天秤に乗せられない遺物
「オルノブ様、このような日陰にあなたが訪れるとは思っておりませんでしたよ。」
オークション会場はホテルの地下劇場だった。オルノブ嬢に連れられて、僕とヴィオラはホールに向かう途中で主催者と思わしき初老の男性に止められた。ガリガリに痩せたその男には、いくつもの指輪がはめられている。何となく、胡散臭い感じが漂う男だ。彼がオルノブの商売敵のデミル・シャヒン。マルティアでは有名な商人で、何でも商品にするその様はデセリオンの禿鷹と呼ばれているらしい。
「あら、デミル様。こんな素敵なオークションを開催して、興味を持たない商人なんかおりませんわよ。私みたいな匂いに敏感な人間に隠しても無駄ですわ。」
「それにしても、お連れ様は見かけないお顔ですな。お嬢様の用心棒としては少々心許ないお連れ様ではございませんか?」
デミルは僕と、特にヴィオラのことをジロジロと舐め回すように眺める。僕はその失礼な態度を無視してヴィオラに目をやるが、彼女はフードを目深に被り、全く表情が見えなかった。
「あら、失礼なことを仰らないで。二人は用心棒などという野蛮な役割ではありませんわ。」
ほうと、デミルが目を細める。
「紹介します。彼はミズキ、彼女はヴィオラ。わたくしが全幅の信頼を置く、専属の鑑定士です。」
「鑑定士ですか?」
「ええ、どうもこちらのオークションに並ぶ商品、扱いづらいものばかりと伺っておりますので。」
ふん、とデミルが鼻を鳴らすが、オルノブは一礼をして、僕らを従えて会場に入っていく。すでに彼女は臨戦体制のようだ。こんな場所に慣れない肝が冷える。
「いい? ミズキ、ヴィオラ。今日の主役はあくまで取引よ。派手な動きは無しでお願いね。」
席に着くとオルノブが、扇子で口元を隠しながら囁いた。マルティアの大商会のご令嬢である彼女は、この不穏な空気すら楽しんでいるようだ。対して、フードを目深に被ったヴィオラは不快そうに眉をひそめている。僕はため息を飲み込んだ。僕は皇帝に仕える神話編纂官であって、闇オークションのサクラではないのだが。
会場は怪しげな人物でひしめいていた。ヴァルナディアと敵対する国家であるサリヴァの将校、デセリオンの被人道的な実験を繰り返していると噂の科学者、軍拡派閥の僧侶、各地の紛争を煽っているという商人のご婦人。
皇帝の目が届かない霧の渓谷には、この国の腐敗で甘い汁を吸う人々が集う。
「では、最初の品だ!古代遺跡の深奥より持ち帰られた、真実の魔眼!これを装着すれば、闇夜を見通し、隠された敵の姿さえ暴き出す!」
ステージ上で布が取り払われると、複数のレンズが飛び出した、無骨な黒いゴーグルが現れた。 会場がどよめく。
「素晴らしい!あれぞまさしく神の視座!」
デセリオンの魔導科学者が身を乗り出して眼鏡を直した。
「あのレンズ構造……我らの科学の発展に寄与するに違いない!金貨八百枚だ!」
だが、僕の目には、それが全く別のものに見えていた。あれは『暗視ゴーグル(ナイトビジョン)』だ。 それも、軍用の最新鋭ではない。民生用の第一世代……僕が大学生の頃、サバイバルゲームで使っていた安物の中古品とそっくりだ。
懐かしいな……。金がなくて新品が買えなかったから、リサイクルショップで買ったっけ
あの頃の記憶が蘇る。重たいヘッドギア。緑色のノイズだらけの視界。そして何より、距離感が掴めずに足元がフラつく独特の浮遊感。調子に乗って走り回り、激しい3D酔いで吐きそうになった苦い思い出。
……待てよ? 僕はふと、気がついた。暗視ゴーグル。これらは古代文明の遺産じゃない。明らかに、「現代地球の工業製品」だ。それがなぜ、遺跡から発掘される?
……やっぱり、僕だけじゃ、ないのか?
僕が召喚されるよりもっと前。数十年、あるいは数百年前に、僕と同じようにこの世界に呼ばれた「誰か」がいたのだ。彼らは生き延びるために、持ち込んだ道具を使い、そして……ここで力尽きたのか?目の前のゴーグルが、急に物言わぬ同郷の友の遺品のように見えてきた。
だが、感傷に浸っている場合じゃない。落札を阻止しなければ。僕は大きく息を吸い込むと、広告代理店仕込みの「神妙な面持ち」を作って立ち上がった。かつての同胞が遺したこのポンコツを、あんなマッドサイエンティストの玩具にはさせない。
「博士、その『神の視座』……覗き込む覚悟はおありですか?」
会場が静まり返る。
「なんだと? 貴様、科学の進歩を恐れる口か?」
「いいえ。ただ、異界の窓は危険だと言っているのです」
僕はゴーグルを指さし、もっともらしい解説を始めた。
「私の故郷の伝承では、人の目に見えないものを見る道具は、同時に魂の平衡感覚を奪うとされています。あれを通した世界は、現実とは微妙にズレている……いわゆる歪んだ鏡なのです」
安物のナイトビジョン特有の映像の遅延や視野の狭窄。サバゲーで走り回って吐いたあの生理現象を、オカルト的な恐怖にすり替える。この世界の科学が未だ、錬金術に毛が生えた程度のレベルで良かった。
「あれを装着すれば、あなたは強烈な目眩と吐き気に襲われるでしょう。それは三半規管の異常ではありません。魂が肉体から乖離しようとする拒絶反応なのです」
「貴様、適当な出まかせを!魂が乖離するなど、非科学的だ!」
デセリオンの科学者が顔を真っ赤にして食ってかかる。会場の視線も、確かにそうだ、証拠を見せろという空気になる。
僕は動じない。むしろ、待ってましたとばかりに薄く笑う。安物のナイトビジョンには、致命的な欠陥がある。映像の遅延と視野の狭窄だ。これを霊的に言い換えればいい。
「博士。では、その『神の視座』の構造をご覧なさい。光を複雑なレンズで増幅し、像を結ぶ……その過程で、時間が失われていることにお気づきになりませんか?」
「時間……だと?」
「ええ。そのレンズに映る世界は、現実よりもほんの数瞬だけ遅れて見えているのです」
僕はゆっくりと、博士の目の前で手を振ってみせる。
「あなたが首を振った時、景色が遅れてついてくる。そのズレこそが、私の故郷で『魔が差す隙間』と呼ばれるものです」
僕は一歩踏み出し、畳み掛ける。
「目は『過去』を見ているのに、身体は『現在』にある。この認識の矛盾が起きた時、人の脳はパニックを起こします。『私は今、本当にここに存在しているのか?』と。それが激しい吐き気となり、平衡感覚の喪失となる。……私たちはそれを魂の幽体離脱の初期症状と呼んでいます」
博士がゴクリと喉を鳴らす。「映像の処理落ち」という技術的欠陥を、「過去と現在の乖離」という哲学的な恐怖にすり替えたのだ。
「もし疑われるなら、それを装着して、その場で三回ほど素早く回ってみてください。……まあ、その後であなたが、まっすぐ歩ける保証は致しかねますが」
僕はあえて「試せ」と挑発する。博士はゴーグルと僕の顔を交互に見比べ、脂汗を浮かべる。論理的であればあるほど、「時間のズレが脳にバグを起こす」という説明(ある意味では正しい科学的事実)は否定しづらいはずだ。
すかさずヴィオラが、気味の悪い声で補足する。
「……見えます。あのレンズの奥に、こことは違う場所……死者の国が。あれを着ければ、戻ってこられなくなるかもしれません」
ヴィオラの言葉は、あながち嘘ではないかもしれない。あの日、異世界から来た誰かが、あの緑色の視界の果てに孤独な死を見たのなら。
オルノブ嬢は顔を覆って笑いを堪える。
「……くっ、魂は科学者の分野ではない!」
博士は悔しそうに捨て台詞を吐き、椅子に深々と座り直した。勝負ありだ。
オルノブが優雅に手を挙げる。
「あら、誰も入札しないの? うちの鉱山で働く工夫の、夜間作業用の保護メガネにでもしましょうか。銀貨四枚で」
オルノブが安値で競り落とすのを見届けながら、僕は心の中でそのゴーグルに別れを告げた。
お疲れ様。変な博士に分解されるより、工夫の役に立つほうがマシだろ?
「続いての品は……こ、これぞ秘宝!守護の聖衣!あらゆる刃を通さず、炎さえも防ぐという伝説の織物だ!」
次に運び込まれたのは、薄汚れた灰色の布だった。一見ボロボロだが、ダルバン枢機卿が食いついた。教団拡大路線の大物らしい。
「素晴らしい!あれこそダルメア様が纏っていたという衣に違いない!金貨千枚からだ!」
僕は目を凝らす。 ……あれは、防弾繊維か、あるいは耐熱アラミド繊維の作業服の成れの果てだ。確かに刃物は通さないかもしれないが、問題はその保存状態だ。紫外線劣化でボロボロだし、何より……あの変色は、カビだな。
高機能素材も、手入れをしなければただのゴミだ。僕は鼻をつまむ仕草をした。
「……臭いますね」
「なんだと!?」
「いえ、霊的な意味ではなく、物理的に。その衣、加水分解の呪いにかかっていますよ」
僕は適当な専門用語を呪いの名前っぽく混ぜ込む。
「その衣は既に死んでいます。表面は硬く見えますが、衝撃を加えれば粉々に砕け散る。試しに、その端を少し強めに引っ張ってみては?」
主催者が恐る恐る布の端を引っ張る。ビリッ、と情けない音がして、伝説の聖衣があっけなく裂けた。
経年劣化で繊維の結合が弱まっていたのだ。
「ああっ!? 聖衣が!」
「見ましたか?あれはただのボロ布です。戦場で着ていれば、最初の矢で命を落とすことになる」
ヴィオラがまたもやボソリと呟く。
「……無念です。信じていた守りに裏切られた魂が、その布には張り付いています」
ダルバン枢機卿が「穢らわしい!」と叫んで席を立つ。すかさずオルノブが微笑む。
「ウエス(雑巾)にするには少し硬そうだけど……まあ、掃除用具として引き取りましょうか。銀貨三枚」
その後も、僕たちの独壇場は続いた。
英雄の万能薬と紹介された小瓶の中身を、「これはただの重金属汚染水ですね。飲めば内臓が溶けます。」(これは、強酸性の洗浄液だった)と看破し。全知の石板と崇められる板を「ああ、これはエラーログという、過去の失敗の記録です。持つだけで気分が滅入りますよ。」(割れたタブレット端末だった)と切り捨てた。
気づけば、会場の視線は主催者のデミルではなく、僕に集まっていた。
新しい品が出るたびに、デセリオンの科学者も、シィヴァ教の枢機卿もチラチラと僕の顔色を窺っている。僕が首を横に振れば入札せず、僕が頷けば……いや、僕が頷くことはない。全てオルノブが買い叩くために貶しているのだから。
隣でオルノブが、扇子の陰でクスクスと笑っている。
「いい気味ね。ミズキ、あなた本当にいい性格してるわ。うちの商会に来ない?」
「遠慮します。寿命が縮む。」
こうして、会場の空気が完全にシラけきったタイミングで、あの棺が登場することになった。
「次は……主催者も正体不明とする逸品だ。歴代ヴァルナディア皇帝の隠された墓所より暴かれたという、封印の棺!」
重々しい音と共に運び込まれたのは、金属製の箱だった。装飾は一切ない。無骨で、幾何学的で、明らかにこの世界の文明レベル、いや僕の世界をも超越したデザイン。背筋に冷たいものが走る。あれは、僕が召喚された時に肉体錬成というのに使われた何かの機械?いや、もっと危険なもののような……。
箱の中央にあるガラス窓の中を、ドクン、ドクンと脈打つように循環しているのは、赤黒い、粘り気のある光。まるで、凝固しかけた血液のようだ。
「素晴らしい!あれぞまさしく神の血、魔素を産むという聖なる遺物に違いない!」
シィヴァ教の枢機卿が立ち上がり、狂喜の声を上げた。
「あの力があれば、我らシィヴァ教の威光は盤石となる!金貨五千枚!」
「待て、枢機卿」
遮ったのは、北部の領主のゲオルグだ。古傷のある顔を歪め、獰猛に笑う。
「あれは兵器だ。この霧の谷の防衛にこそ相応しい。金貨六千!」
金額が跳ね上がる。オルノブが舌打ちをした。
「チッ、天井知らずね。私の予算を超えるわ」
だが、問題は金ではなかった。隣で、ヴィオラが震えていた。その震えは恐怖ではないのがわかる。あれは激しい怒りだ。
「……許されません」
彼女が立ち上がった。被っていたフードが滑り落ち、光沢のある黒髪が露わになる。同時に右手が真っ直ぐゲオルグを指した。
「それは皇国の祭事に使われるべきもの。そして、皇帝陛下の眠りを妨げたその不敬……ヴァルナディアの法に則り、直ちに返還なさい」
凛とした声がホールに響く。だが、ゲオルグは鼻で笑った。
「は?どこの小娘かと思えば……おい、ここは霧の谷だぞ?皇帝の法など、この霧の中までは届かんわ!」
ダルバンも嘲るように笑う。
「神の血は、神に仕える者が持つべきだ。下がれ小娘!」
警備兵たちが剣に手をかけ、ヴィオラを取り囲もうとする。
僕は止めに入ろうとした。だが、それより早く、ヴィオラの唇が動いた。
「──不敬ですよ」
彼女は、歌うように、しかし絶対的な響きを持って告げた。
「跪きなさい」
その瞬間だった。魔法のような閃光も、衝撃波も、何も発生しなかった。 ただ、世界から抵抗という概念が消え失せたかのような刹那、全ての音が消えた。
ガシャァッ!!
一斉に、本当に一斉に、その場にいた全員が崩れ落ちた。ゲオルグも、ダルバンも、剣を抜こうとした兵士たちも。まるで操り人形の糸を断ち切られたように、全員が床に額を打ち付け、ダンゴムシのように丸まって震え始めたのだ。
「あ……あ、あ……?」
ゲオルグが脂汗を流しながら、必死に顔を上げようとしている。だが、首から下が岩になったかのようにピクリとも動かない。彼の意思ではなく、肉体そのものがヴィオラの言葉に強制的に従属させられている。
……なんだ、これ?
僕は立ったまま、呆然とその光景を見ていた。僕には効いていない。そして隣を見れば、オルノブも真っ青な顔をしてはいるが、立っていた。
「……冗談でしょう。これが、詩女の本質……?」
オルノブが震える声で呟く。額から汗が滲み、足が震えているのが見えた。
これが彼女の使う魔法なのか?こんなに大勢を支配し、制御することができるのが詩女なのか?ダフタルスクでの熱狂も、今ここで行われている圧迫も、彼女の魔法の力だというのか。ゼルフィアが言っていた、ヴィオラの幻惑術、これが真の力だというのだろうか。
シンと静まり返った会場で、床に這いつくばる権力者たちを見下ろし、オルノブがふぅと息を吐いて笑みを浮かべた。商人の顔に戻る。
「さて。皆様、土下座してまで譲ってくださるなんて、なんて殊勝な心がけかしら」
オルノブは優雅に扇子を開いた。
「では、この棺はタダで回収させていただくわね。文句はないわよね?……ええ、声も出せないようですものね」
ヴィオラは悲しげに、赤黒く脈打つ棺を見つめていた。その横顔を見ながら、僕は改めて思い知らされていた。この世界に魔法はある。しかし、僕の想像とは違う形の魔法だった。目に見えず、派手な効果もなく、しかし絶対的な強制を強いる魔法。
確かに、こんなものを個人が持っていては危険すぎる。ヴァルナディア皇帝の権力下で管理される理由もわかる。他国の手に渡ったら、造反勢力に参加したらと考えれば、彼女を野放しにすることはできない。
ただ……、ただ、彼女が自由に生きる日は訪れてはならないのだろうか?
それは僕が青二歳の、異邦人だから簡単に言えるだけなのだろうか?
それが彼女の、宿命だからと割り切れるものなのだろうか?
僕の中で生まれてしまった葛藤の種は、今後も成長するだろう。その度にカルヴァドに楯突くかも知れない。だけど、僕にはその価値がある気がする。
このヴァルナディアという歪んだ世界は、いずれ歪みに耐えきれなくなるだろう。魔素からの脱却なんかを目指して、産業化を進めればいずれ誰もが欺瞞に気づく。それが弾ける前に、僕がソフトランディングさせる物語を書き上げなければならないのか。
「ミズキ……?」
ヴィオラはきょとんとして、さっきの奇跡が当たり前かのように僕の名前を呼ぶ。昆虫のように縮こまっていた周りの人たちは、絶対的な支配から解放されたらしく、椅子に座り直したり、立ちあがろうとしたりしていた。
「魔女だ……!ヴァルナディルの魔女だ!」
誰かが声をあげると、一斉に会場は恐怖と偏見の声で満ちる。
「あれはヴァルナディルの魔女だ!」
「闇を呼ぶ魔女に違いない!!」
「ちが、違うんだ!彼女は……」
と僕が言いかけると、オルノブがズカズカとステージに上がり、デミルの胸ぐらを掴んでいた。美人で長身で派手なドレスのオルノブが一気に会場の視線を奪った。
「さぁ、私が今までの商品、全て落とさせていただきました。契約のサインをさせていただくわ。」
この女傑の行動はあまりにも華麗であまりにも早すぎる。
「会場の皆様の大変見苦しい姿を見させ、いえ、ご迷惑をおかけしました。初めてヴァルナディア風の挨拶をしたものですから、不慣れなことをしてしまいましたわ。良い買い物ができましたので私はここでお暇させていただきます。」
オルノブが僕とヴィオラにウィンクして合図をする。撤収の時間だ。
劇場の重い扉を押し開け、ロビーへと出た瞬間だった。 オルノブが立ち止まり、大理石の床に片足の踵を思い切り叩きつけた。バキッ! 硬質な音が響き、ハイヒールが折れる。彼女はもう片方も同様にへし折ると、ドレスの裾をまくり上げた。
「思ったよりも時間を食ってしまったわ。走るわよ!」
彼女の計算では、リアン率いる影たちが、攫われた子供たちを救出するためにこのホテルを包囲する時間が迫っているはずだ。ここは大捕物の舞台になる。巻き込まれる前に、僕たちは一旦このカジノから撤収し、商品の受け渡し場所まで身を隠す手筈だった。
ロビーへの階段を一気に駆け上がり、正面玄関の回転扉が見えた時だった。
「商品が盗まれたぞ!捕らえろ!」
背後から、デミルの金切り声が響く。「気がついたな、あの強欲爺!」とオルノブが毒づいた瞬間、目の前に二つの巨大な影が立ちはだかった。
オークションの用心棒だろう。岩のような筋肉をスーツで包んだ巨漢が二人。ヴィオラが即座に動いた。低い姿勢から鋭い足技を繰り出す。だが、相手が悪すぎた。巨体は微動だにせず、逆に彼女の細い腕を掴み上げると、腕を一捻りして捉えてしまった。
「きゃっ!?」
同時に、オルノブも動いていた。彼女は武術の心得があるのか、もう一人の男の腕に飛びつき、新体操のような身軽さで首を内腿で締め上げる。だが、男は鬱陶しそうに腕を振るっただけで、彼女を床へ叩きつけた。
「ぐぅっ……!」
大理石に身体を打ち付けたオルノブが、苦悶の声を漏らしてうずくまる。
圧倒的な質量差。僕は立ち尽くしていた。武術の心得もなければ、喧嘩なんて小学生以来したことがない。足がすくみ、心臓が破裂しそうだ。だが、二人が殺されるのを黙って見ているわけにはいかない。どうすればいい?わからない。
それでも、身体を動かせ!せめてこの腕が、鋼鉄のように硬く、重ければ──!
僕は無我夢中で、一番近くにいた男へ拳を突き出した。
きっと、無様で弱々しいパンチだったはずだ。
だがその瞬間、僕の意識は唐突に『白い世界』へと引きずり込まれた。
(……なんで、こんな時に!)
音が消える。スローモーションの世界。視界の端に、チクタクという時計の針の音と共に、かつて住んでいた僕の部屋の風景がフラッシュバックする。PCの明かり、読みかけの本、コンビニの袋。懐かしくも無機質なその光景が、僕の脳裏で警報のように明滅した。
──干渉ヲ確認。形状定義、変更。
誰かの、あるいは僕自身の思考ではない何かの声が聞こえた気がした。早く、早く戻らなきゃ。彼女たちを助けなきゃ!
「ミズキ!」
ヴィオラの叫び声で、意識が弾け飛ぶように現実へ戻る。直後、僕の右腕に凄まじい衝撃と、あり得ない質量の感覚が走った。
肉がぶつかる音ではない。重機が壁に激突したような轟音。僕の右腕は、無骨な鉄骨のように肥大化し、銀色に硬質化して、ヴィオラを掴んでいた男の顔面にめり込んでいた。男は悲鳴を上げる暇もなく、泡を噴いてその場に倒れ込む。
どうなっているんだ。呆然とする僕に、もう一人の男が怒号と共に突進してくる。戦車のようなタックル。スローモーションのようにそれが迫る。
意識は反応できても、変異した右腕が重すぎて身体がついていかない。
だめだ、避けきれない──!
死を覚悟した、その時だった。突進してきたはずの男が、糸が切れたように白目を剥き、どうと倒れ伏した。
「皆さん、遅れました」
男の背後から、音もなく少年が現れる。リアンだ。彼の手には細いワイヤーが握られており、一瞬で巨漢の頸動脈を締め落としたのだ。彼は流れるような手つきで、気絶した二人を拘束していく。
「あとは任せて、早く外へ!」
その言葉に我に返り、僕は自分の右腕を見た。袖は弾け飛び、ボロボロになっていたが、腕そのものは元の「人間の肌」に戻っていた。今の硬質な感触は、一体何だったんだ? 肉体錬成のエラー?疑問は尽きないが、今は考えている場合じゃない。
「行きましょう!」
ヴィオラがオルノブの肩を抱き起こす。僕たちは急いで回転扉を抜け、夜の霧の中へと飛び出した。 騒ぎを聞きつけた野次馬たちが集まり始める中を掻き分け、通りの外で待つカシムの馬車へと転がり込んだ。
「コルセットを付けていなかったら、骨が折れていたかも知れないわね。」
ヴィオラが支えながらオルノブが顔を上げた、とりあえず無事なようだ。ただ、二人は僕の腕をじっと見つめていた。
「それより、ミズキ、何をしたんですか?どうして右手が......」
僕の身体の中で、何かが決定的に壊れ、あるいは目覚めようとしている。自分の意思でできるものなのか、それとも、何か切っ掛けがあったのかわからない。ただ、あの一瞬、腕が鉄骨のような何かに変化し、元に戻った。大体の物理法則が元の世界とほぼ同じこの世界で、僕もまた魔法という奇跡の恩恵を受けた。
初めて出現してしまった魔法に、僕自身、冷や汗が止まらなかった。




