傷痕
「……ひどい有様だな」
煌びやかな「星巡りの儀」の熱狂が冷めやらぬ中、皇都の中心にある帝国議会は、新年早々から怒号と野次が飛び交う修羅場と化していた。議事堂の傍聴席で、僕はペンを走らせながら深くため息をついた。隣には暁のメンバーであるイリアスとディランがつまらなそうに議会を見つめていた。
二人を誘ったのは僕だ。法律の専門家と輸送の専門家に、西部の危機と北部の復興に対してコメントをもらうつもりだったからだ。ダフタル・ニューズでは、事件を取り上げるだけではなく、皇国民の世論形成をしていくことが課題だと思っている。だからこそ、二人の視点が必要だと思った。
眼下では、着飾った貴族議員や地方選出の代議員たちが、唾を飛ばして喚き散らしている。議題は、先の「北部国境紛争」に伴う補正予算案と、今後の国防方針についてだ。
「異議あり! サリヴァとの和解が成立した今、なぜこれほどの軍事予算が必要なのか!」
「そうだ! 陛下は『デセリオン』なる技術大国の脅威を説くが、隣国に対して疑念を抱くなど、失礼ではないか!その疑念こそが隣国を怖がらせて脅威を産む根源である。」
「架空の敵をでっち上げ、中央集権を強める口実にするつもりか!」
保守派の議員たちが机を叩く。怒号が飛び交う議会にはうんざりした。何も建設的じゃない。記事にする価値すら感じられず、イリアスとディランを巻き込んだことを後悔した。ふと、つまらなそうに見ていたイリアスが僕の方を振り返る。
「見てみろよ、ミズキ。彼らの不満の根底にあるのは、カルヴァド陛下の急進的な改革による格差だ。旧態依然とした農業地帯や保守的な地方貴族は取り残されつつある。」
ディランは白けたように傍聴席の手すりに足をかけた。
「あーあ、吠えるねえ。結局は俺たちの取り分が減ったぞって言いたいだけだろ? 陛下の改革で潤ってるのはダフタルスクだけ。田舎の貴族様は面白くないわけだ。」
せっかく貰えた貴重なコメント、僕はすかさずメモをとる。
怒りをぶちまける保守派の議員たちにとって、サリヴァの脅威やデセリオンの影などどうでもいい。カルヴァドの足を引っ張り、自分たちの既得権益を守ることだけが目的なのだ。
イリアスが顎を上げた。
「それより、あの余裕の顔。ガランド伯爵もよくまぁ、帝国議会に顔を出せたものですよ。内通していた証拠があがらなかったことも予測済みなんでしょうね。」
内通者の疑念が晴れないガランド伯爵は大人しくしている。彼には有利な状況だ。勝手にやってくれる議員たちに、内心はほくそ笑んでいることだろう。
……現場で何が起きていたかも知らないくせに。僕は呆れを通り越して、吐き気すら感じていた。
「はじめましてミズキくん!!兄のラシッドに変わって私が北部に行く事になったの。よろしく!」
突然後頭部の方から高い声が響く。振り返ると、妖精のようなパステルピンクのフリルが幾重にも重なったドレスを揺らし、頭には大きなリボンが二つ。
この世界では見かけない格好の女性が立っていた。
「え......あなたは?」
「私はバロン、暁の一員だよ。」
その、ピンクの妖精はにっこり笑って握手を求めてきた。
「バロン、相変わらず、派手な格好しやがって。」
「だってぇ!いつもは好きな格好できないんだもん!!」
バロンの格好はマルティアの流行なのか、イメージとかけ離れた姿に驚かせられた。この世界にもロリータ服があるんだなと感心せざるを得ない。
彼女は排水や下水処理、水道設備等の専門家でラシッドさんの下でダフタルスクでのパイプライン発掘をしていたが、北部復興支援の支援部隊編成のために皇都に訪れていたようだ。ディランが呼んでくれたらしい。
「随分言われっぱなしじゃない?議会の皆さんは、カルちゃんの真価を理解できないみたい。」
それだけじゃない。あの飢えた一万の兵士、鉱毒に苦しむ人々、そして歌を奪われ、心を壊されたタリア様。それらの犠牲の上に今の平和があることを、この安全な議場にいる議員たちは理解しようともしない。
「静粛に! 静粛に願います!」
議長が木槌を叩くが、騒音は収まらない。皇帝の虚偽報告だと決めつけ、カルヴァドを失脚させようとする空気が議場を支配し始めた、その時だった。
「―――参考人として、発言を許可されたい。」
喧騒を切り裂くように、低く、しかしよく通る男の声が響いた。
証言台に立ったのは、泥の匂いが残るような実戦用の軍服を纏った男。北部国境警備隊の隊長、カルダだ。
彼は先の動乱で指揮系統が崩壊する中、残存部隊をまとめ上げ、避難誘導と防衛ラインの再構築を成し遂げた現場の英雄である。
「貴官は、北部の現場指揮官だな? 続けてたまえ。」
カルダは一礼すると、鋭い眼光で野次を飛ばしていた議員たちを一瞥した。その迫力に、議場が水を打ったように静まり返る。
「議員の皆様が疑義を呈されているデセリオンの脅威についてですが……現場指揮官として断言します。あれは、実在する脅威です。」
カルダは懐から、数枚の報告書と、黒く焦げた機械の破片を取り出した。
「これは現地で回収された通信機器の残骸です。魔素を一切使用しない、高度な科学技術の結晶です。……我々には解析不能な代物でした。」
「そ、それは……サリヴァの秘密兵器ではないのか?」
「いいえ。飢えた兵士に、このような精密機器は作れません。」
カルダは断言した。
「さらに、捕虜の証言からも明らかです。彼らは何者かに意図的な偽情報を与えられ、パニックを誘発させられていました。……あのような統率された暴走は、自然発生的なものではありません。」
彼は議場を見渡し、重々しく告げた。
「サリヴァ軍は、デセリオンという黒幕に操られた道具に過ぎませんでした。……もし、デセリオンの介入がなければ、あの紛争は起きなかった。あるいは、もっと小規模で済んでいたはずです。」
「な……」
「我々が見たのは、魔法も剣も通じない『情報と科学』という見えざる敵です。……これを架空の脅威と断じるならば、次は皇都が火の海になるでしょう。」
カルダはカルヴァドの座る玉座の方へ向き直り、敬礼した。
「北部の危機は去りましたが、敵の狙いは明らかに詩女姫と皇国の弱体化です。……西の要塞都市、および国境線の防衛強化は、絶対に必要な措置であると進言します。」
現場を知る者の、嘘偽りのない言葉。
それは、保身と政争に明け暮れていた議員たちの軽薄な言葉をねじ伏せるだけの重みを持っていた。
「……参ったね。あんな本物を見せられたら、狸親父どももぐうの音も出ないか。」
ディランが、手すりに頬杖をつきながらニヤリと笑った。バロンがディランにくってかかる。
「カルちゃんがニセモノだって言うの!?」
「そうだ、俺たちの陛下は飛んだ偽物だぜ。見たかい、カルダ隊長のあの眼差し。知的で、誠実で、憂いに満ちている。……男が惚れる男ってのは、ああいうのを言うんだろうな」
「同感だ。法律の条文よりも、彼の汗と泥の方がよほど説得力がある」
法律家のイリアスも眼鏡の位置を直し、珍しく素直に称賛した。だがすぐに、その視線を演壇の脇に立つ人物――無表情でカルダを見下ろすカルヴァド皇帝へと移し、口の端を歪めた。
「それに引き換え、我らが皇帝陛下はどうだ? あの鉄面皮。感動的な演説の横で、能面の如く立ち尽くしておられる」
「ははは! 違いねえ。温度差で風邪引きそうだぜ」
ディランが肩を揺らして笑う。
「なあ、ミズキ君。君の専門分野だろう? 『国民に愛されるリーダー』として人気投票をしたら、どっちが勝つと思うかい?」
僕は苦笑いしながら答えた。
「カルダ隊長には共感があります。人々は彼を見て自分たちの痛みを分かってくれると感じる。……でも、陛下にあるのは畏怖と計算だけです。国民は陛下を見て、自分たちが数字として管理されていることしか感じませんから」
「辛辣だなあ! でも事実だ」
ディランは楽しげに指を鳴らした。
「ここが笑い話の種なんだがね。歴史上、こういう『誠実で有能な現場指揮官』と『冷徹で不人気な君主』が並び立った時、何が起きるか知ってるか?」
「ちょっと、カルちゃんの悪口やめてよ!」
バロンは華奢な身体を大柄のディランに向けて剃るように威嚇するが、身長差で全く見向きもされ無かった。さらに、イリアスは冷ややかな声で、歴史の講義をするように語り出した。
「民衆は冷たい王を憎み、熱い英雄を求める。英雄にその気がなくとも、周囲が彼を担ぎ上げるのだ。彼こそが真の王に相応しいとね。……清廉潔白なカルダ隊長が、その誠実さゆえに腐敗した国を憂いて剣を取る。完璧なクーデターのシナリオだ」
「傑作だろ? カルヴァドの奴、一生懸命国のために汚れ仕事をしてるのに、自分が育てた一番真面目な部下に寝首をかかれる未来が見えるようだぜ」
ディランとイリアスは「クククッ」と意地悪く笑った。サイテー、と、バロンが吐き捨てる。
それは冗談めかしているが、核心を突いたブラックジョークだった。カルヴァドが優秀であればあるほど、そしてカルダが誠実であればあるほど、二人の「人望の格差」は埋めようがない。
「陛下も、もう少し愛想よく振る舞えばいいものを……」
僕が溜息をつくと、ディランが呆れたように首を振った。
「全くだ。天は二物を与えずと言うが……あの方の場合、政治的才能と冷酷さを与える代わりに、人間としての愛嬌を全て没収したらしい。」
ディランがトドメを刺すように付け加えた。
「全くだ。あいつの美点なんて、黙って座っている時の『顔』が良いことくらいしかないな。」
「それも、口を開けば減点ですけどね」
僕らは顔を見合わせ、声を殺して笑い合った。
眼下では、冷徹な皇帝と、熱誠の英雄が並んでいる。
僕はペンを握り直した。この議会の大半は腐っているかもしれない。だが、カルダのような実直な軍人がいる限り、まだこの国は終わっていない。彼の証言を、一言一句漏らさずに記事にしなければ。それが、皇国の神話編纂官の僕の責務だった。
カルダ隊長の証言によって、議場の空気は変わった。だが、この日の驚きはそれだけでは終わらなかった。
続いて演壇に立ったのは、シィヴァ教の重鎮、ダーレン大僧正だった。
ラザークでヴィオラの説得を受け入れ、魔素に依存しない農業を受け入れてから、改革派に変わっていた。
「現在、我らシィヴァ教団は、教義の解釈を巡り分裂状態にある。……過激な原理主義を唱える西のエウロイ派と、民との共生を掲げる東のラザーク派だ」
議場がざわめく。
西のエウロイ派。それはおそらく、霧の渓谷でサリヴァ軍に加担していたダルバン枢機卿の流れを汲む一派だろう。対して、ダーレン大僧正が代表を務めるラザーク派は、まったく新しい道を提示した。
「我らラザーク派は、これより魔素に依存しない農法の研究と普及に尽力する」
「魔素を使わないだと!? それは神への冒涜ではないか!」
保守派の議員が叫ぶが、ダーレンは静かに首を横に振った。
「ダルメア様が使い方を伝授した魔法は尊いが、それに頼りきりでは、今回のような有事に民は飢えるしかない。……大地を耕し、人の汗と知恵で実りを得る。それこそが、人が人として生きる強さだ」
ダーレンは深く一礼し、力強く締めくくった。
「国難の今こそ、教会は権威の上に胡座をかくのではなく、泥にまみれ、民と共に歩む道を示すべきである」
その言葉は、古い時代が終わり、新しい自立の時代が始まろうとしていることを予感させた。議会は、カルダの警告とダーレンの決意表明という二つの重い爆弾を残し、喧騒の中で閉廷した。
***
「……激動の一日だったな」
僕は取材メモを鞄に詰め込み、逃げるように議事堂の廊下を歩いていた。せっかくだから暁の3人にも今後の復興の展望を聞きたかった。
政治も宗教も、サリヴァの動乱をきっかけに大きく変わろうとしている。これをどう記事にまとめるか、頭を悩ませていた時だった。
「―――ミズキ殿」
背後から、低い声に呼び止められた。
振り返ると、そこには先ほど証言台に立っていた、国境警備隊長のカルダが立っていた。
「カルダ隊長。お疲れ様でした。素晴らしい演説でしたよ。」
「演説ではありません。事実を述べたまでです。」
カルダは周囲を警戒するように一度視線を巡らせてから、一歩僕に近づき、声を潜めた。
「ミズキ殿。貴方は皇帝陛下と個人的なパイプをお持ちだと聞いています。」
「ええ、まあ……僕は陛下直属の神話編纂官ですので。」
「お願いです。私を、陛下に繋いでいただけませんか。……議会では話せなかった核心を、陛下に直接お伝えしたいのです。」
彼の真剣な眼差し、そして微かに震える拳を見て、僕はただ事ではないと悟った。カルダの言葉を聞いたバロンは、くるりと振り返る。
「なぁに?カルダくんもカルちゃんに逢いたいの?私も久しぶりにお話ししたいな〜。」
「いや、内密な話がしたいって言ってるんですよ。いくら陛下とご親友でも、バロンさんは連れて行けません。」
僕は焦る、カルダ隊長の様子を見れば只事じゃ無い。ふざけた感じで話ができるとは思えない。同意を求めて僕はカルダ隊長に向き直る。
「ねえ、カルダ隊長」
「......」
カルダ隊長は不動明王の如く動かない。どうしたんだろう。カルダ隊長の周りをくるくると回りながらバロンさんが、イイじゃん!イイじゃん!お願いだよ〜と小動物のようにちょろっと懇願する。
「......か、可愛い。」
「はぁ?」
10秒ほどフリーズしたカルダ隊長が発した言葉はとても小さく、僕以外には聞こえなかったようだ。まさか英雄に意外すぎる弱点があるなんて!そのまま押し切られて、僕らは夕刻、カルヴァドの執務室を訪ねることとなった。
***
「……まあ、本人に直接言ってみることだね。『顔しか良くない』ってさ。」
「賛成だ。あの鉄仮面がどんな顔で怒るか見ものだな。」
ディランとイリアスはニヤニヤと笑いながら歩いている。そして僕の隣にバロンとカルダ隊長が歩いていた。
「もう、お二人とも意地が悪いから。カルちゃんが可哀想です。」
「バロン殿は陛下と懇意の仲のですか?」
少しショックを受けたようなカルダの声に、バロンがくすくす笑いながら答える。
「懇意も何も、私はカルちゃんが大好きってだけ。だけど、カルちゃんが誰かに心を開いてくれるとは思えない。一方通行な思いだよ。」
「そんな......。」
バロンのあっさりとした回答に、カルダは余計に心を痛めてしまったようだ。
「失礼します、陛下。ミズキです」
扉を開けると、そこはヌール女史だけだった。
カルヴァドが接待に連行されたと聞き、ディランたちが爆笑している横で、バロンさんは日傘を畳みながら、ふうと溜息をついた。
「あらあら。カルちゃんも大変ねえ。……でも、あの不器用さが彼の可愛いところなんだゾ!笑うなよ。」
「だって、陛下が……接待だぞ? 相手を凍りつかせる間違いじゃなくてか?」
ディランが目を丸くする。ヌール女史は、珍しく口元だけでクスクスと笑った。
「ふふ。皆様のご懸念はごもっともです。もちろん、陛下ご自身の意思ではありません。シャオ様とカーム様に、両脇を抱えられるようにして嫌々連れて行かれました。保守派の貴族や民選議員に首を縦に振らせなければ、予算審議が終わりませんからね。」
「うわあ……」
「それに、今回は強力な助っ人もおります。」
「助っ人?」
「オルノブ嬢です。彼女が同席されたおかげか、先ほど届いた報告では、驚くほどスムーズに進行しているようです。」
なるほど、と僕は膝を打った。シャオが脅し、カームが金をちらつかせ、オルノブが実利で説得する。そしてカルヴァドは、ただ「最高権威」という名の豪華な置物として鎮座している。……完璧な布陣だ。
「陛下お一人では、おそらく開始五分で『くだらん』と席を立たれて、交渉決裂していたでしょうね。」
ヌール女史の辛辣なジョークに、イリアスも眼鏡を直しながら苦笑した。
「全く、手のかかる皇帝陛下です。……で、ミズキ君。本題は?」
「ああ、そうでした。……ヌールさん、実は、国境警備隊長のカルダさんを、陛下に引き合わせたいんです」
僕は表情を引き締めた。カルダ隊長が一歩前に出てヌールさんに挨拶をする。
「私は今、北部危機に伴う防衛予算と復興支援予算の審議のために皇都に来ています。ですが、現場の人間です。七日後には、任地である北の国境へ戻らなければなりません。それまでに、陛下に少しでもお時間をいただけないかと。」
カルヴァドにとっても最も忙しい時期だ。ヌール女史は手元の分厚いスケジュール帳を開いた。そこには分刻みで予定がびっしりと書き込まれている。彼女は指先でページをめくり、眉をひそめ、やがてふっと息を吐いた。
「……七日後、ですね」
彼女は羽ペンを取り、ある時間帯を丸で囲んだ。
「その日の夕刻なら、空けられます」
「本当ですか!? でも、議会の最終日じゃ……」
「ええ。ですが、陛下も望んでおられるはずです。腐った古狸たちの相手をするよりも、実直な狼と話す時間を。」
ヌール女史はスケジュール帳を閉じ、僕に力強く頷いてみせた。
「ご安心ください。他の予定を全てねじ伏せてでも、その時間は確保いたします。……ヌールの名にかけて」
鉄の女秘書の頼もしすぎる言葉に、僕とカルダは深く頭を下げた。
***
陛下に会えなかった僕らはそのまま解散することになった。カルダは明日も議会に出席する。部隊長として、国境警備隊予算をどうにか増額させたいのだ。ディランとバロンは北部地区の復興準備で特に忙しい。
「あーあ、北に行く前にカルちゃんに会いたかったな。」
「バロンさんは、陛下に優しいんですね」
僕が言うと、バロンさんは長い睫毛を伏せて微笑んだ。
「ええ。だって私、彼がいなかったら好きな研究を続けていません。……それに、この格好もしていなかった。」
「え? 陛下がそのファッションを勧めたんですか?」
意外だった。あの無趣味な皇帝が、ロリータ服を推奨するなんて。
「ふふ、少し違うよ。……ミズキさん、私の研究がマルティアでどう扱われていたか知ってる?」
バロンさんの目が、少しだけ遠くを見る。
「『汚い』『臭い』『変人』……散々な言われようだったわ。急激に発展したマルティアでは、排水垂れ流しによる汚染が深刻化していたのに、誰も下の世話なんて科学したがらなかった。私はただ、街を綺麗にしたかっただけなのに。」
「……」
「そんな時だよ、留学中の彼に出会ったのは。彼は私の研究データを見て、顔色一つ変えずに言ったの」
バロンさんは、カルヴァドの声色を真似て、低くおごそかに言った。
『……美しいな。この循環システムは、ヴァルナディアの魔法依存(濾化師)からの脱却に繋がる』
「彼は、私が扱っている排泄物や汚泥のサイクルを『美しい』と言ったんだ。だから続けられた。好きなことを突き詰める姿もまた、美しいって。」
バロンさんの頬が、ほんのりと赤らむ。
「その言葉で、私、吹っ切れたの。研究も、そしてずっと着たかったこのお洋服も……自分の『好き』を貫こうって。それからなんだ、私がこの格好をするようになったのは。」
「いい話ですね……。」
僕は感動した。カルヴァド、やるじゃないか。人の本質を見抜いて、背中を押すなんて。僕はそんなことできる人だなんて思ってもいなかった。
「だから、やっと私のチカラが陛下の役に立つのが嬉しい!今日は会えなかったけど、陛下に会ったらありがとうが言いたかった。今日はありがとう。それじゃ、北部に行ってきます!」
バロンさんの笑顔は本物だ。自分の研究が誰かの役に立てる日をずっと待っていた人の、本当に輝かしい笑顔だった。誰かのために、力を尽くす。僕が元の世界でできなかった事の一つのように感じた。そう、思うと胸が少し痛んだ。
僕は今、誰かのために、何かを尽くすことができているのだろうか?
***
翌日の議会にガランドの姿は無かった。混乱を確認して西に戻ったようだ。しかし、カルヴァドの努力も着実に実っていった。議会で北部支援や国境警備隊予算増額に反対する者たちは、日を追うごとに減っていった。
陛下は彼らにとって良い手土産を持たせる事ができたのだろう。
七日後の夜。僕とカルダは、宮殿の奥にあるカルヴァドの執務室に呼び出された。
部屋には重苦しい沈黙が漂っていた。カルヴァドは執務机で書類に目を通していたが、僕たちが入ると手を止め、鋭い視線をカルダに向けた。
「……国境警備隊長、カルダ。議会での証言、見事だったぞ。あの老人どもを黙らせるとはな。」
「恐悦至極に存じます」
カルダは直立不動で敬礼した。カルヴァドは椅子に深く座り直し、指を組んだ。
「さて。ミズキを通してまで、私に直接伝えたいこととはなんだ? 議会では話せなかった核心と聞いたが」
「はい」
カルダは意を決したように、自身の左腕の袖を捲り上げた。
そこには、焼き鏝のようなもので付けられた、奇妙な幾何学模様の火傷痕があった。
「これは……」
カルヴァドが目を細める。
「陛下。私は、西方の寒村の出身です。……幼い頃、村がデセリオンの兵士たちに襲われ、子供たちだけが拉致されました。私もその一人です。今に始まったことではありません。」
「子供狩りか。ガランドが行っていたことと同じだな」
「はい。ですが、奴らの目的は労働力でも、人身売買でもありませんでした。」
カルダは、自身の忌まわしい記憶をえぐり出すように語り始めた。
「連れて行かれた山奥の施設で……私たちは実験台にされました。彼らは私たちに、正体不明の液体を注射し続けました。……あれは、おそらく高濃度の魔素です」
「魔素だと?」
僕とカルヴァドの声が重なった。
「デセリオンは科学の国。魔法を持たない彼らは、魔素を人工的に人体へ適合させる実験を行っていたのだと思います。……注射を打たれた仲間たちは、次々と身体が内側から焼け焦げたり、狂死していきました」
カルダは左腕の傷を強く握りしめた。
「私も死にかけました。高熱にうなされ、身体中を何かが駆け巡る激痛に何日も耐えました。……生き残ったのは、私一人だけです。この傷は、その時の拒絶反応の痕跡です」
「……なるほどな。」
カルヴァドが低い声で唸る。その瞳には、氷のような冷徹な分析の光が宿っていた。
「デセリオンは、魔素を持たぬがゆえに、それを渇望している。あるいは……制御しようとしているのか」
「はい。今回のタリア様の件……魔素不活性化薬の話を聞き、確信しました。奴らは、魔素を消す研究と、魔素を無理やり人体に適合させる研究を並行して行っています。」
カルダはカルヴァドを真っ直ぐに見据えた。
「彼らが欲しいのは、我々ヴァルナディアの民そのものです。魔素に親和性のある我々の肉体は、彼らにとって喉から手が出るほど欲しい資源であり実験材料なのです。」
執務室の空気が、一気に凍りついた。単なる領土侵略ではない。人間としての尊厳を根こそぎ奪い、モルモットにするための侵略。
それが「デセリオン」という国の正体だった。
「私は取り返したいのです。失われた友の思い、尊厳、あるべきはずの幸福を!そして二度とこのような地獄を繰り返したくありません!」
「……よく話してくれた、カルダ」
カルヴァドは立ち上がり、窓の外、西の闇を睨みつけた。
「貴官には、引き続き西の防衛強化を任せる。……そして、その身体のことも、宮廷医師に診させよう。実験の後遺症がいつ牙を剥くか分からんからな」
「はっ! ……感謝いたします。」
カルダが深く頭を下げる。僕はその背中を見ながら、戦慄していた。
サリヴァとの戦争は終わったが、それは序章に過ぎなかったのだ。科学という名の狂気が、すぐそこまで迫っている。
「……実験材料、か。」
カルヴァドは低く呟くと、ゆっくりと立ち上がり、執務机を回ってカルダの目の前まで歩み寄った。
そして、無言のまま自身の左手の袖口――カフスボタンを外し、袖を肩口まで捲り上げた。
「陛下……?」
カルダが怪訝そうな顔をする。
カルヴァドの左腕は、一見すると白く滑らかな、貴人特有の肌に見えた。だが、彼が短く何かを詠唱し、指先をパチンと鳴らした瞬間。
空気が歪む音と共に、腕を覆っていた「幻影」が剥がれ落ちた。
「―――ッ!?」
「こ、これは……」
僕とカルダは、同時に息を呑んだ。
露わになったカルヴァドの左腕。それは、人間の腕ではなかった。
いや、そもそも腕ですらなかった。肩から先にあるのは、漆黒に凝縮された魔素の塊だ。
不定形にも見える黒いクリスタルのような物質が、無理やり腕の形を成している。
何よりおぞましいのは、その接合部だ。肩の肉に、黒い物質が植物の根のように無数に食い込み、肉を侵食しながら繋がっていたのだ。
脈動するように明滅するその「根」は、見ているだけで幻痛を感じさせるほど痛々しく、不気味だった。
「私の左腕は、とうの昔に失われている」
カルヴァドは、その異形の義手を無造作に動かしてみせた。根が筋肉を引っ張り、ギチギチと嫌な音を立てる。
「かつて、私の父――先代皇帝ザルファドが行った実験の結果だ。父はかつて、人の肉体は魔素の器として脆弱すぎる、と言い放ち……私の腕を切り落とし、代わりにこの高密度の魔素を直接移植した。」
カルヴァドの瞳が、光を失ったように真っ暗になった。
「以来、この腕は私の肉を苗床にして寄生し、侵食続けている。切り落とされて肘から下に根を張って、今は肩まで喰われてしまった。……幻術で人の肌に見せかけてはいるが、その下にあるのはこの醜悪なバケモノだ。」
「そんな……陛下のお身体にも、そのような……」
カルダは震える手で、自身の火傷痕と、皇帝の黒い腕を見比べた。
焼き付けられた傷と、肉を喰らう魔素の義手。
形は違えど、そこには同じ「狂気」の臭いが漂っていた。
「カルダ。貴官が受けたという魔素適合実験……。そして、亡き父ザルファドが私に行った人体改造。……この二つは、無関係ではないかもしれん。」
カルヴァドは黒い指先で、自身の肩に食い込む根を撫でた。
「科学を持たぬはずの父が、なぜこのような移植技術を持っていたのか。……もし、父の狂気の裏にデセリオンの影があったとしたら? 我々二人は、同じ闇に焼かれた生存者同士というわけだ。」
「陛下……」
「共に行こう、カルダ。我々の身体を作った元凶を……必ずや白日の下に引きずり出し、焼き尽くすためにな。」
「御意。私はどんな修羅に堕ちてでも、この惨劇を終わらせる覚悟でございます。」
黒い魔素の腕が、力強く握りしめられる。
その異形の腕は、皇国の闇の深さを物語ると同時に、二人の男の間に、血よりも濃い、奇妙で強固な連帯を生んでいた。
僕は、その光景を目に焼き付けた。
サリヴァとの動乱は終わった。だが、その向こう側に広がるデセリオンという巨大な深淵が、今まさに口を開けようとしている。
黒い異形の腕を持つ皇帝と、実験の傷跡を持つ指揮官。そして声を失った皇女。
傷ついた者たちの反撃が、ここから始まろうとしていた。僕は彼らを復讐者として描くべきなのだろうか?それとも、真実らしき何かを探求すべきなのだろうか?
ただ、デセリオンへの戦意高揚に使うのだけは慎重にしなければならない。もし、陛下の父親とデセリオンの科学者が同じ何かを探究していたとしたら、デセリオンへの敵意はそのまま皇帝への敵意になりかねない。
この国の魔素という存在を、それが生み出した闇を、どのように枠に嵌めるべきか、僕は未だわからないままだった。




