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ヴァルナディア皇国神話編纂記  作者: 砂川百足
第一章 編纂篇
13/24

編纂官の選択

 「ミズキ、言われた通り、お茶と海産物を購入しました。あとはお米で包むだけですが、これが交渉の役に立つのでしょうか?」


 マルティアの朝市から帰ってきたヴィオラは自分が役に立てているか不安な表情を浮かべていたが、僕はにっこり笑って応えた。


 「僕の国ではね、腹が減っては戦はできぬという諺があるんだよ。みんなの英気を養うのは君にかかっているんだよ。」


 僕たちは今まで以上に働いた。シャオは女王マリサとの非公式会談を取り付けた。どうやらオルノブと取り引きしたと聞く。アルヴィン中将もマルティア海軍のガレス提督の元を訪問し、マリサに非公式会談開催を進言するように頭を下げた。スディルマンとザイナブは関税が撤廃された場合を考えて条約内容を見直し、リアンは各地に潜む「影の月」たちの情報を精査して、シャオの情報の裏取をさせた。


 そして、僕とカルヴァドはマリサが食いつくようなプレゼンをまとめあげる。


 ヴァルナディア外交団は一丸となって働いた。失敗は許されない。人手の足りない中、お互いカバーし合う姿はチームとして完成しつつあった。昼を過ぎたところでヴィオラとカシムが握ったおにぎりが振舞われた。


 夕刻、公式の会議場ではなく、ウルバーラを見下ろす丘の上にある、マリサ女王の私邸へと招かれた。

 庭園には、ガス圧で動く精巧な自動カラクリ(オートマタ)が働いている。ぜんまいと歯車、そしてアグニ油の燃焼は、この国の科学力の象徴だ。

 

 参加者は最小限に留められた。マリサは優雅に紅茶を飲んでいたが、その目は笑っていなかった。


 「さて。昨夜の非礼を詫びるつもりはないわ、カルヴァド。でも、あなたの連れ――シャオが持ち込んだ情報には興味があってね。」


 シャオが地図を広げ、ハン国の情勢を説明する。内戦の激化、国境の崩壊、そして予想される数十万人の難民。それが起こるだろう最短の予測期限は半年。最長でも二年以内に起こることは確実だと伝えた。


 マリサの表情が曇る。ガレス提督にとってはマリサ以上に痛い所をつかれただろう。実際にマルティアの防衛状況を把握しているはずだ。


 「こんな所で開示するということは根拠はお有りなんでしょうな。」


 ガレス提督が鋭く聞き返すが、被せるようにシャオが一枚の紙をテーブルに置いた。それはヴァルナディアにハンの侠客、ウーから巨額の送金をさせた記録だった。マルティアでも彼の名前は轟いていた。


 「ハンの国の協力者と内通しております。」


 マリサはシャオの顔をチラリと見てから扇子を口元に当てる、表情を悟らせまいとしていたのだろう。


 「……最悪ね。難民が押し寄せれば、ウルバーラの労働市場は崩壊し、治安は悪化する。自由競争社会において、貧困層の急増は死を意味する。」


 「そこで、我々からの提案だ。」


 カルヴァドが口を開いた。


 「難民の受け入れ先として、我が国の新港ダフタルスクを提供する。そのための海上封鎖と輸送護衛には、我が海軍が全力を挙げる。」


 「あなたたちが? 何のメリットがあって?」

 マリサが怪訝そうに眉をひそめる。

 「ヴァルナディアに、そんな余裕はないはずよ。」


 こちらの経済状況も把握されているのだろう。


 「ええ。善意ではありません。」


 僕は一歩前に出た。ここからは僕のステージだ。


 僕は、昨夜徹夜で描き上げた一枚の巨大な図面をテーブルに広げた。

 それは、ハン国、マルティア、ヴァルナディアを含む大陸の地図だが、国境線は薄く、代わりに太く黒い線が、地下を這うように描かれていた。


 「女王陛下。これは『パイプライン』です。」


 「パイプライン? 水道管のお化けみたいなもの?」


 「はい。ダフタルスクの地下で発見された古代の遺産です。かつてこの大陸全土にエネルギーを供給していた()()()です。」

 僕は、黒い線を指でなぞった。

 「マルティアは、火山から湧く『アグニ油』という無限に近いエネルギーを持っています。しかし、産油場所はどこも島ゆえに、それを大陸へ大量輸送するには船が必要で、コストがかかる。アグニ家の筆頭当主のマリサ女王陛下にとっては釈迦(ダルメア)説法(キセキ)だったかもしれません。」


 マルティアは国土のほとんどが島国だ。大陸と繋がった半島の先端がウルバーラだ。すでにウルバーラですらアグニ油を運輸するのにも経費がかさみ、産油量は増えても、コストダウンすることができないでいた。そのため、アグニ油はあるものの、買い手がつかず、マリサ女王がインフラ投資として抱え込む事態になることは予測されている。


 マリサの右眉が吊り上がる。彼女の悩みの種を正確に突いたと確信した。

 

「もし、ダフタルスクのパイプラインを再稼働させ、海底トンネルでマルティアと直結させたらどうなるでしょう?」

 僕は畳み掛けた。

 「ハン国の難民は、このパイプラインを修復・建設するための安価な()()()です。そして、パイプラインが開通すれば、マルティアのアグニ油は、船を使わずに大陸の奥深くまで直接送り込める。」


 僕は、もう一枚の絵を見せた。

 それは、マリサ女王が巨大な蛇口に手をかけ、他国の王たちがその滴りを待って跪いている風刺画風のイラストだ。そこにカルヴァドの姿はあえて描かなかった。意図はある。


 「エネルギーの蛇口を握るのは、技術と資源を提供するマルティアと、土地と労働力を提供するヴァルナディア。……つまり、我々二国が、大陸の心臓となるのです。」


 これは勝機のある賭けだ、彼女は絶対に喰らいつく。

 彼女の性格やカルヴァドとの過去の関係をカルヴァド本人から聞きだした。もし、回顧録でも書くことがあるなら全部暴露してやろうと思うくらい根掘り葉掘り聞いてやったさ。

 さあ、マリサ、僕の餌に乗りやがれ。


「私があなたに売りつけるのは剣を持たずに、世界を支配する方法です。」


 静寂が場を支配した。


 オルノブが、感嘆の吐息を漏らす。

 「……素晴らしい。これは錬金術ですわ。ゴミだと思っていた難民と地下の管が、黄金の道に変わる。」


 マリサは、しばらく絵を見つめていた。僕が仕込んだ毒に気がついてくれたのだろうか?気丈で計算高い女王が気が付かないわけがないはずだ。

 これは、ヴァルナディアとマルティアの共犯関係を表している。ダフタルスクがパイプラインの始点(バルブ)になれば、ヴァルナディアは大陸へのエネルギー供給の主導権を握れる。

 カルヴァドを描かなかったのはこの絵を描かせているのがカルヴァドであることを意味していた。


 気づけ、気づけ、気づけ!


 マリサは未だ絵を睨み続けている。流石の長さにマルティア側にいるオルノブもガレス提督も動揺し始めた。

 陸軍の弱いマルティアからすれば、難民の流入は軍事的に抑えられるものではないはずだ。だから、この提案に乗るしかない。だが、女王は微動だにしない。


 カルヴァドからポーカーフェイスの保ち方を教えてもらって正解だった。ひたすら番猫のことを考えると耐えられるらしい。(なんて可愛らしい方法だ!)


 やがてマリサは顔を上げ、艶然と微笑んだ。


 「……ふん。今日は、随分とえげつない絵を描かせたものね。」


 カルヴァドは長いまつ毛すら一切動かすことはなかった。ただ、ほんの少し、口角が上がったように見えた。女王の瞳に、カルヴァドへの個人的な執着ではない、純粋な「野心」の火が灯ったのが見えた。

 

「いいでしょう。この黒い動脈計画、乗ってあげるわ。詳細はオルノブ、あなたが詰めなさい。」


 交渉成立。

 カルヴァドとマリサの視線が交差する。そこには、かつての恋人としての甘さはなく、同じ野望を共有する共犯者の信頼があった。これが今のマリサが欲していたものだ。

 気づけば僕は胸に手を当てて、肩で短い息を何度も何度も吐き出していた。過呼吸寸前といったところだった。


 夜風が涼しくなった頃、宿舎の前に轟音を立てた一台の車が現れた。

 火焔車(ジュティ・モービル)と呼ばれる、マルティア製の最新鋭自動車だ。マルティアには未だ十台もない国宝みたいなものだという。アグニ油を燃焼させ、ピストンを動かす内燃機関の音が、腹に響く。


 運転席に座っていたのは、豪華なシルクのストールにイブニングドレスをキメたマリサ女王自身だった。


 「乗りなさい、神話編纂官。少しドライブしましょう。」


 ヴィオラとシャオが神妙な顔をしたが、カルヴァドが好きにしろと言ったので僕は興味本意で女王のお相手をすることにした。異世界の女王様だ。ついていかないなんて、勿体無いだろう。

 車は黒煙を吐き出しながら加速し、煌びやかな表通りを抜け、街の裏側へと向かった。舗装されていない道での走行は尻に響く。


 「どこへ?」


 「私の国の影を見せてあげるわ。」

 

 到着したのは、工場の煙と廃液にまみれた、広大なスラム街だった。

 油灯の光も届かない闇の中で、労働者たちが疲れ果てて眠っている。


 「これが、自由と科学の代償よ。」


 マリサはハンドルを握ったまま、自嘲気味に言った。

 「勝者は全てを得る。でも、敗者には煤と油しか残らない。私はこの国を強くしたけれど、同時にこの闇も生み出した。……カルヴァドが私を拒んだ理由も、分かる気がするわ。彼は優しすぎるもの。」


 彼女は、女王の仮面を外し、孤独な支配者の顔をしていた。


 「ねえ、編纂官、あなたのお名前はなんて?」


 「僕はミズキです。ミズキ・イチカワ」


 マリサが僕の顔を覗く。この女王は怖いもの知らずらしい、他人との距離が近すぎる。髪の毛からだろうか、ほのかに甘い香りがした気がする。


 「ヴァルナディアはそのうち滅亡するわ。十年、いえ百年それを先延ばしにしたとしても、いずれ滅亡するでしょう。中身が腐っているもの。」


 「そうしないために僕が呼ばれたんです。」


 女王は、上半身を完全に僕の方に向けた。彼女の光沢のあるドレスのスリッドから美しい太ももが顕になった。なんて目のやり場に困る女王陛下なんだ。


 「あなたは知らないの?彼の左腕のことを。」


 マリサが寂しそうに僕の左腕を細い指先でそっとなぞった。何が起きてるというんだ、なんだか分からないがすごく恥ずかしいことをされているような気がする。それに、カルヴァドの左腕に何があるというんだ。この世界で、初めて情熱的なアプローチを受けた僕は、先ほどの極秘会談よりも緊張していた。頭が沸騰しそうだ。


 「カルヴァドは自分の国と心中することを決めている。……でも、あなたは違う。」


 指先までなぞった彼女の手が、突然僕の手に重ねられた。


 「あなたの異界の知識と物語を作る力で、この国の影を照らしてほしい。私の四番目の夫にならない? あなたとなら、もっと面白い国が作れるわ。悪いようにはしない。」


 甘い、悪魔の誘惑に心臓が早鐘を打つ。追い討ちをかけるように彼女は身を乗り出して僕に近づく。


 「あの時、私が殴り飛ばす前、カルがなんて言ったかわかるかしら?」


 彼女の唇が僕の耳元で何か囁いた瞬間、真っ白になった。

 比喩でなく、本当に真っ白な世界にぶっ飛んだ。いつものアレだ!カルヴァドがなんて言ったか本当に心の底から下品な好奇心から知りたかった。そんなことを考えているうちに、カチカチという機械音が聞こえていつもの僕の部屋が薄ぼんやり見える。


 「ねぇ、聞いてる?」


 突然顔を両手で押さえられて、()()()()に引き戻された。


 「ね、どうかしら?私とあなたなら、きっと素敵な国が作れるわ。」


 マリサの誘惑は魅力的だ。この科学力と富、そして女王の夫という地位。元の世界の冴えない生活とは比べ物にならない、栄光の未来が約束されている。


 「……光栄なお誘いです、女王陛下。」


 それでも真っ先に僕の脳裏に浮かんだのは、暁の丘で星を見上げたヴィオラの顔と、傷だらけの唇で笑ったカルヴァドの顔だった。


 僕は、彼女の手をそっと外し、真っ直ぐに彼女を見つめ返した。


 「でも、お断りします。僕は、まだ書きかけの物語があるんです。結末も決まっていない、泥臭くて、不格好な物語ですが……それを完結させるまでは、どこへも行けません。とてもめんどくさいクライアントが、僕の物語を待っています。」


 一回、真っ白の世界を挟んだことによって、白けたというのもある。大体、四番目の夫だぞ。いくらマリサが美人だとしても、それはそれで悲しい身分だ。冷静になると色々とわかる。マルティアの結婚に愛という意味はほとんどない。競争社会で有利になるための取捨選択だ。僕が、ポンコツだとバレてしまったら彼女は速攻損切りする未来が見えた。


 マリサは一瞬、驚いたように目を見開き、それから可笑しそうに声を上げて笑った。


 「あはは! 振られるのは二度目ね。とんでもない大きな幸運を自ら逃すとはね。ヴァルナディアの男という生き物は、どうしてこうも損な生き方が好きなのかしら。」


 彼女はエンジンを轟かせ、アクセルを踏み込んだ。


 「いいわ、ミズキ。私もその物語、最後まで見届けてあげる。……でも、もしカルヴァドが死んだら、その時はまた誘いに来るわよ。」


 火焔車は再び光の街へと戻っていく。


 バックミラーに映るスラムの闇は、僕がこれから背負う「責任」の重さを無言で訴えかけていた。宿舎に戻ると、ヴィオラがおにぎりを作って待っていてくれた。正直、女王陛下と過ごすのは疲れる。今日はこれを食べて眠ろう。


 交渉三日目の朝。ウルバーラ王立国際会議場の大会議室には、初日とは打って変わって、冷徹だが建設的な空気が満ちていた。テーブルの上には、両国の官僚たちが徹夜で詰め、アルヴィン中将が法的な整合性を完璧に整えた「ハン国難民対策および経済相互協力条約」の最終草案が置かれている。


 「……いいでしょう。この条件で手を打ちます。」


 マリサ女王が、万年筆を走らせ、署名した。


 その内容は、ヴァルナディアにとって決して甘いものではない。関税の撤廃や、ダフタルスクにおけるマルティア企業の優遇措置など、経済的にはかなりの譲歩を強いられている。


 だが、その見返りとして、我々は最新鋭の蒸気機関技術と難民受け入れのための巨額の資金援助、そして何よりマルティアとの軍事同盟を手に入れた。

 カルヴァド陛下も署名を終え、立ち上がった。

 二人の視線が交差する。そこにはもう、初日のような刺々しい敵意もなかった。あるのは、互いの国益を背負い、利用し合う対等な王としての緊張感だけだ。


 「カルヴァド。あなたの計画に乗ってあげるわ。でも忘れないで。もしあなたが約束を違えたり、国内の反対派に負けて失脚したら……」


 マリサは妖艶に微笑み、僕の方を一瞥した。


 「その時は、この可愛い編纂官と、ダフタルスクの利権は私が頂くわ。違約金としてね。」


 「肝に銘じよう。だが、そのような日は来ない。」


 カルヴァドは短く答え、手を差し出した。

 マリサはその手を強く握り返した。歴史的な同盟が成立した瞬間だった。


 僕はその光景を見ながら、安堵と共に重い疲労を感じていた。僕が描いた「黒い動脈」の絵図面が、本当に世界を動かしてしまったのだ。


 午後、出航の準備が整ったエジュデルハ号のタラップの下には、大量の物資と共に、一人の女性が立っていた。

 オルノブだ。彼女は、マルティアの最新ファッションである細身のスーツに身を包み、背後には大量の書籍や実験器具を抱えた学者や技術者の一団を従えている。

 彼女はカルヴァド陛下に対し、ダフタルスクでの学校制度の実験を提案し、同志としての契約を交わした。その姿は凛々しく、新しい時代の到来を予感させた。


 その技術者集団の中に、見知った顔があった。キャスケット帽を目深に被った青年、リアンだ。

 彼は大きな製図ケースを背負い、他の技術者たちと談笑している。


 「リアン君? 君も行くのか?」


 僕が声をかけると、彼は人懐っこい笑顔で駆け寄ってきた。


 「おや、ミズキさん! ええ、僕もダフタルスク行きです。」

 彼は背負った製図ケースをポンと叩いた。

 「実は僕、ウルバーラの造船所で修行中なんですけど、僕の師匠の設計士がダフタルスク赴任に決まりましてね。面白い仕事があるから来いって言われて、ついて行くことにしたんです。」


 「へえ、造船士を目指していたのか。てっきり……」


 僕は言葉を濁した。「影の月」の任務だけが彼の全てだと思っていたからだ。

 リアンは僕の意図を察して、悪戯っぽくウィンクした。


 「諜報も大事ですけど、手に職をつけるのも大事ですからね。それに、ダフタルスクなら、新しいことがたくさんできるんでしょ?そんな面白い場所、潜伏……いや、参加しないわけにはいきませんよ。」


 「しっかりしてるなぁ。……あっちに行ったら、美味しい店でも教えてよ。君、詳しそうだし。」


 「任せてください! ダフタルスクの屋台街もなかなか熱いって聞いてます。あ、でもマルティア風の味付けが恋しくなったら、僕がスパイスを調合しますよ。」


 「それは助かるよ。皇国の料理は、たまに味が優しすぎて物足りなくなるからね。」


 僕たちは、仕事や任務の話ではなく、若者らしい世間話で盛り上がった。異国の地で、同じ釜の飯を食う仲間のような、不思議な連帯感が生まれていた。


 「じゃあ、ミズキさん。ダフタルスクで会いましょう。面白い船、作ってみせますよ!」

 「ああ、楽しみにしてる。」


 リアンは師匠と思われる厳格そうな老人に呼ばれ、手を振りながら技術者たちの列に戻っていった。彼の背中には、果てなき好奇心と未来への希望が感じられた。それは僕が元の世界で、ドロドロに溶かしてしまったものだろう。


 出航した船の甲板で、遠ざかるウルバーラの街並みを眺めていると、ヴィオラが隣に来た。

 彼女は、船室で資料を広げているオルノブの方をちらりと見て、沈んだ声で言った。


 「……すごい方ですね、オルノブ様は。」


 「うん。自分の国の欠点を見抜いて、それを治すために他国で実験するなんて、発想のスケールが違うよ。」


 「陛下のお隣に立たれても、一歩も引けを取らない。……私とは、違います。」


 ヴィオラは手すりを強く握りしめた。


 「私は、陛下が殴られた時、何もできなかった。ただ怯えていただけでした。でも、オルノブ様はすぐに動いて場を収め、今また、国の未来を変えるための具体的な力を持ってこられた。……あの方のような知恵と力こそが、今の陛下に必要なのですね。」


 彼女の言葉には、憧れと、それ以上に深い無力感が滲んでいた。

 幼い頃から「お兄様」と慕い、詩女として支えると誓った相手。その隣に立つために必要なものが、単なる献身だけではないことを、オルノブの存在が突きつけていた。


 「ヴィオラ。」

 僕は彼女の方を向き、真剣に言った。

 「オルノブさんは仕組みを作る強さを持っている。でも、君には心を繋ぐ強さがあるじゃないか。」


 「心の、強さ……?」


 「そうだよ。教育や法律だけじゃ、人は動かない。君は、タルナ村の人々の心を動かし、ラザークの僧侶たちを説得した。マルティアでもそうだったじゃないか。君が歌を歌ってくれた時、会場にいた人たちの心を動かしただろ。それは、計算や論理だけじゃできないことだ。人の心に寄り添い、希望を灯す力。……今の陛下には、オルノブさんのような頭脳も必要だけど、君のような心も絶対に必要なんだ。」


 僕の言葉に、ヴィオラは少しだけ顔を上げた。


 「……ありがとう、ミズキ。貴方はいつも、私が欲しい言葉をくれる。」


 彼女は微かに微笑んだが、その瞳の奥にある不安の色は消えていなかった。


 夕日が海を赤く染める頃、僕は自室に戻り、鞄を開けた。

 そこには、別れ際にマリサ女王から渡された、分厚い封筒が入っていた。


 『これは手切れ金代わりの、私からのプレゼントよ。』


 中に入っていたのは、金貨でも宝石でもなかった。

 それは、マルティア王国の「社会問題白書」だった。

 スラムの犯罪率、環境汚染のデータ、格差の統計、そして、アグニ油の採掘による健康被害の報告書。


 光り輝く自由の都の、隠された闇のデータの全てだ。これは、オルノブが解決しようとしている問題の根源でもある。


 手紙が添えられていた。

 『自由は素晴らしいわ。でも、それは完璧じゃない。私たちは科学で豊かになったけれど、心を置き去りにした。……ミズキ。あなたが作るヴァルナディアの「新しい物語」が、私たちの失敗を乗り越えるものになることを期待しているわ。もし、もっとマシな結末が描けたら……その時はまた、私を口説きに来なさい。』


 「……なんて重い宿題だ。」


 僕は苦笑しながら、書類を閉じた。


 マリサは、僕をただの「面白い男」として気に入っただけじゃない。僕という「異邦人」を通して、自分たちの文明の限界を超える答えを探そうとしているのだ。


 窓の外では、エジュデルハ号の魔素炉が唸りを上げ、黒い煙を吐き出している。

 僕たちは、最新の技術と、志を共にする仲間を手に入れた。


 だが、帰るべき皇国には、まだシィヴァ教という巨大な壁と、国境警備隊カルダという火種、そして魔素の真実という爆弾が待っている。


 「帰ろう。僕たちの戦場へ。」

 僕はマルティアで手に入れた万年筆を握りしめ、新しいページを開いた。

 物語は、まだ終わらない。ここからが、本当の激動の章だ。

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