経はしておりませんわ。……貴方が何に怯えているのか知りませんが、私にとっては、ただの不器用で愛しい手です。」
「オルノブ……」
カルヴァドの瞳から、迷いが消える。
二人の距離が、自然と縮まった。
互いの吐息がかかるほどの至近距離。カルヴァドの手が、オルノブの頬に添えられる。
オルノブがゆっくりと瞳を閉じ、期待するように顎を上げ――。
***
「……おい、どうするこれ」
「黙って見てなさいよ。ここ一番の決算期よ!」
「効率的ですね。このまま既成事実化すれば、政略的にも盤石です」
執務室の扉の隙間から、三つの頭が縦に並んでその光景を覗き込んでいた。一番上が僕、真ん中がシャオ、一番下がヌール女史だ。
「いけっ……そこだ! 押せ! 押し倒せ!」
シャオが小声でゲスな野次を飛ばす。
「静かにしてくださいシャオさん、バレますって」
僕が冷や汗をかきながら諌める。
「……記録係として、この瞬間は歴史に残すべきでしょうか」
ヌール女史が真顔でメモ帳を取り出そうとする。僕たちの熱い視線と下世話な好奇心が注がれる中、皇帝と女商人の唇が、今まさに重なろうとしていた。
執務室の扉の隙間から、僕たちは息を潜めてその瞬間を見守っていた。カルヴァドが優しくオルノブの頬に手を添え、オルノブが期待に潤んだ瞳を閉じる。
二人の影がゆっくりと近づき、ついに――重なった。
「―――ッッ!!」
その瞬間、僕とヌール、シャオの三人は、音を立てないように全力でガッツポーズをした。シャオが僕の背中をバシバシと叩き、ヌールが無表情のままVサインを掲げる。
やった。ついにやった。あの不器用な皇帝が、春を迎えたのだ!
その歓喜のあまり、三人が前のめりになりすぎたのが運の尽きだった。
「……あ」
誰かの膝が、古びたドアノブに体重をかけすぎてしまったらしい。
ガチョン、という乾いた音が鳴り――。
扉が勢いよく開き、僕たちは折り重なるようにして執務室の中へと転がり込んだ。
「―――なっ!?」
「ひゃああっ!?」
唇が触れ合う寸前だったカルヴァドとオルノブが、弾かれたように飛び退く。オルノブは顔を真っ赤にして扇子で顔を覆い、カルヴァドは驚愕と恥辱で顔を歪めてこちらを睨みつけた。
「き、貴様ら……!! いつの間に……!」
「あ、あはは……いやあ、奇遇ですね陛下……」
最悪の空気だ。気まずいなんてものではない。皇帝のラブシーンを盗み見して乱入するなど、不敬罪で斬首されても文句は言えない。
だが、ここでただ謝って終わるようなメンツではなかった。ヌール女史が、倒れた姿勢からスッと立ち上がり、眼鏡をクイッと押し上げた。その表情は「業務モード」そのものだ。
「……おめでとうございます、陛下。これにてマルティアとの同盟関係は盤石となりました」
彼女は懐から、なぜか既に用意されていた書類を取り出した。
「婚姻の儀に向けたスケジュール案です。ヤートリ商会との結びつきは、サリヴァ復興における物流の独占を意味します。政治的なメリットは計り知れません。即刻、手続きに入りましょう」
「は……?」
カルヴァドが呆気にとられる間もなく、今度はシャオが立ち上がり、扇子をパチンと鳴らした。
「素晴らしい判断ですわ、陛下。これぞ世紀の合併です」
シャオの目は、キラキラと輝くヴァルナディアゴールドになっていた。
「オルノブ会長の個人資産と商会の流動資産が皇室に入れば、戦費で傾いた国庫は一気に黒字化。あの大規模な公害対策費も賄えますし、経済効果は数千億規模……。愛でお金が稼げるなんて、最高の錬金術ですわね!」
「お、お金の話……!?」
オルノブが扇子の隙間から涙目で抗議しようとするが、最後に僕が畳み掛けた。
「プロモーション的にも完璧です!」
僕は立ち上がり、プレゼンを開始した。
「『氷の皇帝と、彼を支えた異国の女商人』……このロマンスは国民にバカ受けします! 戦争やデセリオンの影で不安になっている民衆に、これ以上ない明るい話題を提供できる。支持率は爆上がりし、他国の干渉に対する最強の世論の盾になります!」
「ぬ、ヌール、シャオ……それにミズキまで……!」
カルヴァドは顔を真っ赤にしたまま、わなわなと震えている。だが、その怒りは本気のものではない。むしろ、外堀を完璧に埋められ、逃げ道を塞がれたことへの観念の色が見えた。
「……貴様ら、最初からこのつもりで……」
「さあ、オルノブ様。採寸を始めましょうか。ドレスの発注を急ぎませんと」
「式典のスポンサーも募りませんとね」
「号外の準備をしておきます!」
僕たちは一斉に動き出した。
もはや、二人の「照れ」が入り込む余地はない。こうして、皇国史上最も不器用で、最も計算高い祝福に包まれたカップルが、ここに誕生したのだった。
宮殿でのドタバタ劇――いや、歴史的なカップル誕生の瞬間を見届けた帰り道。
僕は夜風で火照った頭を冷やしながら、宮殿の庭園を歩いていた。
頭上には満天の星空。
ふと、その星を見上げる二つの人影に気づいた。
「……あそこ、星の巡りが少し早いわ、ヴィル」
「本当ね。あれは迷い星? ……ゼルってば、相変わらず星を読むのが早すぎよ」
純白の儀礼服を纏ったゼルフィアとヴィオラだ。
二人は同じ18歳。並んで立つと、まるで光と影の双子のように美しい。親しげな愛称で呼び合っている。
「お二人とも、こんな時間までお務めですか?」
僕が声をかけると、二人は同時に振り返った。
「あ、ミズキ!」
ヴィオラがパァッと花が咲いたような笑顔で駆け寄ってくる。ゼルフィアも穏やかに微笑んで会釈した。
「こんばんは、ミズキ。……今夜は迷い星の観測よ。季節の変わり目は魔素が乱れやすいから。」
「そうだったんですか。……三人で会うのは久しぶりですね。」
「ええ! ずっと忙しかったですから……こうしてまたミズキとお話しできて嬉しいです!」
ヴィオラは無邪気にはしゃぎ、僕の袖をキュッと掴んだ。
「二冊の絵本、本当に素敵でした!月の宮殿では大流行りしております。 次はぜひ、かっこいい皇帝陛下が活躍するお話も描いてほしいです。」
「え……へ、陛下を?」
「ええ! 私、ミズキの描く陛下が見たいです。……陛下、まだお仕事中でしょうか。無理なさっていなければいいのだけれど……。」
ヴィオラは宮殿の執務室がある塔を見上げ、うっとりと頬を染めた。その瞳にあるのは、英雄に対する純粋な憧れと、甘酸っぱい恋心だ。
僕は思わず言葉に詰まった。
……言えない。
たった今、その憧れの陛下が、異国の女商人と熱い抱擁を交わし、結婚が決定的になったなんて。
この無垢な笑顔に向けて、その事実を告げるのはあまりに残酷に思えた。
「―――ヴィル! こっちの座標記録をお願い!」
遠くから、他の詩女の声がした。
「あ、呼ばれてしまいました。……行ってきますね、ゼル。ミズキ、また!」
ヴィオラは名残惜しそうに手を振り、パタパタと走り去っていった。その小さな背中を見送る僕の隣に、ゼルフィアが静かに並んだ。ヴィオラがいなくなった途端、彼女の纏う空気が、ふっと冷たいものに変わった。
「……ミズキ。」
「はい。」
「貴方の心、ひどくざわついている。……陛下のことでしょう?」
ゼルフィアは僕の顔を見ず、夜空を見上げたまま言った。彼女には、隠し事など通用しない。
「……分かりますか。」
「ええ。貴方から伝わってくるのは、祝福と……ヴィルへの罪悪感。……陛下に、想い人ができたのね?」
さすがは詩女姫だ。すべてお見通しだった。僕は観念して、小さく頷いた。
「……お相手は、オルノブ会長です。先ほど、二人の気持ちが通じ合うのを見てしまいました。」
「そう……。あの強い商人の女性なら、不器用な陛下をお支えできるでしょうね。国にとっても、それは最良の選択だわ。」
ゼルフィアの声は、理性的だった。だが、次の瞬間、彼女は執務室のある塔を――カルヴァドのいる場所を、氷のような瞳で睨みつけた。
「……頭では、分かっているわ。皇帝として正しい振る舞いであることも、国益になることも。」
彼女はギュッと自身の胸元を握りしめた。
「でも、心は許せない。……あんなに純粋に彼を慕っているヴィルを裏切り、傷つけることになるあの男を、私はどうしても許せない。」
「ゼルフィアさん……。」
彼女の瞳には、友人を思う以上の、もっと深く、切実な情熱が燃えていた。彼女にとってヴィオラは、ただの同僚ではない。愛おしく、誰よりも守りたい存在なのだ。
「あの子の恋は……始まる前に終わってしまった。」
ゼルフィアは苦しげに吐き捨てた。
「ヴィルが泣くわ。……その涙の原因を作るのが、国のための政略だとしても、私はあの方を呪いたくなる。……私にとっての世界は、国よりも、ヴィル、彼女そのものなのだから。」
18歳の少女としての、剥き出しのエゴと愛情。彼女は、愛するヴィオラを傷つける「世界そのもの」に対して、静かな怒りを燃やしていた。
「……いつか、伝えなきゃいけませんよね。」
「ええ。……でも、今はまだ言わないで。あの子が傷つく姿を、今はまだ見たくないの。」
ゼルフィアは夜風に揺れる銀髪を押さえた。
その横顔は、聡明な詩女姫のものではなく、愛する人を守れない無力さに唇を噛む、一人の恋する少女のものだった。




