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ヴァルナディア皇国神話編纂記  作者: 砂川百足
第一章 編纂篇
17/24

等価交換

 「ノルヴェンガの村に向かって!」


 オルノブがカシムに叫ぶ。オークション会場のを後にした僕たちは、大急ぎで馬車に乗り込みノルヴェンガの村を目指して走り出す。歓楽街からホテルの塔が遠く小さくなっていく。


 「ノルヴェンガの村には何かあるんですか?」


 オルノブ嬢の視線はまっすぐ前を見据えていた。


 「ノルヴェンガには倉庫があります。かつて私の商会が資源採掘のために使っていたものです。サリヴァ軍との交渉のために小麦やら干し肉やらを隠して運ばせていました。オークションが台無しになった彼らは物資調達のために私と交渉しなければ士気を保てないでしょう。」


 街道へと続く道に近づくと、馬車が大きく揺れた。急停止したのだ。


 「何事ですか?」


 ヴィオラが叫び、僕たちが荷台の窓から周辺を覗く。目の前には鉄の鎧で武装した軍隊らしき騎馬の一団が、目の前の道を塞いでいた。


 「サリヴァ軍!!ここは国境付近とはいえ、ヴァルナディア国内ですぞ。」


 カシムが声を上げる。その数、騎馬団十機に、歩兵が30人ほど。馬車一つが突破できるような数ではなさそうだ。騎馬の何人が馬から降りてこちらに向かってを脱いだ。


 「ヤートリ商会のオルノブ嬢の馬車だな。ここを抜けられると思うな。我々はサリヴァ軍、将軍ガザン直属の突撃部隊だ。大人しくついてこい。」


 ヴィオラがこちらを向き、歌を歌いましょうか?と提案するが、オルノブがそれを止めた。


 「殺すつもりなら、もう実行しているでしょう。今は大人しく連行されましょう。勝機はまだあります。」


 とりあえずの降伏、僕たち馬車から降りて、両手を上げた。連行されたのは歓楽街の手前にある煉瓦造りのシィヴァ教の教会だった。石造のラザークとはちがう、質素ではあるものの手入れされた質実剛健な作りと、垂れ下がったシィヴァ教の旗に威圧感を感じながら扉の奥へと進む。


 礼拝施設なのだろうか、天井が高く吹き抜けになっている。開祖ダルメアらしき小さな金属の像の前に置かれたソファには、恰幅の良い軍服の初老の男性と僧侶らしき男性が座っていた。


 初老の男性から整えられた髭と、鋭い眼光がいかにも軍人という威圧感を放つ。


 「手荒な真似をして悪いが、ヤートリー商会と商談をしたいと思っていてね。」


 「商談をする相手に対する礼儀ではございませんわね。まずはお名前を伺ってもよろしくて?」


 「我輩はガザン。サリヴァ帝国、第三機甲師団の将軍だ。そして隣にいるのは、貴公もよく知るダルバン枢機卿だよ。」

 

 将軍ガザンが太い葉巻を灰皿に押し付けながら答える。隣のダルバン枢機卿――オークション会場でボロ布に高値をつけ、ヴィオラに一喝されたあの男は、不愉快そうに鼻を鳴らし、僕たちを睨めつけた。


 「ヤートリ商会の小娘が。神聖な競売を台無しにしてくれた落とし前、どうつけてくれるつもりだ?」

 「落とし前? 異なことを仰いますのね。」


 オルノブは捕虜の身でありながら、優雅にスカートの裾を払い、空いているソファへ勝手に腰を下ろした。その不遜な態度に、周囲の兵士たちが色めき立つが、ガザンが片手で制する。


 「私はただ、粗悪品や偽物が横行する市場を適正化しただけですわ。それに将軍、貴方が今、本当に欲しいのは……骨董品やオカルトじみた棺桶ではなくて、ーー兵の腹を満たすものでしょう?」


 オルノブの言葉に、ガザンの眉がピクリと動く。


 「……ほう。」

 「サリヴァ本国からの補給は滞っている。ガランド伯爵という仲介役も、中抜きばかりで役に立たない。貴軍の兵士たちは、飢えと寒さで士気が限界に近い――違いますか?」


 図星なのだろう。ガザンの背後に控える兵士たちの顔に、微かな動揺が走ったのを僕は見逃さなかった。

 オルノブは畳み掛けるように、扇子をパチンと鳴らした。


 「ノルヴェンガの倉庫には、最高級の乾燥小麦と塩漬け肉、それに冬を越すための毛布が山ほど眠っております。ガランド伯爵を通さず、私が直接貴軍に卸して差し上げてもよろしくてよ?」


 「貴様、売国奴になるつもりか?」

 「私、ヴァルナディア人でもなければ皇国に嫁入りしたわけでもありませんわ。」


 ダルバンが叫ぶが、オルノブが鼻で笑う。ガザンは興味深そうに身を乗り出した。


 「条件は?」

 「単純ですわ。私と私の連れの安全、そして今後、ヤートリ商会をサリヴァ軍の正規納入業者として認定すること。……ガランド伯爵のような、無能は切り捨てて頂きたい。」


 なるほど、これがリアンと打ち合わせた筋書きか。

 人身売買や兵器の横流しに関わるガランド伯爵を孤立させ、オルノブが商流を握ることで情報をコントロールする。彼女にとっても、敵国軍という巨大な顧客を得るメリットは計り知れない。


 ガザンが口元を歪め、獰猛な笑みを浮かべた。


 「いいだろう。ガランドの強欲さには辟易していたところだ。話が早い商人は嫌いではない。」


 交渉成立か――そう思った矢先だった。


 「待たれよ、将軍!」


 ダルバン枢機卿が立ち上がり、脂ぎった指で僕たちを指差した。

 「小麦などどうでもいい! ワシが欲しいのは、あの会場から消えた封印の棺だ! それに……そこにいる女!」

 ダルバンの視線が、フードを被ったヴィオラに突き刺さる。


 「オークション会場でのあの現象……貴様だな? ヴァルナディアの魔女、いや、皇帝の売女、詩女か!」

 「ッ……!」


 ヴィオラが身を硬くする。


 まずい。軍人は利で動くが、狂信者は理屈が通じない。


 「将軍! あの女はただの人間ではない! 皇国の秘める古代の魔力そのものだ! 小麦などより遥かに価値がある! アレを捕らえ、本国へ連れ帰れば、貴公の地位は不動のものとなるぞ!」


 ガザンの目に、先ほどとは違う、欲に塗れた色が宿る。商談の空気一変した。


 「……ほう。魔女、か。確かに、小麦は食えばなくなるが、魔女は使い道が多そうだ。」


 ガザンがゆっくりと立ち上がり、腰のサーベルに手をかける。

 周囲の兵士たちが一斉に剣を抜き、金属音が聖堂に響き渡った。


 「オルノブ嬢。取引内容を変更しよう。小麦も、その魔女も、全て置いていけ。そうすれば、命だけは助けてやる。」

 「……強欲なこと。契約不履行は商人の恥ですわよ?」


 オルノブが冷ややかな視線を送るが、額には汗が滲んでいる。さすがにこの数の完全武装した兵士を相手にするのは分が悪い。


 僕は一歩前に出た。ヴィオラを背に庇うように。

 右腕が、ズクリと痛んだ。さっきの異形化の感覚が、まだ残っている。やるしかないのか?僕の右手はさっきみたいにできるだろうか……?


 僕が覚悟を決めた、その時だった。


 「神聖な教会で、随分と野蛮な商談ですねえ」


 天井の吹き抜けから、軽薄な声が降ってきた。

 全員が上を見上げるのと同時に、ヒュンッ! と風を切る音がして、何かがガザンの足元に転がった。


 「……なんだ?」


 ガザンが眉を顰め、それを軍靴のつま先で転がす。

 それは、血に濡れた人間の小指だった。そしてその根元には、悪趣味なほど巨大な宝石がついた金の指輪が嵌まっている。


 「ヒッ……!?」


 ダルバン枢機卿が素っ頓狂な悲鳴を上げた。見間違うはずもない。先ほどまでオークションを主催していた、「禿鷹」デミルの指と、彼が自慢していた指輪だ。


 「デミルの指……!?」


 ガザンが天井を睨みつけた瞬間。高く、短い指笛が聖堂に響き渡った。


 刹那、天井の闇から黒い影がボトボトと降ってきた。一人や二人ではない。十数人の影が、まるで雨粒のように音もなく着地する。彼らが降り立った場所は、ガザン将軍の背後、ダルバン枢機卿の真横、そして剣を抜こうとしていたサリヴァ兵たちの間だった。


 「なッ……!?」


 兵士たちが動こうとした時には、既に勝負は決していた。全員の首筋に、冷たい短刀ダガーが押し当てられていたのだ。


 「動かないでくださいね。」


 梁の上から、リアンが軽やかに飛び降りてきた。彼はガザン将軍の目の前に着地すると、人懐っこい笑みを浮かべる。しかしその手には、見えない糸のようなワイヤーが遊ばれており、ガザンの喉元をいつでも狙える位置にあった。


 「貴様ら……何者だ。」

 ガザンが脂汗を滲ませながら問う。


 「皇国の影ですよ。……さて、状況を整理しましょうか。」

 リアンはデミルの指を爪先で弾き飛ばした。


 「私の本来の任務は、この地域の腐敗した領主と、人身売買の元締めであるガランド伯爵の捕縛。……そこにいる貴方たちサリヴァ軍そして枢機卿は、言わば招かれざる客です。」


 リアンの瞳から笑みが消え、氷のような冷徹さが宿る。


 「我々の目的は達しました。あとは貴方たち次第だ。ここで我々と刺し違えて全滅するか……それとも、大人しく国へ帰るか。」


 完全な膠着状態。


 リアンの率いる影たちは精鋭だ。乱戦になればガザンを含め、指揮系統は瞬時に壊滅するだろう。だが、数の上ではサリヴァ軍が勝る。影たちも無事では済まない。このギリギリの均衡を破るのは、武力ではない。


 僕は一歩前に進み出た。


 「……交渉を、進めましょう。ガザン将軍。」

 「交渉だと? 首に刃物を突きつけられたままでか?」

 「ええ。ですが、これは貴方にとっても悪い話ではありません。オルノブ嬢、先ほどの提案を。」


 僕が促すと、オルノブは動じずに――内心は心臓が早鐘を打っているだろうに――優雅に扇子を開いた。


 「ええ。私の商会が管理する倉庫の小麦と毛布、ガランド伯爵を介さずに適正価格でお譲りしますわ。これで、貴方の部下たちは腹を満たして故郷へ帰れます。」


 「手ぶらで帰れと言うのか?」


 ガザンが唸る。兵士の腹は満せても、将軍としての面目が立たない。戦果ゼロでの撤退は、彼の失脚を意味する。


 「いいえ。手ぶらではありません。」


 僕は鞄から、一冊の薄い冊子を取り出した。ラザーク村で実践し、成果を上げている非魔素農法のレポートだ。ラザークでの成果を、冬に入る前にシィヴァ教穏健派僧侶たちにまとめさせたものだった。こんなところで役に立つとは思わなかった。


 「将軍。貴国が南進を続ける理由は、不毛な大地と飢餓にあるはずです。ならば、その根本を解決する技術を持ち帰れば……それは略奪品以上の戦果となるのでは?」


 「……技術だと?」


 「我が国の一部地域で確立された、魔素を使わずに寒冷地でも作物を育てる農法です。これを……シィヴァ教の布教活動の一環として、サリヴァ帝国へ無償提供しましょう。」

 「なっ……!?」


 短刀を突きつけられ、震えていたダルバン枢機卿が泡を食って叫んだ。


 「馬鹿な! 魔素を使わぬ農業など、神への冒涜だ! そのような穢れた技術を、神聖なるシィヴァ教が認めるわけがないだろう!」

 「おや、そうですか? 枢機卿。貴方は常々、サリヴァ帝国への布教が難航していると嘆いておられたではありませんか。それに、ラザークではすでに実践投入されていますよ。」


 僕はダルバンを見下ろし、畳み掛ける。


 「サリヴァの民は飢えています。飢えた民に聖句を唱えさせても腹は膨れません。ですが……教団が新たな農法と共にパンを与えればどうでしょう? 彼らはシィヴァ神の奇跡に感謝し、喜んで入信するはずです。」


 「ぐぬ……ッ」

 「技術という皮を被った奇跡ですよ。魔素への依存を断ち切る農法ですが、それを広めるのがシィヴァ教団であるなら、それは教団の功績になる。……サリヴァに教えを広める千載一遇のチャンスを、教義への固執で潰すおつもりですか?」


 これは、ダルバンへの提案であり、同時に脅しだ。

 ここで断れば、サリヴァ軍への手土産がなくなり、ガザン将軍が納得しない。そうなれば、用済みのダルバンは交渉決裂の戦犯として、ここでリアンに始末されるか、ガザンに見捨てられるだけだ。


 ガザン将軍が、喉元の刃を意に介さず、低い声で笑い出した。


 「クク……面白い。つまり貴様は、我らに魚だけでなく釣り竿をくれると言うのか。それも、この腐れ坊主を使って。」


 「はい。ただし、条件があります。」


 僕はガザンの目を真っ直ぐに見据えた。


 「サリヴァ軍の、即時撤退。および、今後十年間、ヴァルナディア国境への不可侵条約の締結。……これらを含めた停戦密約を結んでいただきます。」


 「停戦だと?」


 「食料があり、自国で生産ができるようになるなら、兵を死地へ送る必要はないはずです。ガランド伯爵との不毛な泥仕合も終わる。……将軍、貴方は兵士たちに、無駄死にではなく、満腹と安息を与える英雄になれる。あなただって、戦争をしたくないから汚れ仕事に手を染めることになったんじゃないですか?」


 ガザンは天井を仰いだ。天秤にかけているのだ。リアンたちと殺し合いをして不確かな魔女を奪うか、確実な食料と技術を持って帰り、国を救った英雄となるか。


 「……おい、ダルバン。」


 ガザンが低い声で枢機卿を呼んだ。


 「は、はい! 将軍、騙されてはいけませんぞ! 魔素を使わぬなど……。」

 「黙れ。貴様の教義で兵は食わせられん。……その農法とやら、教団の名前で広める許可を出せ。さもなくば、貴様をここに置いていくぞ。」


 ダルバンの顔が土色になった。首元の短刀が、チリリと皮膚を食い込む。


 「……わ、分かった……! 神の慈悲として……特例で認めてやろう……!」


 ガザンは満足げに頷き、リアンを見た。


 「影よ。刃を引け。……取引成立だ」


 リアンが指笛を短く吹く。一斉に影たちが短刀を引き、闇へと溶け込むように後退した。


 「賢明なご判断に感謝します、将軍」


 オルノブがすかさず、懐から契約書を取り出し、テーブルに広げた。


 「では、こちらにサインを。……小麦の引換券と、不可侵条約の同意書になっておりますわ。」


 こうして、血生臭い教会で、歴史に残らない、しかし歴史を変える「奇妙な停戦協定」が結ばれたのだった。

 ガザン将軍との交渉が成立し、僕たちは急ぎ足でノルヴェンガの村にあるヤートリ商会の秘密倉庫へと向かった。


***


 霧の渓谷には、元凶であるガランド伯爵たちを捕縛するため、リアンが残った。代わりに僕たちの護衛と実務を任されたのは、彼の部下である「影の月」のメンバーたちだ。無口なカイト、連絡役のエコー、怪力男のリンク。彼らは影のように僕たちに付き従っている。


 「さあ、ここを開けますわよ。ガザン将軍、貴方の部下たちに運搬の準備をさせてちょうだい」


 巨大な石造りの倉庫の前で、オルノブが重厚な南京錠に鍵を差し込んだ。ヤートリー商会の荷運び部隊が倉庫の前にずらりと並ぶ。彼らはサリヴァ軍に売り渡す食料を輸送する部隊と、オークションで購入した数々の珍品と、小指を失った商売敵を荷台に乗せてマルティアに輸送する部隊に別れ、この倉庫を起点に待機していたのだ。ノルヴェンガの村人たちも、最初はサリヴァ軍の軍装に怯えていたが、「これで戦争が終わる」というオルノブの説得に応じ、荷物の引き渡し作業の協力を申し出てくれていた。


 誰もが安堵しかけた、その時だった。


 『―――緊急通信! 陛下! 皇帝陛下、応答願います!』


 僕の懐にある魔素通信機が、けたたましい警告音と共に震えた。通信機から響く声は、凛としているが、隠しきれない恐怖に震えていた。タリア様だ。彼女は詩女たちを束ねる「詩女姫」として、最前線の兵士たちを鼓舞するために国境警備隊を慰問していたはずだ。


 「タリア様!? 僕だ、ミズキだ! どうしたんだ!」


 『ミズキ様!? ……くっ、陛下には繋がりませんか! 聞いてください、前線が崩壊しました! サリヴァ軍が、雪崩れ込んできました!』


 ガザン将軍が色めき立ち、僕の通信機を覗き込む。


 「馬鹿な! 攻撃命令など出していない! 私は待機を命じたはずだ!」


 『命令による行軍ではありません! ……これは、暴走です! 飢えた兵たちがこちらの警告を無視し、食料を求めてイナゴの大群のように押し寄せてきています!』


 通信の向こうから、凄まじい怒号と金属音、そして悲鳴が聞こえる。


 「タリア様! 貴女の力で止められないんですか!?」


 僕は思わず叫んだ。彼女は皇国最強の詩女、「詩女姫」だ。その歌声には、戦況を一変させるほどの力があると聞いている。ヴィオラの奇跡のように暴徒の鎮圧くらいできるはずだ。


 だが、タリア様は悲痛な声で叫び返した。


 『不可能です! 敵と味方が入り乱れています! 今、私の歌を使えば……私を守ってくれている警備隊の兵士ごと、全員が狂死してしまいます!』


 その言葉に、僕の背後のヴィオラがハッと息を呑んだ。ヴィオラだけが理解したようだった。タリア様の歌は、広範囲を無差別に巻き込むほど強力すぎるのだ。敵味方が密着した乱戦ドッグファイトで歌えば、それは無差別の大量虐殺となり、自軍も全滅する。

 彼女は最強の兵器を持っているがゆえに、この状況では歌うことさえ許されない「無力」でいるしかないのだ。


 『きゃぁっ!! 離して……やめてくださいまし……ッ!』

 『詩女姫様をお守りしろ! 姫様には歌わせるな、下がるんだ!』


 護衛の兵士の絶叫と共に、通信機から破壊音が響き、プツリと途絶えた。


 「クソッ、リアン! 応答しろ!」


 僕は叫ぶが、リアンからの応答はない。


 『―――聞こえているな? エコー、リンク、カイト』


 不意に、通信機から絶対零度の声が響いた。

 皇帝カルヴァドだ。彼は僕の通信を傍受していたのだ。


 「陛下! 今の通信、タリア様が……!」


 『状況は把握した。……詩女姫の歌は、乱戦では封じ手だ。彼女は今、ただの無防備な要人に過ぎない』


 カルヴァドの声には、焦燥を押し殺しながらも混乱するような感情をが見えた。


 『影たちよ、ただちに北進せよ。国境警備隊と合流し、詩女姫を確保しろ。……暴徒と化した敵兵は、排除して構わん。皇国の至宝に指一本でも触れた者は、生かしておくな。』


 「陛下、影として陛下の命令はお受けできません。」


 カイトが静かに告げる。


 「詩女姫の損失より、我が国の人民の損失の方がはるかに大きいと考えます。我々影は増援到着までの間にノルヴェンガおよび国境での国民の避難誘導任務が適任であります。」


 『影よ、余に詩女姫を見殺しにしろというのか!』

 

 「詩女姫もお覚悟を持って任務にあたられていたはずでございます。我々は詩女姫の意志を尊重します。」


 カルヴァドに選択肢はなかった。通信機の向こうでは机を叩く音が響いた。

 

 『……影どもは周辺地域の民の安全を確保せよ。余は本隊を率いて北上する。ガザン将軍、貴公の部下の不始末、高くつくぞ。』


 通信が切れる。ガザンは自身の軍用無線機を掴み、怒鳴り散らした。


 「第3大隊! 応答しろ! 私だ、ガザンだ! ……クソッ、どいつもこいつも! 飢えで耳まで腐ったか!」


 ガザンは無線機を地面に叩きつけた。あと数時間待てば、正規の手続きで食料を持ち帰れたのだ。だが、極限状態の飢えが、軍隊をただの暴徒へと変えてしまった。


 「……来るぞ。あいつらは、ここの匂いを嗅ぎつけて来る。」


 ガザンが呻くように言った。ノルヴェンガは国境に近い。雪崩のように押し寄せた暴徒たちが、この村に到達するのは時間の問題だ。


 「サリヴァ軍が来るだって!?」

 「食い物を奪いに来るぞ! 殺される!」


 村人たちがパニックに陥り、逃げ惑い始めた。恐怖が伝染し、暴動寸前になったその時。


 「落ち着きなさい!」


 澄んだ歌声が、冷たい風に乗って響いた。ヴィオラだ。彼女は混乱する人々の真ん中に進み出る。その瞬間、彼女の黒曜石のような瞳の奥で、キラリと真紅の光が一瞬だけ鋭く輝いた。


 「まだ、方法はあります!皆さんの力を貸してください。」


 ヴィオラの声は、決して大きくはない。だが、その声はパニックに陥る村人の心に深く染み入る。それは、村人たちの足を強制的に止める、その場にいる人間に対する絶対的な力だった。


 「あ……。」


 暴発寸前だった群衆の殺気が、雪解けのように消え去っていく。ヴィオラの声に、人々の恐怖が取り払われ、冷静さを取り戻させた。全員がヴィオラの方を向いて次に発せられる言葉を期待した。異世界から来訪した僕からすると異様としか思えない。そんなことができてしまうことに、恐ろしさを感じる程だった。


 「……これが、詩女の力か。」


 ガザン将軍が、呆然と呟いた。彼は先ほど通信で聞いた、強力だが味方をも巻き込む「詩女姫の力」と、目の前で群衆を沈静化させた「ヴィオラの力」の違いをまざまざと見せつけられたのだ。

 ……皇国最強と言われる詩女姫様の歌は、戦場そのものを破壊する嵐。対してヴィオラの声は、心を縫い止める針と糸だ。


 僕はヴィオラの横顔を見つめた。瞳の奥の赤い光はもう消えている。

 この場を鎮められるのは、タリア様のような強大な破壊力ではなく、繊細な制御力を持つ彼女だけだ。

 ガザンは帽子を取り、ヴィオラに向かって深く頭を垂れた。彼はその「奇跡」を目の当たりにして、初めて詩女という存在の真価を理解したのだった。

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