命の水と身体の不思議
「師匠、皇帝陛下が御入室遊ばされます。」
ざわつく声で僕は目覚めた。僕は気絶した後、褐色の少女に介抱されていたようだ。彼女が優しく手拭いで僕の額の汗を拭っていた。彼女は僕が目覚めたことに気が付くとそれまで優しかった顔を急に涼しくさせて、男たちに向かって僕が目覚めたことを伝えた。僕の周りに人が集まってきたのがわかる。
遠くからも何人かが近づく足音が聞こえた。
「陛下、こちらでございます。」
三十代前半と思しき、彫りが深く鼻筋の通った男性が屈み、僕の顔を覗き込む。それが皇帝陛下であった。
「ヴィオラ、この者と話すことはできるか?」
ヴィオラは深々と頭を下げた後、ミズキにそっと囁いた。「陛下のお声は理解できましたか?」
ミズキは不思議な状況にありながらも、周囲の日本人ではない人々の言葉が日本語のように聞こえることに気が付いた。理解はできるが、日本語そのものではない。
「しゃ・・・しゃべれ・・・ます」
体がまだ万全でないため、言葉がたどたどしくなる。これを聞いた皇帝陛下の顔は、一層険しくなった。僕は自分が何の言語を喋っているのか分からないが、相手には通じているらしい。
「汝の名は、何と申すか。いかなる時、いかなる地にて、生を授かりしや。」
流石に陛下と呼ばれるだけあって、なんだか堅苦しい言葉で質問をしてをしているなと感心していると、褐色の少女が答えを催促するように僕の肩を叩いた。
「僕は・・・・・イチカワミズキ・・・岐阜出身・・・産まれは・・・西暦1999年・・・」
生まれた年を答えると驚いたような怒ったような不思議な顔つきをされた。なんだか知らないが、生まれた年を聞いた途端態度を変えるなんて失礼な陛下だな、と心の中で茶化してやった。もしかしたら今の僕、この美少女の顔面をかなり歪ませていたかもしれない。そうでもしなけりゃ、この状況にのまれてしまいそうだ。僕は金髪美少女になっているし、何だか皇帝陛下まで出てくるし、言葉は何語を喋っているのか分からないのに言葉の意味は理解ができる。まともに考えていられないだろう。
「本物だ、召喚は成功した。ゼルフィアの中にいつまでも留めさせておくわけにはいかない。ヴィオラ、イクシールを使って良い。ただし、入っていいのは詩女だけだ。地下に坊主どもは入れるな。」
皇帝陛下は立ち上がり、周りに呼びかける。
「我が一族の機密には我が国の僧侶であっても触れてはならない。ここにいる僧侶衆は他のものへ召喚成功を伝えよ。余はラグナスと共に地下へ向かう。ラグナスはゼルフィアを抱えてやれ。」
若い皇帝の威圧感には驚かされる。僕が質問に答えた後は、一切表情を変えることもなく通る声で指示をしていた。皇帝という割には実務をきちんとこなすんだなと感心していると、ラグナスという人に抱き抱えられた。男性だと思うが、仮面をかぶっていて全く顔が見えない。先頭を皇帝、僕を抱えたラグナス、その後ろにヴィオラ、もう一人、背の高い仮面をかぶった人が列になって洞窟のような場所から出る。
厚い金属製の扉を抜け、ピカピカに磨かれた大理石の床が続く石造りの廊下を進む。突き当りの螺旋階段を上りきると、そこはドーム型の天井を持つ豪華な部屋だった。花崗岩と大理石、瑠璃色のモザイクで飾られた、中東風の壮麗な空間だ。皇帝が奥の馬蹄型のアーチがあしらってある壁に手を翳すと、奥の壁が床が沈むかのように下がった。僕が中身はからくり屋敷みたいだな、と感心していると一同が壁の奥に入っていく。そこには狭い下の階段が続いているのが見えたところでラグナスが僕をおろし、背中に負われるように促した。全員が暗い階段を降り始めると沈んでいた壁がせりあがり、光源がなくなって闇に包まれた。
皇帝が何か呪文みたいなものを呟くと薄く光る粒が現れたが、僕の視界は悪く周りがよく見えなかった。途中から階段はなくなり直径2メートルないくらいの穴を梯子で延々と降っていた。鳥目で良かった。暗くてよく見えないけれど、よく見えても恐怖心でどうにかなってしまうだろう。梯子を下り終えると地下水路のようなものなのだろうか?人工河川がそばを流れる幅5メートルくらいの横穴がずっと続いた。
「起きてください!」
目の前には、それまでの寺院のような場所とは全く違う、白く近代的な研究室が広がっていた。白い壁に大理石の床、コンビニの冷蔵庫サイズの装置が並び、鼻につく消毒液の匂いがする。寒々しいこんな場所に恐怖心を抱かないわけがない。
ヴィオラは白いエプロンドレスに紺のワンピースに着替え、清楚で可愛らしいメイドのような姿だ。皇帝も儀式服から着替えて白衣のようなものを羽織り、装置の点検に忙しそうだ。隣で調整しているのはラグナスだろうか、髪の長めな線の細い男性だ。僕は清潔な貫頭衣を纏い、車輪付きの椅子に乗せられていた。
ヴィオラの立ち振る舞いに、撮影の同行で仕事をしたアイドルたちなんかよりもアイドルらしさを感じていた。可愛らしいだけではなく親近感というか不思議な安心感を覚える。
「こんな場所にも一輪の輝くタンポポが咲いていたんだね。」僕はグラビアの端に書かれた謎の気持ち悪い言葉をかけたくなった。
「皇帝陛下が、命の水をお使いになられます。ゼルヴィアの体からあなたの魂を分離させて命の水に定着させます。そこから体を練り直すのです。」
全く意味がわからずポカンとしていると、彼女は何か勘違いをしたらしく、大丈夫ですよ!必ず成功しますって、と僕の手を握り微笑んだ。
「あの、失敗することあるんですか?」
「え?・・・・あっ!」
僕の手の震えに驚いた彼女は自分の失言に気が付いて手で口元を隠した。
「なんて不敬なことを言ってしまいました。陛下が失敗などされるわけがありませんね。」
全く困ったことに、彼女には僕の意図することは伝わらないようだ。
「ヴィオラ、私にも出来ないことや失敗はある。もし私がもっと政治的手腕が長けていたらクソ坊主どもにこんな儀式をさせることなどなかっただろうさ。」
皇帝陛下が僕たちの話を聞いていたのか、思ったより気さくに話しかけてきた。ヴィオラはさっと皇帝陛下の方に向き直り、立膝の体制になって頭を下げると両手を目線の高さで組んだ。皇帝はたじろぐようなそぶりを見せながヴィオラに目線を合わせて笑いかける。身長が高めの皇帝陛下がヴィオラと視線を合わせるまで体を屈めるとなかなか迫力があった。皇帝を初めて見た時のその鋭い眼光の印象とのギャップに、僕は驚く。30代くらいだろうか、白く明るい照明に照らされた小麦色の肌と艶やかな漆黒の髪の毛とは裏腹に、皇帝陛下の痩せた頬には心労が伺える。
「公の立場ではいない場所では畏まらず接してくれ。私とて皇位についたからといって何か変わったわけではない。今まで通り、カルヴァドと読んでくれても構わない。巫女のつとめを働いていくれればそれでいいのだ。」
「滅相もございません!わたくしとて子どもではありませんので、流石に陛下のお名前は恐れ多く・・・」
「安心してくれ、冗談だ。困らせるつもりはない。」
陛下流のジョークらしいが、階級社会に疎い僕にはさっぱりわからない。ヴィオラは嬉しそうに顔を上げてニコリと微笑むと、皇帝陛下も頷く。どうやら旧知の仲のようだ。
「陛下、こちらの装置が安定いたしました。分離の準備に入ります。」
ラグナスが促すと皇帝は立ち上がって、装置の前に立ち腕をまくって差し出した。慣れた手つきでラグナスがペンのような棒状の何かを押し当てる。採血だろうか?
「ミズキ様もこちらにお願い致します。」
仮面をつけていた背の高い人はこの女性のようだ。いつの間にか仮面を外し、白いすらっとした白衣を身に纏って皇帝のいる機械の前に案内する。彼女の青い光沢を持った黒髪は頭の高い位置で結われてあったが、その長い髪は彼女の腰まで綺麗に伸びていた。白いエプロンドレスにくるぶしまである紺のロングスカートのワンピースを纏った姿は凛と背筋が伸びていて美しい。ヴィオラがアイドルなら彼女の雰囲気は近付き難い大女優だ。もちろん、僕は大女優なんか生で見たことはないけれど。
「はい、タリア様」
彼女、タリアの後にヴィオラが僕の乗った車椅子を押しながらついていく。僕はタリア様に従うほかないのだろう。
ラグナスが操作しているのか、装置の蓋がスライドするように開き、中が赤く光り始める。この中は光沢のある赤い液体で満たさており、その液体が微かに光っている。
「陛下、ラグナス、あちらにて待機をお願い致します。彼女の信仰を守ることも私の役目でございます。」
ラグナスが何か言おうとしたようだったが、皇帝陛下がさっさと引き下がったのを確認するとそそくさと後に続いた。
「ナダウ ワ タアジュフ、ナダウ ワ タアジュフ」
タリアが呪文のような言葉をかけると赤い液体の放つ光が強くなる。一度、地元の博物館のPR記事の取材で鉱石標本を見せてもらったことがあったが、そんなものよりも妖艶な輝きだ。
「失礼します。」
とタリアが僕のことをひょいと掬い上げ、ヴィオラが、僕の服の裾につけられた紐をするすると解きだし、裸にされたと思った瞬間、僕の体は流体の蠢く装置に入れられた。生ぬるい弾力と粘性のある液体が体を包み込み始める。装置のドアはすぐさま閉められて、いくらもがいても全く手足が動かず、どんどんと沈み込む。
何でこんなことを?この中で息ができるの?どういうことだ??何が起きているのだ??頭は混乱して声も出せないが、その瞬間にも体は流体に飲まれていく。
怖い、どうしようと思った瞬間に、僕の目の前の景色は一瞬にしてホワイトアウトして、手足の感覚も、消毒液のような匂いも、流体に触れた時の温度も全てを失い、白いという感覚だけが残った。
真っ白な空間で何秒たっただろうか?それとも何分も時間が経ったのだろうか?心細さと恐怖心、そして白いという感覚。それだけしかない状態が無性にやるせなかった。
「ミズキ様、私の声が聞こえますか?」
ヴィオラの声だ。孤独感というのか、白い以外に何もかも感覚がなくなった僕に語りかける声に、安堵のようなものを感じた。僕はとにかく心細かったんだろう。
「驚かせて、大変すみません。今、ゼルフィアの体からあなたの魂を切り離し、この命の水にてミズキ様の身体を再構成させているところでございます。」
全く意味がわからない。どうなっているんだ。
「今、ミズキ様の魂は時空結晶に固定されている状態です。この魂を元に命の水に語りかけてあなた様が動かす体を作っていただくことになります。自分のお顔や手足の感覚を思い出してください。」
そんなことを言われても、急にできるものでもない。
「では、私の言葉に従って順に感覚を取り戻しましょう。想像してください。春の日の暖かさ、花の香り、風の囁き、高鳴る鼓動・・・・・・」
僕は何とか、学生時代、ゴールデンウィークにサークル合宿で訪れた長野の高原を必死で思いだす。歴史研究サークルだ。もう五年以上前だったけれど、高原の綺麗な空気は僕の鼓動も高鳴らせてくれたような気がした。実際にはそんな美しい思い出は無かったかもしれないけれど、とにかく言われたまま想像した。
「陽光の暖かさを思い出してください。少し気だるく暖かい血流を感じてください。」
何となく右手の感覚が戻ってくる。
「足の指先にふわりとした、春先の少し冷たい風を思い出してください。もしかしたら蝶があなたの親指に止まっているかもしれません。風は冷たいのに、太陽の光がくすぐったくて暖かい・・・・・・」
僕は言われるがまま、とにかく必死で想像する。素っ裸で高原に寝そべって、陽光を感じる優雅な僕を。恥ずかしさも、照れも全て忘れて言われるがまま、できるだけリアルに想像する。
「お腹に太陽の力を感じてください。そうですそのまま。目頭が、唇が、耳ですら全てが温かく気持ちのいい風に包まれているのです。髪の毛が風でそよいでいます。そうです。それでは・・・ゆっくり目を開けて・・・」
僕は目を開けることができた。
一気に流体の中にいることを思い出し、ガバッと起き上がると装置の蓋はすでに空いていてむせながらも半身を装置の外に持っていく。
「ミズキ様お疲れ様です。成功です。」
ラグナスが布を巻きつけ、体を支えて装置から出してくれた。皇帝陛下が差し出したガウンのような服を纏う。
失礼いたしますと元気なヴィオラ声が聞こえたと思うと、可愛い顔が仕切りの外からちょこんと覗かせて、僕の姿に目を丸くした。
「よかった、大成功ですね。ゼルフィアは体を清めてからこちらに伺います。ミズキ様、これがあなたのお姿です。元の世界とはもしかしたら多少違うかもしれませんが、ヴァルナディア皇国はミズキ様を歓迎いたします。」
そう言って、さっき覗いた鏡を差し出してくる。
差し出された鏡に写っていたのは、金髪の美少女ではなく、栗色の髪の毛、褐色の肌、少し幼さの残る青年だ。
「想像していた時のお姿と、誘導させていただいた私が一般的に考える我が国のものとが混ざったお姿かもしれません。」
僕は咳き込みながら、何とか声を出そうとした。
「あ、あ・・・あの・・・きん・・いろの・・」
「まぁ!ミズキ様、ゼルフィアのことを気にかけてくださるのですね!大丈夫です。彼女はいたって・・・」
ヴィオラが感激の表情の浮かべているところに、顔を真っ赤にしたゼルフィアがものすごい勢いで僕に向かっている事に気がついた。僕は彼女の綺麗な顔に動揺を隠せない。
「えっ、なに?何ですか??」
パシーン!!
声がうわずってしまったなと思うまもなく頬に熱を感じる。平手打ちだ!・・・急に美少女に平手打ちを喰らった。こういう親愛の情のしきたりなのか?ちらりと彼女の表情を見る。涙ぐんでいたような気がする。
「私の体を使っていた時に、命脈の移しをした時に、不浄な考えをお持ちでしたね!許せません。」
タリアが慌ててゼルフィアの暴挙を止めた。まさか、僕の思考がゼルフィアに聞こえていたのか・・・・?
ヴィオラの表情を伺うと、何か汚いものを見る目で僕を見つめる。一気に顔面から冷や汗が滲み出た。
「ち、違うんだ!健全な男性だったら、まぁ・・・その、仕方ない事なんだ!」
「違いありません・・・私には聞こえておりました。私の体の中にいた時のあなたの声は、全部聞こえておりました!それからラグナスのお背中でも不浄なことを考えていらっしゃいましたよね!」
皇帝陛下も、ラグナスも目を合わせない。数秒の沈黙で僕の心臓が一気に締め付けられて、息をするごとに気まずさばかりがせり上がってくる。吐きそうだ。
「ゼルフィア、そのような事で声を荒げてはいけませんわ。陛下、ゼルフィアと少しお話しさせていただけますか……なにぶん、彼女は遠縁とはいえ皇族の血を引いた詩女として、清らかに育てすぎました。その、男性との関わりもほとんどなく……ミズキ様も大変失礼いたしました。さあ、ゼルフィア、こちらの敷居の向こうに行きましょう。」
タリアは機転を利かせ、ゼルフィアを仕切りの向こうへ連れ出した。
そりゃ、美少女になって美少女にキスをされたら変な妄想が湧き上がってくるのは仕方ないだろ。だが、それが全部彼女に聞こえていたとは……最悪だ。
「私から、話をしてもよいか?」
皇帝陛下が咳払いをした。僕だって、仕切り直したい。
「ミズキ、貴殿がどうしてここに召喚され、どうすれば元の場所に戻れるのか、この世で何を求められているか、そして、今の貴殿の体について私から説明してもよいだろうか。」
息をのんで、顔を上げた。皇帝陛下の真剣な顔つきを見た瞬間、胃液が逆流してくるような気持ち悪さに襲われた。